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第6話
講義が終わると、サークルの集まりに向かうという北斗と別れて篤史は棟から出た。三限目終わりのキャンパスはまだ陽も高く温かい。サークルに所属していない篤史は特にすることもなく、かといって真っ直ぐに帰る気にもなれずにふらふらと図書館に行って本を借りた。やたら威圧感のある書体で統計論、と書かれたその本に特に興味が湧いたわけではない。ただ、その文字を見た時にふと潤が入学式の日に桜の花弁の数を計算していたことを思い出したのだ。潤は数学に興味があるのだろうか。そう思ったら、それからは無意識にその本を手にしていた。
埃っぽく、かさついた手触りの本を左手に持って、篤史は静かな場所を求めて医学部のキャンパスへと入った。足は自然と潤と出会ったベンチの方に向かう。潤のことを考えているせいだろう。入学式での印象と、先の北斗の言葉と。どれが本当かなんてわかりようがない。だからこそだろうか。気になっている。
「……」
篤史は溜息を吐いて、大通りを外れて静かになった道を真っ直ぐに進んだ。ここを通るのは入学式の時以来だけれど、桜が散ると随分と印象が変わる。全体的に色が濃度を増して眩しいほどだ。風が吹いて木々が揺れると、軽やかな空気が熱を攫う。
辿り着いたあのベンチは、やっぱり入学式の時とは印象を変えていた。周りの色が濃くなったせいか、ベンチの木の色も濃くなったような気がする。ここでぐったりとしていた潤が驚いたように目を見張った時の表情を思い出して、篤史は複雑な気分になりながらベンチに腰を下ろした。
潤には関わらない方がいいと北斗は篤史に釘を刺した。思い返しても潤はかなり風変りな男で、おまけに穏やかでない噂がある。火のないところに煙は立たない。それは確かに篤史もそう思うのだけれど。
篤史はまた息を吐いて、手にしていた本をゆっくりと開いた。ざらついた紙面に、細かな数字の羅列。専門的すぎて書いてあることはほとんど理解できない。
「……」
篤史はようやく自分の行動に違和感を覚えてすぐに本を閉じた。これも一種の平和呆けだろうか。溜息が零れる。
「――……、」
ぼんやりと本の表紙を眺めていた篤史は、ふと視線を感じて、顔を上げた。
「日和佐?」
少し先の木のところに俯きがちに立っていた潤は篤史の声に顔を上げて、それから柔らかく目を細めた。教室では見せない顔だ。それがこんなに簡単に見られるとは思っていなかった篤史は虚を突かれた表情になって、潤はそれに対して小さく笑って見せた。
「覚えてた?」
「……何してるんだ、こんなとこで」
講義もろくに出ないくせに。篤史はその言葉を飲み込んだ。潤はふと小さく息を吐き出して、篤史の隣に身体を落とすようにして腰を下ろした。潤の吐き出した息はあっという間に日差しに溶けてしまう。
「それは、オレのセリフ。ここ、オレの特等席なのにな」
「いつもここいるのか……?」
「授業には出ないのに?」
篤史が口ごもると、潤は軽い笑いを吹き出した。篤史が息を吐くと、それもあっという間に消えてなくなる。潤に関わるべきではないという話を北斗としたばかりだったのに、篤史の頭にはもうそのことはほとんど残っていなかった。根拠はないし、確かに潤は変わっているけれど、無茶苦茶な人格を持っているようには思えない。
「物理学の河原先生。ご丁寧に自分の書いた本、教科書にしてるだろ?」
「え……あぁ」
「あれのさ、百三十八ページの十九行目から五十行目の解説、間違ってるよね」
くつくつと可笑しそうに笑いながら潤は言った。同意を求められても困る。篤史はバッグから教科書を出そうか一瞬考えて、すぐにそれを諦めた。河原教授の物理学は一般教養の科目の中でも難易度が異常に高い。見てもどうせよくわからないだろう。
「……そう……か?」
「そうだよ。図書館で会ったから教えてやったら、もう講義出るなってさ。単位はやるって言うし。変わってる」
「……そうだな」
変わっているのは河原か潤か、篤史は少し考えたけれど、すぐに諦めてまた適当に返した。潤はまだ可笑しそうに笑っている。
「中学とか高校とは逆だ」
「逆?」
「何しててもいいけど、授業だけは大人しく出てさっさと卒業しろ……っていうのが大抵の先生の見解だと思ってた」
「……」
「あぁ、試験は受けろってとこだけ、同じか。あんなの、ただの暇つぶしなのに」
全国模試トップ。それ以上の重みが篤史の脳裏に圧し掛かった。ただ変わっているのとは次元が違うかもしれない。
篤史は息を吐いて、今度の溜息は今までのものより少し長くその場に留まった。
「つまり他の講義もその調子で、お前はいつもここで時間潰してるってこと?」
「いつもじゃないよ。物理学とマクロ経済学と……」
「いいよ、詳細は、別に」
「一般教養は、退屈だ」
潤はそう言って、ベンチの背もたれに背中を預けた。流れている時間は相変わらず穏やかなものだ。時折かすかな薬品の匂いがここにも届く。すぐそばの建物で実験をしているのだろう。
「――どうして医学部に?」
唐突な質問だったのかもしれないけれど、ふと気になって、次の瞬間にはもう口に出してしまっていた。潤は少し驚いた表情で篤史の方を見て、それから自嘲のような笑みを零す。
「そういう羽沢は何で医学部なの?」
「俺は……実家が病院だから」
人を助けたいとか、病から救いたいとか、そういう思いが全くないというわけではないけれど、家が病院で家族がみんな医者だから、という理由は一番しっくりくる。過去に遡って、一番最初に医者になろうと思ったのはその事実を知った瞬間に違いなかった。
潤はふぅん、と特に興味もなさそうに相槌を打ったけれど、それから篤史の方を向いて笑みを浮かべた。一瞬、息がつまるくらいに、きれいな笑みだった。
「シンプルだね」
「……悪かったな」
「悪くない。オレ、シンプルな理由は好き」
それで、結局何で医学部に入ったんだ、という問いを返す気にはなれなかった。潤はきっとあまり話したくないのだろう。もしかしたら理由なんてないのかもしれない。この大学も、他のどの医学部にだって至極くだらない理由で医者を志している人間はいるだろう。けれど、それはさして重要なことじゃない。患者のために力を尽くせるか、一人でも多くを救えるか。もしくは発展的な研究成果を残せるか。結果が全てだ。理由なんてどうでもいい。そうわかっていたのに篤史は潤が医学部に入った理由を知りたいと思った。それは不思議なことなのに、篤史は今度は違和感を覚えなかった。
「……日和佐は、想像もつかないようなとんでもない医者になりそうだな」
「誰も、未来を正確に予測なんかできない」
「そういうこと言ってるんじゃない」
「すごく平凡な、二流か三流の医者になったりするかもわからない」
「……例えば」
「そうだな……点滴の量を間違えたり、手術で切り過ぎて焦ったり」
そう言った潤の表情はどこかうれしそうだった。まるでそうなることを願っているかのように。篤史は呆れて潤を見た。
「医療ミスだぞ」
「マスコミに叩かれて医師免許取られちゃったり」
「……とりあえず、俺はごめんだけど」
上空を仰いで篤史が溜息を吐くと、隣で潤が笑う気配があった。やっぱり変わっている。もっと知りたくなる。
桜の新芽が柔らかな緑を蓄えている。まだ、世界は始まったばかり。潤が、いつか医学部を目指した理由を話してくれればいい。蒼穹の空を見上げながらぼんやりと、篤史はそう思った。
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