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第15話

スポーツドリンクの缶をしっかり持って、潤はどうにかキャンパスを出た。あのまま腐って分解されてしまえばよかったのかもしれないけれど、篤史が去った後にはすぐにでも祐司の痕跡を洗い流してしまいたくなった。物理的に痕跡が消えたところで、消えない感触はあるけれど、それでも。 淡く月明かりの差す夜道の静けさは、やけに暴力的に思えた。細いナイフのように潤を傷つける。一歩進むごとに傷が深くなって、歩調が鈍くなっていく。篤史のことばかりが頭の中を行き交った。自分で選んで発した言葉のはずなのに、もう希望なんて一縷も残したくないと思ったのに、篤史のことを思うと胸が痛くなる。手を取っていれば、身を投げ出していれば、篤史は抱きしめてくれただろうか。そんな都合のいいことを考えてしまう。 身体も頭の中も全部がぐちゃぐちゃだ。足腰には力が入らなくて、残っている力で拳を握る。その手の感触にはまるでリアリティがなかった。 永遠のような長い時間をかけて、ようやくアパートの前まで来ると、潤は俯いたまま小さく息を漏らした。重い吐息が、軽やかな夜の空気の中を沈んでいく。入口のブロック塀に手をかけるとざらりとした感触に責められた。 「――潤くん?」 まるで宇宙のど真ん中にいるような視界の暗さと息苦しさのなかで、ふと聞き覚えのある声が潤を呼んだ。聞いた途端張っていた気が抜けて、身体が勝手にブロック塀に寄りかかりながら崩れる。冷たかった缶は、もう手のひらの温度に馴染んでしまっていた。 「どうしたの?」 部屋の前にいた澄樹が口調に動揺を宿しながら駆け寄ってくる。家まで辿り着かなければ、という強迫観念が消えると、祐司の言葉と篤史の言葉がぐるぐると頭の中を回った。 「これ……」 「っ……」 「……誰に」 「知らない……」 名乗られても、まるで覚えのない知らない男。澄樹が息を呑んで、それから溜息が聞こえてきた。篤史の溜息と重なる。篤史に諦めないでほしかった。でも期待なんかしたくない。嫌われたくない。殴られたくもない。どれが一番強い自分の思いだろう。どうすればいいのだろう。 「っ何で……」 「え?」 「何で……オレの何が悪い……?」 「……潤くん」 「みんなオレが悪いの!? こんなことされんのも、全部オレのせい!? どうすればいいんだよ!」 気持ち悪い。変人。異常。言葉が身体を押し潰す。頭の中でその言葉たちを必死で否定しながら、潤は頭を抱えた。叫び出したいのに嗚咽のせいでうまくいかない。 「どうすればオレをちゃんと見てくれる? ……教えてよ……わかんないよ……」 誰も自分を真っ直ぐに見て受け入れてくれない。どうすれば愛してもらえるというのだろう。笑ってもらえるのだろう。篤史が一番初めに自分に向けてくれた笑みを、どうしたら傷つかずにずっと向け続けてもらえるだろう。 「っ……」 溜まっていた感情が溢れだして、ぼろぼろと大粒の涙が頬を伝って地面に重みを持って落ちた。そっと、手のひらが背中に充てられた。澄樹の手のひらだ。祖父が死んでから、何度この手を頼っただろう。片手で握り締めた缶の硬質さが際立った。 「萱野……さん……」 潤は缶を手放さないまま、身体を起こして空いた手を澄樹の首に巻き付けた。いつもと同じ澄樹の感触と匂いが胸をざわつかせる。澄樹が息を呑むのもいつものことだ。澄樹はいつだって迷っている。だから潤は迷わない。 「ねぇ、しよ。して」 「潤くん……」 「突っ込んでぐちゃぐちゃにして。ねぇ、そんでオレを気持ちよくしてよ、いつもみたいに」 身体も精神状態もぼろぼろなのに、こんな時ばかり笑いが零れた。