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第12話
昼休みに入った学食は多くの学生で賑わっている。数年前に建て直されたばかりだという建物は、隅々まで光に溢れた整然とした造りだった。定食や麺類など、いくつかに分けてそれぞれにカウンターが設置され、その場で注文して料理を受け取るシステムだ。金属の器具がぶつかり合うような調理の音が静かな空間に控え目に響くのを聞きながら、篤史は定食を手に窓際の席についた。後に続いて北斗が色味の少ないカルボナーラを手に向かいの席へとつく。すぐ脇を通った学生の白衣が揺れて、かすかに消毒液の匂いが過ぎった。
今日、久し振りに講義に出る潤の姿を見かけた。他人を拒む空気を纏っているのは相変わらずで、学生からの注目も相変わらずだった。声もかけられず、講義が終わると潤はさっさと教室を出て行ってしまったけれど。
図書館で話した時の潤の表情が時折篤史の思考を縛る。はっきりしない影のような像が身体のどこかで揺らいでいた。
「――羽沢? 聞いてる?」
定食を見下ろしたままぼんやりと潤のことを考えていた篤史は、ざわめきを突っ切るような北斗の声にふと気付いて顔を上げた。いつの間にかカルボナーラを食べ始めていた北斗が不審そうに顔を歪める。大きな窓を通り抜けてくる光が、境界を曖昧にした。
「……え」
「今の話、聞いてた?」
まるで何の記憶も残っていない篤史は言葉を詰まらせて、それで答えを悟ったらしい北斗が小さく嘆息した。
「何だよ、何かあったの?」
「……別に、何も」
篤史は何事もなかったかのように箸を取って手を合わせ、味噌汁を啜った。薄い出汁の風味がぼんやりと広がる。北斗は篤史を見たままフォークにきれいに絡めたパスタを口に運び、ひとしきり咀嚼した後で、まさか日和佐のことじゃないよな、と冗談を言うように笑いながら零した。
「……」
北斗の口から出た日和佐、という言葉に篤史はかすかな胸の痛みを感じて黙り込んだ。先の講義での姿を思い出す。必要とされたいと、潤はそう言ったのに、あの態度は明らかに人を遠ざけている。篤史も潤のことを言えた性格ではないけれど、潤の纏う空気は絶対的だ。絶対的に、冷たい。
「羽沢」
「……え」
気付かない内にまた潤のことを考えていて、篤史はまた北斗の声で我に返った。北斗は怒っているような苛立ったような表情で篤史を真っ直ぐに見ている。居たたまれなくなって定食のエビフライをつつきながら、改善されない北斗の視線に思わず溜息をつく。もう誤魔化すことはできないだろう。
「あいつ……本当、よくわからないんだよ」
「……気になんの?」
「放っておけない」
篤史の中にある感情を至極端的に表すならば、この言葉が一番しっくり来るような気がした。潤はどこか危うくて、篤史を簡単に混乱させて、よくわからない。
北斗がたっぷりの間を置いて、それから不機嫌そうな溜息を吐いた。同じだな、と思う。七月を心配していた自分と。それは随分遠い昔の話に思えて、篤史は内心で小さく自嘲を零した。
「それってさ、単に羽沢も被害者だから、気になっちゃうだけなんじゃないのかよ」
「被害者?」
「キスされたじゃん」
「あぁ……」
キスをされたことを被害とするまでの認識を忘れていた篤史は曖昧な相槌を打った。北斗の眼光が鋭くなる。
「何、あぁって。羽沢平気なわけ?」
「そういうわけじゃないけど……」
「っていうか、あいつマジでやばいって」
北斗は嫌そうにそう言いながらパスタを食べる。
「男好きで有名だったらしいし、近付かない方がいいって。羽沢はただの厚意のつもりでもすぐ付け入られる」
「……大袈裟だな」
「そんなことない。ただでさえ羽沢ってその手の男から人気ありそうじゃん」
北斗は疑問の形をとりながらも自信のありそうな表情を浮かべて、篤史は何となくげんなりしつつ定食を食べ進め始めた。
「何だよそれ……」
「きれいな顔してるし。男子校って、そういうのあるだろ? もてたりしたんじゃないの?」
別に、と篤史は誤魔化してトマトを口に放り込む。学食は一番混んでいる時間帯から少しずつ逸れているらしく、ざわめきが小さくなっているのがわかった。北斗のカルボナーラが陽だまりと同化する。
「実際、俺もお前ならありかなと思うもん」
「……は」
「引く?」
「……引いた」
「まぁ、そう言わずに。俺は結構一途だし? お買い得だと思うよ」
「ふざけるなよ……」
篤史が溜息を吐くと北斗は笑ってみせた。反応を見ておもしろがっているのだろう。そんなにおもしろいこととは思えないけれど。
「じゃあ、合コンは? する?」
「しない」
「サークルの女どもが羽沢紹介してくれってうるさいんだよ」
「お前に任せる」
北斗はつまらなそうに頬杖をついて水を口に含んだ。几帳面に定食を食べ進めていた篤史は、しばらくして、北斗の無言の攻撃に負けて北斗の方を見る。
「……何」
「考えてた」
「何を」
「どうしたら羽沢が俺に興味持つかなって」
「持ってるだろ、別に。っていうか、話だんだん逸れてるぞ」
「逸れてねぇよ。入学してから今までで羽沢が興味持ったのって日和佐の話だけじゃん? それって俺的には結構悲しいんだけど」
「……」
言われてみれば確かにそうかもしれない。篤史は納得してしまって、ほらぁ、と北斗が呻き声をあげて、椅子に背をもたれて天井を仰いだ。やり取りそのものに違和感を覚えつつも、篤史は仕方なくフォローのために口を開く。
「中原がいつも変なことばっかり誘うからだろ」
「変って何」
「合コンとか、興味ない」
「じゃあ何になら興味持つ? 日和佐じゃなく。ていうかマジでもう日和佐に関わんのやめろよな」
「……考えとく」
潤のことが気になるし、きっと何かあれば、篤史はまた潤を放っておけないと思うだろう。それは確かに自分らしくなくて、けれどそのことが自然に篤史の中に鎮座していることが、何よりも不思議だった。
しばらくして北斗が身体を起こして、ゆっくりと息を吐いた。
「ああ……まぁ、いいや。もう。他の作戦考える」
「何、作戦って」
「篤史強奪作戦?」
冗談めかして北斗が笑う。篤史は呆れて何度目ともつかない溜息を吐き、別に俺は誰のものでもない、と至極真面目な反論を返した。北斗はまた笑って水を飲む。透明なグラスの中で液体が震える様は、少しの既視感を篤史に与えた。
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