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第7話
物心ついた頃から、潤には両親がいなかった。母親は一人で潤を産み、当時ドイツで暮らしていた祖父を頼ったらしい。そしてすぐにどこかへ消えてしまった。つまり、潤は捨てられたのだ。でもそれもよくわからないくらいの小さな頃の話だったので、潤が初めてその話を聞いた時――確か四歳か五歳の頃だ――潤は特に何の感情も覚えなかった。両親が恋しいとも、大事だとも思わなかった。何一つ現実味がなかったからだ。あの頃現実だったものは、フランクフルトの大学で教授をしていた祖父と、自分と、それから周囲にいたたくさんの大人。
あの頃が一番幸せだったかもしれないと潤は今でも思う。よく思い出せないくらい毎日が平和だったし、祖父に呼ばれる時にしたって白衣を着た大人たちはみんな優しかった。お菓子をくれたし、芝生でサッカーやバスケットボールをしたりして、それはとても穏やかな時間だった。
日本に来たのは八歳頃だった。ある日、祖父はとても険しい顔をして、日本へ行くよ、と潤に告げた。
――日本? どうして?
――どうしても。
そう言うと、祖父はそれきり口を真一文字に結んで、もう何も言ってはくれなかった。潤は従うほかなかった。たとえ、日本での生活が生き地獄だと知っていたとしても、きっとあの時は逆らえなかっただろう。それくらい、祖父の表情は決意に満ちていた。
その時の潤には想像もついていなかったけれど、日本での生活は最悪だった。バケツの水や腐った牛乳を頭からかけられて、犬の糞を靴や鞄の中に入れられて、殴られて、蹴られて。行為はエスカレートの一途を辿った。けれど潤には、どうして自分がそんな目に遭わなければならなかったのか、理由がわからなかった。浴びせられる罵倒の言葉たちはいつも潤を戸惑わせるばかりだった。
痛み、苦しみ、悲しみ。身体の深い底で、淀んだ澱がぐにゅりと蠢く。叫び出したくなる衝動は、抑えるしかない。
「――……っ!」
悪夢から覚めて、潤は飛び起きた。息が詰まって呼吸がうまくできない。暗闇が視界を覆っている。光は射さない。
「……大丈夫?」
「っ……」
冷たい手が背中に触れると、潤は身体を大きく揺らしてその手から逃げるように身体を翻した。息は詰まったままだ。
「潤くん?」
目の前で白い何かがひらひらと振られた。喉に突っかかっていたコルクが取れたような感覚があって、潤はようやく深く息を吸い込む。ゆっくりと呼吸を繰り返しているとようやく気が落ち着いてきて、潤は胸を撫で下ろした。朝ならば光が射していることに安心できるのだけれど、夜中に飛び起きる時は、未だにうまく対処できない。
「大丈夫?」
震える手を押さえて息を吐くと、隣から雨のような声が振った。隣で澄樹が眠っていたということを思い出すと、目の前で揺れた白いものが澄樹の手だったのだとわかった。呼んだのは自分だった。
「潤くん」
「……もう……大丈夫」
潤がゆっくりとそう言うと、澄樹はそう、と息を吐いた。
「随分、うなされてたね」
「……平気だよ」
澄樹は何も言わずにベッドから出ようとした。電気を点けようとしているのだろうと悟って、潤はそれを止めた。白い胸板に腕を回して、自分の身体ごとベッドに沈みこむ。澄樹はまた何も言わなかった。
「……萱野さん、キスしたい」
潤がそう言えば、澄樹は望んだ通りにしてくれる。頭を引き寄せられて、澄樹の唇が自分のそれに重なると、温かな液体がなだれ込んでくる確かな感覚があった。深いところまで落ちて行って、淀みに溶け込む。混ざり合う瞬間は少し痛くて、それからすぐに安堵の波が来る。
「ん……」
深いキスをゆったりと交わして、唇を離すとそのまま倒れこむように澄樹の胸に額を寄せた。澄樹が少しの沈黙のあとで身体を引き寄せてくれる。
「……大学は、どう?」
「どうって?」
「そろそろ慣れてきた頃だろう? 感想は? ないの?」
「別に……何も……」
何も思い浮かばなくて、潤は首を曖昧に振った。澄樹がじゃあ、と懲りる様子もなく続ける。
「講義は楽しくない?」
「講義は……つまらない」
元々内容自体はさほど期待していたわけでもない。潤が素気なくそう言うと、澄樹はそう、と言ってほんの少しだけ笑った。
「講義は……ってことは、他にはあるのかな」
その言葉に潤は自分でも驚いて目を見張った。澄樹が身体を傾けて潤の顔を覗き込む。
「友達できた?」
「……できるわけないよ」
一瞬だけ昼間に会話を交わした篤史のことが思い浮かびもしたけれど、話したのも数えられるほどだし、それを友達とは呼ばないのだろう。結局ただ首を横に振って、澄樹は少し残念そうな表情を浮かべて潤の髪を梳いた。
「いいんだ。もう。そんなの、いらない」
一人でいたくない時には澄樹に助けを求めて、そんな自分が嫌になることもあるけれど、きっともう他にどうしようもないのだ。誰も自分を求めてくれはしないだろう。
澄樹は小さく嘆息して、それからゆっくりと身体を起こした。ベッドの軋む音がやけに大きく感じられる。
「潤くん」
「……何」
「うん……」
「何。言いかけてやめないで」
「……僕はやっぱり……君を抱くべきじゃなかったのかな」
どくん、と荒く鼓動が波打った。身体の中のあちこちでざわざわと音がする。澄樹は困ったような表情を浮かべて、それからまた息を吐いた。
「ごめん。でも……いつまで……君はこうしてるつもり?」
いつまで。そんなことはわからないし、むしろ知りたいくらいなのに。だって誰も自分を求めてはくれない。いつも求めるばかり。苛立ちをぶつけられて、必死に何かに縋るばかり。ただ、必要とされたいだけなのに。自分以外に自分を思ってくれる誰かなんていらないと本気で思っているわけではない。いつだって求めている。でも手に入らないことも、失うことも怖かった。
潤が何も答えられないでいると、澄樹がやがてごめん、と溜息混じりに言った。
「もう、言わないで」
「……わかった」
鼻からゆっくりと息を吸い込むと、洗練された澄樹のコロンが香った。
澄樹が自分を本当に考えてくれる誰かを探したがっていることはわかっているけれど、それは簡単なことじゃない。澄樹以外のこれまで出会ってきた他人は、みな同じように潤を遠ざけた。
目を閉じるとコロンの淡いグリーンの匂いは昼間篤史と見た景色を思い出させた。今は会話を交わしているあの男も、その内離れていくに違いない。わかっている。期待なんかしない。
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