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第13話

取り壊しが決まっているらしい古い棟は、滅多に講義も行われず、その数少ない講義が行われた後には波が引いていくように一瞬で学生たちの姿がなくなってしまう。講義の後で、しばらく席についたまま夕闇に染まっていく窓の外を眺めていた潤はネイビーが深く世界を侵食する頃になってようやく立ち上がった。今日の空は深いピンク色をしていて、嫌なことをいつもより濃く思い出させる。こんな時にはいつも強い粘性を持った液体のように潤の身体を動けなくした。 廊下に出た潤は立ち止まって、ふと嘆息した。嫌な思い出の上に、この間の篤史とのやり取りがぶつかる。もう話すこともないのかもしれないと思っていた。世界なんてなくなればいいと思っていた。それなのに、篤史はまた話しかけてきた。おまけにごめん、だなんて。あの時、確かに何かが溢れるような感覚があって、潤はつい篤史に本音を漏らしてしまった。必要とされたい。誰かに。篤史に。 ――羽沢に? 「――……、」 動揺を押しこめるように潤はまた嘆息した。期待など、無意味だ。どうせいつもと同じ。小学校の時の担任教師と同じ。潤のことをまだ知らないというだけに過ぎない。期待をしたらしっぺ返しを食うに決まってる。 「――おい」 窓の外を一瞥して、かすかに残るピンクに辟易して三度目の溜息を吐くと、背後から低い声が投げられた。薄暗い廊下にその声は不気味に響いて、潤は反射的に肩を震わせて後ろを振り返る。瞬間、大きな衝撃が走った。 「っ……!?」 殴られたということを理解するまでに数秒の時間がかかった。突然の事態に潤は目を丸くして、自分を殴った相手を見上げる。薄暗い廊下でも、それが知らない顔であることは明白だった。 「っ……なに……」 「久し振りだな、顔、見るのは」 「は……っおい……」 口角を上げた相手は呆然としている潤の腕を引っ張り立ち上がらせると、そのまますぐそばの教室へと入った。潤は力強く握られた腕を振り払えずに教室の中に連れ込まれ、やがて教室の端まで辿り着くと身体を更に強引に引っ張られて突き飛ばされた。固い壁に背中が打ちつけられる。それは知っている痛みだった。 「っつ……何だよ……あんた誰?」 困惑した潤を見下ろす男は明らかに怒りの表情を浮かべている。潤はますますわからなくなって、混乱と痛みに顔を歪めた。 「何言ってんの? お前、俺のこと覚えてるんだろ?」 「意味わかんない……誰だよあんた」 「上里祐司(うえさとゆうじ)だよ。わかってんだろ」 「……う……えさと……?」 「同じ高校の一個上。お前さ、俺に口説かれてるって言い触らしてるって?」 不愉快そうにそう言って上里祐司と名乗った男は潤の胸倉を掴んだ。名前を聞いてもまるで覚えがない。けれど、同じ高校を出た人間だということは少なからず潤を動揺させた。殴られることを恐れて形振り構わず身を投げ出していた日々は、校内でもそれなりに知られていたことだろう。祐司の言っていることは身に覚えのないことだったけれど。 「知らな……っ」 言葉の途中で今度は腹部に蹴りが入れられた。鈍い衝撃が走って、潤はげほ、とむせ込む。時間的にも場所的にも、恐らくもう人は来ないだろう。逃げられない。殴られるのは随分久しぶりで、あの時と何も変わらないまま、胸と身体が痛んだ。そう、こんな痛みだった。いつもこの痛みと闘っていた。夢のまま、同じように痛い。 「高校じゃただの男好きの変態だったくせに、ここじゃ随分大人しくしてんなと思ってたら、これかよ。俺のこと巻き込んで楽しいかよ」 「だ……から……知らない……って……」 「嘘つけよ。ちゃんと聞いてんだよ。お前から俺に口説かれてるって聞いたって奴に」 「っ……」 「変態異常者のくせに」 そんな話は知らないし、そんなことあるわけがないのに、祐司にはもう何を言っても通じなそうだった。起き上がれない潤のそばに祐司が膝をついて頬を乱暴に掴む。呼吸の音が耳に張り付いた。 「お前のせいで俺までホモ扱いだぜ? どうしてくれる?」 お前は変だ。異常だ。普通じゃない。言葉が潤を責め立てる。 「なぁ、変態。お前のせいだって、わかってんのかよ!」 「やめろっ……」 潤は堪らずに耳を塞いで、けれどそれで状況がよくなるはずはなかった。声は聞こえなくなるどころかボリュームを増して。目を閉じた潤のシャツのボタンを、祐司の手が弾き飛ばした。 「っ……な……」 「ついでだ。確かめてやるよ、本当に噂どおりの変態かどうか」 「何っ……やめ……」 「何で。俺に気ぃあるんだろ。だから妙な噂で気引こうとしてんじゃん? 迷惑ついでにヤッてやるよ」 「っ……」 「そうでもしなきゃ俺の気が収まんねぇよなぁ?」 ジーンズのジッパーを下ろされて、乱暴に下着ごと剥がされる。 「っ……う……」 「なあ、男同士ってここ、突っ込むんだろ? うぇ、気持ち悪ぃ……」 言葉を発する暇もなく髪を掴まれたまま頭部を引っ張られる。狂いそうなほどの吐き気が押し寄せる。でも、吐いたら殴られて、聞きたくない言葉を浴びせられてしまう。潤は世界を閉じて、余計なものを遮断する。 身体はこの行為に慣れていて、どうすれば早く終わるのかをよく知っている。 「っ……」 視線を落として次の命令を待っていると、また髪を掴まれて身体を引っ張り上げられる。荒くなった呼吸が耳について離れない。 暗闇が潤の身体を冷たくする。この世界も変わらない。真っ暗で、悲しくて、辛いばかりで。光なんて、射さない。いつまでもここは宇宙だ。暗く冷たく、潤を責める。

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