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第11話

テスト期間でもない大学の図書館は、まるで世界の始まりか終わりのように静かだった。カウンターのある四階まで吹き抜けになっている空間には天窓から真っ直ぐに白い光が差し込み、硬質さをいくらか和らげている。篤史は館内案内図をぼんやりと見て、建物の奥にある書庫の存在を発見すると、すぐに空間を突っ切って書庫の方を目指した。論文雑誌などが配架されている書庫は、この静かな建物の中でも特に静かな場所に違いない。案内図によれば自習用のデスクもいくつか設置されている。レポートを書くための場所にそこまでこだわるわけではないけれど、静かで人の少ない場所をつい探してしまうのは篤史の癖でもあった。眠っている本たち独特の埃っぽい匂いを鼻いっぱいに感じながら、篤史はゆっくりと固い床を踏む。 思考が無になると、水に沈めたボールが浮かび上がってくるように、篤史は潤のことを思い出す。最後に会ってから三日が経過しようとしていた。あれから一度も潤を講義で見かけていない。気にするべきではないと北斗は言ったけれど、どうしてもすぐにこうして潤のことを思い出してしまう。揶揄するような口調、キス、でも、傷ついた表情。言い過ぎを反省する思いはどんどん強くなっていた。潤の行動はともかく、七月のことで図星をつかれて苛立ったのは事実だ。あんな風に言うべきじゃなかった。本当は次の日には謝ろうと思っていたのだけれど、フォローをしようにも肝心の潤の姿を全く見ることができず、結局悶々としたままだ。避けられているのかもしれない、というのは、少し自意識過剰かもしれないけれど。 篤史は溜息を吐いて、入り組んだ構造の図書館をするすると進む。奥に来るともう人の姿は全く見られない。静寂の夜の城だ。 「――……、」 書庫へと続く曲がり角を折れると、一段と本の匂いがきつくなった。眠るほどに、本はこの匂いを蓄えるのだろう。どこか懐かしい、寂しい匂い。 篤史は自習用の机を探して辺りを見回し、ふと奥の小さめの机を見やると、視界に入った光景に思わず目を見張った。篤史のブーツが鈍い音を立てる。静かの海にその音は大仰に響いて、机に向かっていた潤がふとペンを走らせる手を止めた。 「あ……」 乾いた声が零れる。潤がこちらを見て、わずかに眉を顰めた。三日間、探してもまるで見つからなかったというのに、探す気がなかった時に限ってばったり会ったりするのだから困る。 篤史が言葉を迷っていると、潤はふい、と顔を背けて、またペンを走らせ始めた。怒っているのだろうか。篤史は心臓が圧迫されるような感覚を覚えながらも、意を決して潤の向かい側の席の椅子を引いた。斜めがけのバッグを下ろして席につくと、潤がまたペンを止めて篤史を見る。真っ直ぐな瞳。かすかに入る陽の光を吸い込んでいる。 「……何?」 潤は不機嫌そうにそう言った。何だ、と言われると、何だったのかがわからなくなってしまう。篤史は自分らしくないと思いながら、机の上に視線を走らせた。ぎっちりと数式で埋められたルーズリーフが散乱している。 「……数学」 「は?」 「いや……これ、線形代数学のレポート……じゃ……ないな」 数式の細部に目を落として、どう見てもそうではないことを悟ると、篤史はぎこちない笑みを浮かべて、それから溜息を吐いた。何だというのだろう。何を緊張しているのだろう。 「……違うよ」 「だな。どう見ても。物理?」 潤は手にしたペンをくるりと器用に回して、篤史を真っ直ぐに見据えた。その視線にたじろぎかけて、けれどどうにか真っ直ぐに見つめ返す。ここで逸らしたら潤は去っていくような気がしたからだ。しばらく沈黙があって、それからようやく潤が嘆息して頬杖をついた。不機嫌がいくらか解消されているのがわかる。 「アインシュタイン方程式」 「アインシュタイン?」 「方程式。それ使うと色んなものが解ける」 「……例えば」 「宇宙の年齢、時空の歪み、ブラックホール、エトセトラ」 そんな、SF映画でしか聞いたことのないようなことを求めて何がしたいのか、篤史にはさっぱり理解できない。