小さな、乾いた笑い。本当はこんな笑いは零したくないのに。まだ迷っているらしい澄樹の手のひらが潤のシャツをつ、と寄せた。目を閉じてほんの少しだけ祈る。 「早く……お願いだから……萱野さんの仕事だろ」 初めて会った時、澄樹は確かにそう言った。仕事だから、と。だからこそ、潤はこれだけ甘えることができるのだ。仕事からは、彼は逃げない。虚しいとわかっていてもこうするより他にない。 初めて潤が澄樹にそう頼んだ時と同じように、澄樹は静かにわかった、と言った。静寂の中を安堵の波がゆっくりと広がって、潤は澄樹の髪を掴んでキスを仕掛ける。ここが外だということも忘れていて、慌てた様子の澄樹が部屋に入ることを促した。 「どこでもいいよ……」 「そういうわけにはいかないよ」 「何で……さっきなんか……教室で……ヤッてたのに……」 笑ってやろうと思ったのにうまく笑えなくて、代わりにまた大きな涙の粒がぽろ、と零れ落ちた。部屋に入ると待ちきれずに澄樹の唇に噛みつくようなキスをする。キスをしながら大学からずっと手にしていた青い缶を靴箱の上に置くと、一気に熱が放出されたように潤の中は空っぽになった。澄樹との行為に没頭しながら、何も考えないようにと自分を手放していく。早くしないと空っぽの身体はすぐにでも押し潰されてしまう。 甘さも穏やかさもない、快楽的で背徳的で、切ない。けれど、潤を楽にする。熱に浮かされながら潤は頭の中で篤史のことを考えて、それを早く追いやろうとますます行為を濃密なものに深めていく。何度も何度も、心の中で篤史を呼んで、呼ぶたびに、胸の痛みは強くなった。 悲しげな雨の音に、潤はゆっくりと目を覚ました。暗闇の世界に細やかな雨音だけが響いている。冷たく肌に張りつく空気が、雨を感じさせた。 「っ……つ、」 身体を少しでも動かすとあちこちが痛みに悲鳴をあげて、潤は仕方なく動くことを諦めて息をついた。 「大丈夫?」 雨のドームの中にぽつぽつと声が響いた。暗闇の中を見回すと、上から降りてきた手が潤の髪をさらりと撫でた。 「かやのさん……」 「うん?」 「……でんき……つけて」 澄樹の返事は聴こえなかったけれど、代わりにすぐに部屋の明かりが点いた。蛍光灯の白い光が目に射して、潤は眩しさに目を眇める。澄樹はどうやらベッドの上ではなくそのすぐ脇に座っているらしかった。ゆっくりと目を慣らして、また息を吐く。喉が荒れていて、空気がところどころ引っ掛かっていた。 「身体、平気?」 「……いたい」 「どこが痛い?」 「……全部」 澄樹の困ったような笑いが空間をほんの少し柔らかくした。けれど気分はちっとも明るくならない。眠っている間はよかったのに、目を覚ましてしまうと簡単に底が見えた。 「……何時?」 「四時前……かな」 「帰らないの?」 いつもなら仕事があるので始発で帰ることが多い澄樹は、潤を見て曖昧に笑った。 「僕だって鬼じゃない……それに今日は土曜日だ」 「……そ」 「希望があれば週末はいられるけど」 その先を潤に委ねる口調で澄樹は言った。こんなことを言うのは珍しい。きっと、よっぽど弱っているように見えたのだろう。実際、そうなのだけれど。 「……仕事熱心だね」 潤の淡々とした口調の嫌味に、澄樹はまぁね、と苦笑を洩らした。溜息を吐きながら、別にいてもいいよ、と返すと、澄樹はうん、と頷いた。こんな身体では机に向かうこともできない。 雨音は小さくも大きくもならず、ただ淡々と同じトーンで外を濡らしているらしかった。まるで今の潤の胸の中のように。冷たくなった心臓で、思い出すのは篤史のことばかりだった。

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