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第14話
祐司に解放されたのは辺りがすっかり暗闇に包まれた頃だった。鋭利な冷たさが身体を刺している。だるく軋む身体を引きずって、潤はどうにか講義棟から出た。空気の質が変わって澄んだ空気が身体に入ってくると、わずかな安堵に息をつく。どこが痛いのかすらわからない。全身が悲鳴を上げている。身体を縛る祐司の感触に吐き気がした。
覚えのないことで暴力をふるわれることも珍しいことではなかった。けれどきっと、自分は解放された気になっていた。虚しくとも穏やかな日々に慣れてしまっていた。こんなこと、中学や高校の時には日常茶飯事だったはずなのに、今は絶望でまともに歩くことすらできない。
一番痛む左胸を押さえながら、潤は夜道をふらふらと歩いた。夜のキャンパスは昼間とはまるで違う。昼間は鬱陶しいほどに見受けられる学生の姿ももうほとんどなかったけれど、それでも潤はより人のいなそうな道を選び、アパートを目指した。今日に限って必要ないだろうと家に携帯電話を置いてきたことを後悔していた。持っていれば、今すぐに澄樹を呼ぶのに。嫌な感情や感触は少しでもましなものに上書きするしかない。それ以外に術は知らない。
痛みと共に去り際の祐司の言葉が蘇って、潤は唇を噛んだ。ぐったりと倒れこんだ潤を見下ろし、またな、と祐司は笑った。味を占めたらしい。きっと、また続くのだろう。これまでがそうだったように。嫌われたくなくて、殴られたくなくて、潤はいつも逃げたり反抗したりはしない。どうすればいいだろう。どうすれば、自分をちゃんと見て貰えるだろう。
「っ……」
力が抜けた拍子にタイルの地面につま先が引っ掛かり、潤はその場にうずくまった。痛い。苦しい。悲しい。言葉と共に真っ暗闇に引きずり込まれる。
「――日和佐?」
静寂にガラスのような声と硬質な足音が響いた。潤は思わず怯えに身体を震わせて、それからどこか聞き覚えのある声だということに気付いてふと顔を上げた。
「は……ざわ……?」
篤史がタイルを鳴らして近付いてくる。辺りを見回して、ようやく自分がアパートの方向ではなく初めて篤史と出会ったベンチを目指していたということに気が付く。だからといって、どうして篤史がこんな時間にこんなところにいるのかはわからないけれど。
「っ……!」
潤は一気に混乱して、とにかく逃げようと勢いよく立ちあがった。こんな状況で、篤史にだけは会いたくなかった。直感的にだけれど、確かにそう感じる。理由を考えている余裕はなかった。
「日和佐っ!」
身体は意識しているより更に弱っていて、走り出そうとした瞬間に潤の足はもつれた。視界が揺れて、そのまま意識が遠くなる。振動と痛み。一瞬だけ、冷たい手に温かさが宿ったような気がした。
柔らかな風が吹いた。そう思った。
――変な奴だな、お前。
そう言って、篤史が微笑んだ。確かに風が吹いて、それはひび割れた心に切なく染みた。桜の花弁が白く透けて、潤は光を感じた。新しい世界。あの時、光が射したと直感的に思った。期待など無意味だと思う一方で、あの光の感触が頭から、胸から離れなかった。何度も何度も、馬鹿みたいに思い出して。その度、自分を笑う。変わるわけがないのに、と。
――だから言ったじゃないか。
温かな桜色の景色を他人事のように見ながら、潤はあの時の自分に言った。
――変わるわけない。これまでも、これからも、ずっと。
「――う……、」
鈍い痛みの合間を意識がゆらゆらと抜けていって、潤は目を覚ました。真っ暗な視界の中でかろうじて白い光を感じる。しばらく眺めて、それが外灯の明かりだということに気付くと、潤はあちこち痛む身体をわずかに動かした。
「大丈夫か?」
「っ……つぅ……」