思わず顔を歪めると、潤はようやく小さく笑った。 「それでも、わからないこともあるけどね」 「……何」 「どうやって宇宙は始まったか。始まりのその瞬間に何が起こったかだけは、誰も知らない」 「それで」 「それだけ」 「それを解明しようとしてる……とか言わないよな……」 潤は笑いながら、まさか、と言った。笑い声が静けさの中をくるくると転がっていく。 「ただの暇つぶしだよ」 おそらく、この式を解くことのできない人間はほぼ地球の全人口に近くいるだろう。それを暇つぶしだと言い切ってしまう辺り、やっぱり潤は普通じゃない。篤史はそばにあったルーズリーフの一枚を眺めた。流れるような細かい文字。 「オレはただ、何も始まらなかったらよかったのにって思うだけ」 潤の声は遠く、それこそ宇宙の果てで呟いているように聞こえた。憂いているという感じでも憎んでいるという感じでもない。そこに感情は見えなかった。篤史はふと顔を上げて、潤と目を合わせる。潤はこれまで見てきた中で一番穏やかな表情を浮かべていた。胸に暖かな流動体が満ちて、篤史は言いたかった言葉を思い出す。 「……ごめん」 篤史が思い出したまま口にした言葉に、潤は目を丸くした。射した陽の光が潤の柔らかそうな髪を透かす。それがきれいだった。 「この前、八当たりしたから。謝ろうと思ってた」 「……、」 「お前の言った通りだよ。俺あいつのこと好きだった。とっくにふられたし、いい加減で吹っきろうって思うけど……そんな簡単な思いでもなかった」 言いながら、篤史は違和を感じる。こんな話を誰かに聞かせる日が来るはずじゃなかった。そんなことは考えてもみなかった。古くから知る人間が見たら心底驚くだろう。でも、不思議なほどに抵抗はなかった。 潤がふぅん、と目を細めて相槌を打った。またペンをくるりと回す。長い指が器用に動いた。 「難しいんだ」 「……普通だろ」 「人の心を方程式にして理解できればいいのにね」 「そうだな……」 「きっと宇宙の始まりを解くより難しいな」 「当たり前」 「うん……当たり前なんだ。それが」 潤は遠い目をして呟いた。寂しげで、悲しげで。篤史は思わず手を伸ばしかけて、そんな自分に驚いて慌てて頭の中で制止した。古い本の匂いに酔っている。 「……なぁ」 「ん」 「日和佐は、何で医学部に入ったんだ?」 二度目の質問だという自覚はもちろんあったのだけれど、言葉が脳裏に浮かぶと、もう聞かずにはいられなかった。潤は瞳の色を濃くして、篤史をじ、と見つめた。さっきと同じで、逸らせば潤もまた、逃げるだろう。そうしてしまいたくはなかった。潤の内面に少しでも触れてみたかった。 「何でだと思う?」 「聞いてるのは俺だろ。言いたくないならそう言えばいい」 潤が目を逸らして、息を吐いた。逃げられたのだろうか。そう思った瞬間、小さな声が空気を震わせた。 「必要って言われたかった」 「……え?」 「必要とされたかったんだ。誰でもいい。誰かがオレが生きてる意味を定義してくれるなら……医者なら……きっとそういうのがわかりやすいと思った。人の命を救って、感謝される。シンプルだ」 視線を逸らしたまま、潤は確かにそう呟いた。空気が一瞬で樹脂か何かになったように動けなくなった。その言葉が潤の口から出てきたということが、ただ、印象的だった。 「……、」 篤史が何も言えずに固まっていると、潤が緊張感を払拭するように大きく息を吐いて、それからさっさと机の上を片づけ始めた。 「オレ帰るから」 「え、あぁ……」 あっという間に集めたルーズリーフを、潤は辺りを見回して目に入ったらしいごみ箱に躊躇なく押し込んだ。じゃあね、と言いながら書庫を出ていく。足音が聞こえなくなると、辺りは完全な静寂に包まれる。机の上にはもう何もなかった。篤史はふとごみ箱の方を見やって、潤の言葉を思い返す。印象的な言葉たちが、胸を苦しくさせた。

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