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第8話

大学という世界は、広いものだ。すれ違う人間みんなが自分を知っていて、みんなに目を背けられるようなこれまでの世界とは違う。自分を知らない人間が大半で、全ての人間は自分に興味がまるでない。それはいいことだ。虚しくても寂しくても、痛みや苦しみと常に闘っている状況よりはましだから。 図書館で借りた新しい本を小脇に抱えて、潤は蜂蜜色の日差しが降り注ぐ通りをゆったりとした歩調で歩いている。午後一番の講義がちょうど終わった時間で、通りは学生たちの話声で賑わっていた。耳障りなざわめきに辟易しつつ、潤は静かな場所を探して適当なところで道を折れる。いつも居場所にしている医学部のキャンパスにあるベンチの周辺は、すぐそばの建物の工事を始めたらしくひどくうるさかった。がんがんと頭に響く工事音にすぐに耐えかねて、結局潤はこちらのキャンパスに移ってきた。医学部以外の主要な学部の研究棟が建てられたメインのキャンパスは大きく、人も多い。けれどそれは大通りやカフェテリアの話で、奥に入り込むにつれて目に見えて人影は減っていく。潤は静かで一人になれる場所を好むけれど、そうでない人間は意外にも多いということが最近の発見のひとつだった。 人の声が遠ざかって、やがて自然の音がそれに勝ると、潤は安堵して立ち止まり息をついた。それからどこか落ち着ける場所を探して辺りを見回す。 「……、」 木漏れ日の射す緑の世界に、穏やかな笑い声が響いた。潤は一瞬驚いて身体を震わせ、それからすぐに近くに誰かがいることに気付いて嘆息する。どうやらすぐ脇の建物を折れた先から聞こえるようだ。それは大通りにいた時ほどの不快感をもたらすような話し声ではなかったけれど、潤は何気なく建物の陰から声の方を覗いて、飛び込んできた光景に思わず目を見張った。建物の陰になってほとんど陽の射さないベンチ。そこに座って談笑しているのは、潤の知らない学生らしき綺麗な男と篤史だ。篤史は楽しそうに笑っている。優しく、熱を持った目。 「っ……」 何でもない光景のはずなのに、急に胸が鋭く痛んで、潤は思わずその場にしゃがみ込んだ。痛みは一瞬で、じわじわと少しずつ引いていったけれど、後には不快な違和感が残った。 もう一度篤史たちの方を見やると、また機嫌のよさそうな篤史の笑みが目に入って、潤は無意識に苛立って嘆息した。 恋愛感情は、潤にはよくわからない。したことがないし、きっとこれからもすることがないだろう。でも誰かに特別な感情を抱いているとここまでわかりやすいものだとは知らなかった。その場のコンクリートの段差に腰を下ろすと、潤はポケットから取り出した煙草に火を点けて白煙を細くくゆらせる。とん、と頭部を建物の外壁に預けると、鈍く頭が痛んだ。 しばらく小鳥のさえずりのような遠い話し声をぼんやりと聞いていたのだけれど、煙草の灰が二センチほどの長さを持って自重に耐えきれず地面に落ちる頃、辺りは急に静かになった。どうやらどちらかが去ったらしい。潤はふと空を仰いで真っ直ぐに横に伸びる薄い雲を目で捉えると、重い腰をゆっくりと持ち上げた。短くなった煙草を咥えたまま建物の角を折れる。残ったのは篤史の方らしかった。 「――何してるの?」 思案顔で一点を見つめていた篤史は、潤の軽い声に驚いた様子で顔を上げた。 「日和佐?」 またどこかで刺すような痛みが走って、潤はそれを払拭するように篤史に近付いてベンチのそばの灰皿に煙草を押し入れた。 「今のは、彼氏?」 ストレートな潤の物言いに篤史は驚いた様子で目を瞠った。見なかったことにした方が面倒にならないことはわかっていたのだけれど、篤史の真剣な目を見たら口に出さずにはいられなくなってしまった。篤史が間をとってから嘆息する。 「違う……っていうか、見てたのか……」 「見てた。あのさ、彼氏でもないのにあんな熱い目で見てたらすぐ気付かれちゃうよ?」 「……別にそういうのじゃない」 「そう? まぁ、そうだな……向こうは全然、興味なさそうだったね。声も緊張してなかったし、じゃあカタオモイ……ってやつなの?」 自分の口から片思いなどという言葉が出てきたことはひどく滑稽で、潤は思わず自嘲を漏らした。