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第9話

爽やかな風、楽しそうな話し声、目映い光。全てが篤史の苛立ちを助長した。講義終わりの学生で賑わう大通りを、不機嫌な足音を鳴らしながら歩いていく。潤の言葉が頭から離れない。苛立っているのは図星をつかれたことに対してか、北斗の噂が確信性を持ってしまったことに対してか、いきなりキスをされたことに対してか。それは自分でも判断しかねたけれど、きっと全てだろう。七月とのことを潤に言い当てられるとは思っていなかったし、あの噂も心のどこかでただの根拠のない噂だと思い込んでいた。潤と話した静かな場所から離れてざわめきが大きくなるほどに胸のざわつきも大きくなる。 恋愛感情なんて馬鹿馬鹿しい、と潤は言った。そうなのかもしれないと思う。潤以外の人間に言われたらそれで納得しただろうし、盲目的に恋愛をしている人間が周囲に居たら同じようなことを言うだろう。けれど、篤史はその言葉を潤の口から聞いた時、とてつもなく苛立った。敵わない恋などやめるべきだと言われて、言い返せない自分も情けなかった。そして、自分と寝ればいいという言葉は何より、潤が自分自身をぞんざいにしていることがわかって嫌だった。自分がそんな風に思われていたことも悔しい。 むしゃくしゃする感情をどうにか払拭しようと、篤史はブレーキを踏み込むように立ち止まって溜息を吐いた。重い溜息は柔らかな空気には不釣り合いだ。まるで穏やかな青い空を突如覆う夕立雲のように。 篤史はまた溜まった苛立ちを吐き出すように息を吐いて、すぐそばにあったベンチに乱暴に腰を下ろすと腿に肘をついて額を押さえた。何にこんなに苛立っているというのだろう。潤がどんな考えを持っていたって、どう思われたって、別に構わないはずなのに。 風が吹いて、唇を掠めた。あの時触れた潤の唇を思い出す。同じくらい、潤の唇は冷たかった。動けなくなってしまうほど。 「――羽沢?」 手のひらで視界を遮った世界は暗闇で、篤史はしばらくそのまま苛立ちを募らせていたのだけれど、やがて鐘が鳴るように降り注いだ声にふと手を額から離した。すぐに春の陽に照らされたレンガタイルの地面が目に入る。 「羽沢、おい……羽沢っ」 肩を軽く叩かれて篤史はようやく呆けていた自分に気付くと頭を上げた。目の前に立った北斗は驚いている様子で、顔を顰めながら篤史の目の前で手のひらを小さく振った。 「何、昼寝?」 「……」 「羽沢も、こんなとこで寝たりすんの?」 「……違う」 「じゃあ何。どうかしたのかよ」 篤史の苛立ちは収まっておらず、あまり誰かと話す気分でもなかったのだけれど、そんな篤史の心情など気付かない様子で北斗が隣のスペースに腰を下ろす。篤史は仕方なく溜息を吐いた。 「……別に、何でもない」 「そんな風には見えないんだけど」 北斗には引くつもりがないらしかった。見た目は面倒事を嫌って表面上の付き合いを大事にしそうな男に見えるのに、存外真面目さを持ち合わせているのか、ただ単に面白がられているのか。おそらくは後者だろうとあたりをつけて、篤史は内心で諦めるように嘆息した。 「喧嘩とか?」 「違う」 「じゃあ、何」 「別に……」 「別に?」 北斗はやはり全く引かない。篤史の警戒心はどんどん奪われていって、とうとう、口が開かれてしまう。 「……ただ……日和佐が……」 「日和佐、」 口が滑ったと思った時にはもう遅かった。自覚以上に冷静さを失っているのだろう。北斗は驚いたように瞠目して、それから表情を険しくした。だから関わらない方がいいと言ったのに。そう言いたげに見える。七月に幸大とのことで釘を刺していた自分を思い出すと何となく居心地が悪くて、篤史は北斗から目を逸らした。 「……会ったのかよ」 「たまたま」 「そう? 本当に?」 「本当。でも……あいつ、何か調子狂う」 「何で」 「……」 「何、まさか、いきなり襲われた?」 北斗は笑ったけれど、篤史はうまく反応を返せなかった。頭の中をずっと潤が支配していて、冷静な思考が遠のいている。 「……マジ?」 「……違う。そういうことじゃなくて」 「じゃなくて、何。キスくらい?」 「…………」 「……マジかよ」 当然といえば当然のことだけれど、北斗はかなり驚いた様子で声を固くした。篤史は反省してこめかみを押さえつつ、今さら否定する勇気もなく頷く。どこか遠くで誰かが流しているらしい音楽のベース音が響いていた。心臓の音に呼応する。 「何……何でお前が日和佐にキスされんの?」 「……いや、それはもう、いいけど」 「よくない」 篤史の溜息混じりの声に北斗は静かな怒気をこめた声で反論した。今度は篤史の方が驚いて北斗の方を見る。北斗はあからさまに嫌悪の表情を宿していた。 「……中原?」 「有り得ねぇだろ。ふざけんなよ」 「……いや、あいつが全部悪いわけでも……ないし」 北斗が怒っているせいで、篤史の中で煮立っていた感情が引き潮のように少しずつ引いていってしまった。確かに苛立っていたはずなのに、言い過ぎたかもしれないという思いが一気に上って来る。七月のことで図星をつかれてついかっとなってしまった。けれど北斗の方はそうはいかないようで、篤史の怒りを引き受けてしまったかのように不機嫌そうに溜息を吐いた。 「だから関わらない方がいいって言っただろ。羽沢も納得したのかと思った」 「……会ったのはたまたまだって。そもそも、何でお前が怒るんだよ」 「お前は、何で怒らないの?」 「……怒ってる」 篤史の言葉はこの場ではあまり説得力を持たなかった。あっという間に後悔が苛立ちに追い付いてしまったからだ。高校時代の話など、持ち出すべきではなかった。潤は傷ついた顔をしていたかもしれない。 「……日和佐には、甘いんだな」 「そんなことない」 北斗は不服そうな表情を浮べながら、間を置いて大きく溜息を吐いた。篤史はベンチの背もたれに背を預ける。数人の女子学生のグループが目の前を楽しげに通り過ぎていった。どこかで流れていた音楽はもう聞こえない。 「……あいつ、高校の時からどっか別の世界で生きてるみたいだったって」 「……別の世界」 「普通じゃねぇんだよ。だってそうだろ。男相手にヤリまくるなんて、どうかしてるよ。気持ち悪い」 吐き捨てるような北斗の言い回しに篤史は不快感を持ったけれど、反論の術はなかった。潤のことは何も知らないのだ。周りから入ってくる情報の方が多いくらいで。 篤史は何度目ともつかない溜息を吐いて、北斗はポケットから取り出した煙草に慣れた手つきで火をつけた。漂ってくる煙草の匂いが潤とのキスを思い出させる。触れた時、かすかな苦味が走った。 「吸う?」 「……貰う」 篤史は曖昧に頷いて、肯定と取ったらしい北斗が煙草の箱を差し出してきた。一本取り出して口に咥えると、北斗がライターで火を点ける。滅多に吸わない煙草の煙は歪みながら胸に入り込んで、感情の表面をひび割れさせた。ゆっくりと吐き出した煙は低いところに留まってぼんやりと消えていく。篤史は息苦しさを堪えながら、正面の風景を眺めた。

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