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第10話
小さく丸まったまま、気付いた時には遠ざかった陽に辺りの空気は夕闇の寂しさを滲ませていた。少しずつ身体が小さくなって、密度が増していって、しまいには点になってしまいそうな、そんな気がした。体積は収束していき、変わりに感情が発散する。潤はベンチの手すりに身体を凭れて、ぼんやりと夜へのグラデーションを目で追った。
このベンチで篤史が知らない男と話しているところを見た時、息苦しさの波が押し寄せた。きっとうらやましかったのだろうと、今ならわかる。篤史があの綺麗な青年をとても大切に思っていることがわかってしまったから。自分は敵わないのだと思ったから。うらやましくて、少し悲しかった。篤史の顔がどこか寂しげに見えたことが。キスは、冷たかった。
潤は篤史とのやりとり、キスの味を思い出しながら煙草を取り出した。口に咥えて火を点ける。煙と一緒に、嫌な記憶がなだれ込んだ。
小学生だった頃、一人だけ潤を気遣ってくれた教師がいた。優しくてきれいな女の新米教師だった。私がついてるから、一緒に頑張りましょう。彼女は潤の肩を優しく抱いて、そう微笑んだ。
ある日、学年全員が一緒にテストを受けさせられたことがあった。空間パズルを解いたり、数列を解いたりするテストだったと思う。何週間かして潤は彼女に呼ばれて、そのままどこかに連れていかれてまたテストを受けさせられた。様々な相手と話をさせられて、ひどく疲れたことを覚えている。終わる頃に祖父が迎えに来てて、次の日学校に行ったら、彼女はもう、潤と話してくれなかった。どうしてかはわからなかった。祖父も何も教えてくれなかった。ただ、ひどく悲しそうに潤を見て、それから首を横に振った。
穴が空いたような気がした。きっとあれが絶望というものだったのだろう。それまで絶望だと思っていたものはまだ甘かったことをあの時に知った。
「――……、」
満潮の海のように身体の中に何かが満ちて、それを追い出すように潤は煙草の煙を吐き出した。白煙が立ち上って消える。空間が真空になってしまったように息苦しかった。ここで篤史の見せた他人への笑みと、軽蔑の眼差しが交互に脳裏のスクリーンに映る。その度に苦しくて、悲しかった。期待はしていなかったはずだ。それなのに、こんなにも痛く切ない。
保温しつづけているコーヒーのように苦しみが煮詰まっていって、潤は痛みに目を細めた。ぼやけた世界は、まるで小さな宇宙のようだ。触れた端から消滅、淡い光に変わっていく。そんな世界。
まだ長い煙草を灰皿に放って、潤はポケットから携帯電話を取り出した。携帯電話は滅多に使わない。それでも潤が一応持ち歩いているのは、こんな時のためだ。家に一人で帰る気力もない時、潤は携帯電話を取り出す。メモリーには一人の名前しかない。潤は迷いなくボタンを押して、やがて無機質な呼び出し音が鼓膜を震わせた。媒質、波、粒子。思考がゆっくりと遠のいていく。
「――はい」
単調な呼び出し音が途切れたのは、どれくらいその繰り返しを聞いた後だったろう。いつの間にかその音を聞くことがフラットの状態になってしまっていた潤は、その声でふと電話をかけていたという事実に気付いて目を開いた。ついこの間呼び出したばかりなのに。
「萱野さん」
自嘲が零れて、頭ががくりと落ちる。何言ってるんだ、と電話の向こうで澄樹が呆れたような声で言った。君がかけてきたんじゃないか。
「うん、そう。オレがかけた。かけてる」
「……どうしたの?」
「うん……」
「潤くん?」
「……萱野さん」
「ん」
「……したい。して」
「……」
「来て。で、して」
静寂、ノイズ、溜息。澄樹がノーとは言わないことを、潤は知っている。澄樹は責任感のある男だし、誰よりも自分に同情しているから。こうして呼び出される度に、律義に胸を痛めているから。
「……今、外なんだ。一旦事務所に戻らなきゃならないけど……それから行くよ。それでいい?」
「……うん」
じゃあ、という言葉を交わし合って電話を切る。そのまま携帯電話の電源を切った。やっぱり行けない、なんて言葉を聞かなくてすむように。薄暗闇の中で、ブレーカーが落ちたように光が閉ざされた。冷たい空気がまた篤史とのキスを思い出させて、胸がじくじくとそれに反応して痛んだ。
ひどく重い足取りでアパートまで帰って、部屋のチャイムが鳴ったのは、もうすっかり夜が外の世界を包み込んで、一滴の温かさの余韻もなくなる頃だった。例によってローテーブルに齧りつくようにして一心不乱に方程式を解いていた潤は、待ちわびたベルの音にふと気付いて頭をあげた。集中で一時的に薄れていた痛みがすぐに戻ってくる。よろよろと立ちあがって玄関に行くと、ドアを開ける。無表情の澄樹がそこにいた。笑むでもなく、怒るでもなく、ただ、澄んだ水のような表情。それは何となく潤を虚無的な気持ちにさせて、潤はふと自嘲を零した。
「こんばんは」
「……ああ」
「入ってよ」
澄樹が玄関に入って、ドアが自然と閉まる。ぱたん、という音がそばの空気を揺り動かして、世界は再び閉じた。歪んだ痛みが左胸を中心に広がっていく。玄関のタイルに澄樹が立った分、潤は前傾の姿勢を起こして、けれどすぐに澄樹の胸に頭を投げ出した。とす、と静かな音がして、鼻腔を包んだ澄樹の匂いにまた自嘲が零れた。
「どうしたの?」
澄樹が息を吐きながら、潤の背中を抱き寄せた。潤は目を閉じて、篤史とのことを反芻する。痛い。苦しい。悲しい。
「……言いたくない」
「そう……」
澄樹が潤の背中を軽く叩いた。こんな時、澄樹が迷っていることが、潤にはよくわかる。後見人として、仕事として、クライアントへの姿勢としてどんな反応が正しいものか、いつも澄樹は図っている。そしてわざと潤にそれを伝えている。それでいい。その方が楽になれる。澄樹は仕事としてこの行為を全うする。自分は、これが彼の仕事なのだからと割り切って甘える。簡単だ。
潤はゆっくりと息を吸い込んで、顔を上げると、伸ばした手で澄樹の頬から髪の辺りまで触れていく。そのまま吸い込まれるようにキスをする。ぬるりと唾液が絡むと、胸の痛みが一瞬だけ増大した。
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