身体を起こそうとしたのだけれど、うまく力が入らず、潤は頭を柔らかな地面に沈めた。感触からいってどうやら芝生の上のようだ。篤史は潤の顔の近くに座って、それから重く息を吐いた。
「悪いな、こんなとこに寝かせて。どこ運ぼうか迷ったんだけど……」
篤史は視線を逸らして言い淀んだ。潤の格好を見れば何が起きたかは容易に想像がつくだろう。胸がひどく痛んで、潤はゆっくりと胸を押さえた。これまでと変わらない、光のない世界。
「……誰に、やられたんだ」
搾り出すように篤史が低い声で言った。暗くて表情はよくわからないけれど、きっと嫌そうな顔をしているに違いない。こうなってしまったら聞くのが義務だと思っているのだろう。そう思うと痛みは更に増した。
「……羽沢には……関係ない」
「……」
「別に平気だ」
こんな姿は見られたくなかった。でも見られてしまった。潤はおもしろくもないのに笑って、軋む身体をゆっくりと起こした。乾いた音を立てて胸から何かが落ちる。それが篤史のジャケットだということがわかると、潤は痛みに顔を歪めながらそれを乱暴に篤史に突き返した。
「……放っておけばよかったのに」
「そんなことできない」
当たり前のことのように篤史が言う。誘惑がちらつく。違う。だめだ。また失ったら今度こそ立っていられなくなる。それに篤史には自分より大切な人がいる。とてつもなく綺麗な、彼が。
「……別に、オレ……殴られるくらい……どうってことないよ」
篤史が短く溜息を吐いた。身体の震えを押さえるように、潤は口早に先を続ける。
「いいんだよ、別に。気持ちいいんだから、それでいい」
「……」
「気持ちよければ何でもいいんだ」
夜の空気が指先を冷たくする。潤はまた笑って、それから駄目押しとばかりに手を伸ばし篤史の頬に触れた。震えは、きっと寒さのせいだ。
「やっぱり羽沢もしたい? ここでする?」
篤史の頬は潤の指より更に冷たかった。鋭い視線が潤を刺す。これでいい。期待なんて、一ミクロンだって残らなければいい。
「もういいから、黙って休めよ」
「何で? 必要ないよ。オレ結構タフだし。もう一人くらい余裕だよ」
「よせ」
唇を寄せようとすると、篤史の手が潤の肩を押し戻した。痛みの合間を小さな安堵の波が広がっていく。早く篤史がこの場を去ってくれることを心の中で必死に祈った。突き放されるくらいなら、自分で断ち切ってしまった方が楽だ。そうに決まってる。
「やめない。っていうかこんなとこでこんな時間まで何してたわけ?」
「……」
「オレのこと待ってたとか?」
潤が再び手を篤史の肩に触れて笑うと、篤史は不快感を露わにして手を振り払った。これで終わる。潤は形容しがたい複雑な気持ちを抱えて、俯いた。篤史の溜息が聞こえる。今度こそ、全て終わる。
「……待ってた」
単にかまをかけてみただけの言葉に予想外の答えを返されて、潤は動揺に言葉を詰まらせた。ばくばくと心臓が高鳴る。早く、終わりにして欲しいのに。
「な……んで……だよ……」
「……最近見かけなかったから、ちょっと……気になっただけ」
「そんなの……頼んで、ないよ」
「……そうだな」
自分で仕向けたことなのに、篤史の一層冷ややかな声に潤は傷ついた。ゆっくりと呼吸を繰り返して、嗚咽が漏れだすのを堪える。俯いたままでいると、やがて篤史がいつの間にか地面に落ちていたジャケットを拾う気配があった。それから目の前に深い色合いの缶が置かれる。潤は思わず手を伸ばして、それがスポーツドリンクの缶だということに気付くと息を呑んだ。
「頬、ちゃんと冷やせ」
篤史が立ち上がり背を向ける。さくさくと芝生が踏まれる音が遠くに聞こえた。音が小さくなるにつれて全身の痛みは増して、やがて聞こえなくなると、潤はその場に突っ伏した。涙が零れて、芝生を濡らす。むせ込むような緑の匂いが、麻薬のように脳を痺れさせた。
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