軽い笑い声だったけれど辺りには妙に重苦しく響いたように感じられて、潤は違和感に顔を歪める。篤史は何も言わず、ただ短く息を吐いた。手持無沙汰になって、潤はまた煙草を取り出しながら篤史の隣に腰を下ろす。火を点けると煙草の先が小さく燃えた。 「……恋愛なんて、馬鹿馬鹿しい」 飛び出た言葉は潤の意識とは別のところから出てきたように思えた。けれど言葉になってしまうと、自分の中の感情があっという間にそこから鎖状に繋がっていってしまう。 「……何だよ、急に」 「自分以外の誰かを大事にするなんて、リアルじゃない。あんなもの、ただの幻想だ。人間の感情の中で一番くだらない」 「仮にそうだとして、だったら何だ」 「羽沢も、どうせ叶わない恋なんてやめれば。現実的じゃないよ」 篤史は明らかに気分を悪くしたようだった。胸の中に焦りや苦しさや、潤自身もどうしてそんなものが出てくるのかわからない感情が渦巻いて、吸い込んだ煙草の煙と混じり合った。触れた端から穢してしまいそうなどろどろとした何か。真っ白な天使みたいな先の青年の笑顔とは対照的だと思った。潤はまだ長い煙草を灰皿に放って、それから短く息を吐いた。 「それとも、そんな寂しいなら、オレと寝る?」 沈黙。それから、は、という篤史の間の抜けた声。恋愛なんて、所詮寂しさを埋めるためにあるはずだ。そう思う人間同士のベクトルの相互作用でしかない。一方からしか伸びないベクトルなんて無意味だ。だから、わざわざあんな風に寂しそうな表情を浮かべなくてもいい。 「そんなに驚くこと?」 篤史の驚きの表情はいつまでも変わらなくて、潤は乾いた笑いを零した。ぎくしゃくした雰囲気も変わらない。潤の腕が考えるより先に伸びて、あっという間に唇が重なった。柔らかな感触、熱。自分が篤史にキスをしているという情報が遅れて伝達されてきて、けれど潤は行為そのものに違和を感じなかった。そうせずにはいられなかったから、そうしただけ。 「っ……な、んだよ」 触れるだけのキスは一瞬だけ世界を閉鎖して、すぐにそれは解かれた。篤史は目を丸くして、動揺している様子で顔を顰めた。 「オレさ、結構いいんだって。試してみるといいよ」 腐った野郎どもが繰り返し求める程度には。潤は頭の奥の方でそんな言葉を浮かべながら、唇で緩やかな三日月を描いた。暴走気味の思考も、無意識下ではどうしようもない。 「……からかうな」 「どうして。女がいいなら、女装もできるよ」 「いい加減にしろ」 「どうして。セーラー服とかね。それで何が楽しいのか知らないけど、喜ぶ奴は喜んでたよ。羽沢は……っ、」 伸ばした手が激しく振り払われた。衝撃と、乾いた音。音は遠く空へ向って消えていったけれど、衝撃による痛みはなくならなかった。 「いい加減にしろ」 「自分だってわかってるくせに」 「何を」 「さっきの奴は羽沢のこと見てない」 言葉の暴走は止まらなかった。誰かに対してこんな風に自分の苛立ちをぶつけたことはなかった。いつも耐えるばかり。だってその方が楽だった。それなのに。 たっぷりの間を置いて、篤史が重く低い溜息をついた。ふつふつと、胸の底で何かが小さく沸き立つような、そんな感じがした。 「……俺とあいつがどうだって日和佐には関係ないし、何も言われる筋合いない。それを寝ろだのなんだのって……ちょっとどうかしてるぞ」 篤史がうんざりしたように呟いて、一際大きな荒波が胸に寄せた。同時に頭を殴られたような衝撃があって、ぐらぐらと視界が揺れる。ちょうど柔らかく吹いた風が、潤の胸を悲しく傷つけた。 遠くに木の軋む音とアスファルトを叩く音を聞いて、篤史が去っていったのだとわかる。それを確認すると潤の世界は一瞬で閉じて、真っ暗闇になった。 初めて会った時、篤史に変な奴だと笑われた。でもあの時はむしろ心地よかった。目に蔑みの色がなかったから。あの時のことを思い出すと罅だらけの心臓は今にも割れそうになった。いつも、潤は必要とされることばかりを求めている。今だってそうだ。これまでと同じ。拒絶や軽蔑だって珍しいことじゃない。 深く傷ついた胸を押さえて、潤は身体を小さく丸めた。殴られているわけでもないのに、毎日のようにリンチをされていたあの時よりも胸が痛いような、そんな気がした。

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