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第16話
雨上がりの街は、太陽の光をより眩く映した。真夜中から朝まで降り続いた雨のせいで道路はまだ濡れていて、陽に蒸発した雨が独特の匂いを振り撒いていた。篤史は言い様のない苛立ちを抱えながら休日でいつもより人の少ないキャンパスを歩いている。昨日潤に会ってから、苛立ちは収まるどころかどんどん膨れ上がっていた。
潤は明らかに暴力を受けた様子だった。会った瞬間に倒れてしまった潤を運んだ時、篤史は思わず息を呑んだ。夕闇の中でもその痛々しさが十分過ぎるほどにわかったからだ。腫れた頬、乱れた髪、衣服、苦しげな呼吸。すぐに何が起きたのか想像がついた。けれど目覚めた潤は何でもないことのようにそれを認め、篤史をはっきりと拒絶した。
苛立ちが胸のあたりに雲のように渦巻く。苛立ちは潤に対して、また、自分に対して。あんなになってまで笑っている潤に腹が立つし、頼ってくれればよかったのにと思ってしまう自分に苛立った。どうしても、放っておこうという気になれない。気になって仕方がない。七月以外の人間のことをこんなに気にかけたことなんてなかったのに。
徐々に歩調を緩めていた篤史はとうとう立ち止まって溜息を吐いた。静かに吹く風が緑を揺らすと濃い若葉の匂いがして、篤史の行き場のない怒りは募る。潤のことばかりを考えている。部屋で一人でいることに限界を感じて図書館にでも行こうと大学へ来たけれど、気付けば潤の姿を探そうとしている。昨日の状態から言ってふらふらとこんなところを歩いているとはとても思えないのに。
「――あれ、篤史?」
高く晴れた空を真っ直ぐ突き抜けるような凛とした声が鼓膜を震わせた。黒い液体に一滴の白が落ちるような。篤史ははっとして俯けていた顔を上げる。数メートル先に立ち止まった七月が大きな目で瞬きをした。
「どうしたの、こんなとこでぼけっとして」
「え……」
「講義?」
篤史は辺りを見回す。空の澄んだブルーが視界に入るとようやく意識が現実に戻ったようにはっきりとして、首を横に振った。
「や……図書館行こうと……思って」
「そっか」
「お前は?」
「オレも図書館。本返すの忘れてたから」
七月はそう言って、それから久し振りだね、と柔らかく微笑んだ。いつ以来だろう、と思って、すぐに答えを見つける。潤にいきなりキスをされたあの時だ。潤のことがまた思い出されて、苛立ちもすぐに戻った。潤は篤史に対して大抵ふざけた態度で、そのくせ、目が離せないような表情を浮かべる。
「そうだ。ちょうどよかった。今日電話しようと思ってたんだよ」
身体は大丈夫だっただろうか。倒れるほどに憔悴していたのに、苛立っていたとはいえ帰るべきではなかった。でもあの時は自分を粗末にしているとしか思えない潤に腹が立って仕方なかった。いつかと同じように。
「篤史、聞いてる?」
肩を叩かれて、篤史はまた考え事に耽っていた自分に気付いた。すぅ、と爽やかな風が過ぎって胸をざわつかせる。七月が不審げに篤史を見上げて首を傾げた。やっぱりどうかしている。そう思うのに、目線はすぐにまばらに人通りのある方に向いた。潤を探している自分がいる。
「誰か待ってる?」
「いや……」
「そう?」
「……誰も待ってない」
溜息が零れる。篤史はまた自分自身に苛立って、頭を掻いた。
「悪い、何」
「え……あ、そうだった。あのさ、おばさんの誕生日、もうすぐでしょう?」
「母さん?」
七月はうん、と頷いて、呑気に笑った。息子の篤史ですらうろ覚えの母親の誕生日をしっかり記憶しているのは七月らしいけれど、正直言って今の篤史はそれどころではなかった。
あぁ、と鈍い反応しか返さなかった篤史に、七月はわずかに顔を顰めてあぁ、じゃないでしょう、と言った。
「何か贈ろうと思うんだ。できれば篤史と連名がいいかなと思ったんだけど……」
「……」
「昨日母さんから電話があって、篤史が家出ておばさん寂しがってるみたいだから……ごめん、もう何か考えてる?」
「いや……別に気にしなくてもいい」
篤史の母親は気分屋なところがあるので、大方家族もののドキュメンタリーでも観たのだろう。そう当たりをつけて、篤史は億劫さに嘆息した。七月の表情がまた歪む。
「よくないよ。オレもお世話になってるし……」
「母さんだって気にしないよ」
「でも……」
納得のいかない様子の七月に、篤史は仕方なく息を吐いた。七月は見かけに寄らず頑固な一面があって、それは篤史も敵わないほどだ。
「……じゃあ、何でもいいから」
「そんな……せっかくだし一緒に決めようよ。おばさん篤史のこと心配してるよ」
「何でもいいって。金は俺が出すし」
「……何でそんな言い方するかな」
「別に……」
「篤史今日変だよ。何怒ってるの?」
七月ははっきりと不満げに声を低くした。幼い頃から一緒にいて、つまらない喧嘩もそう珍しいことではない。ただ、この場合はタイミングの問題だ。七月に会う前から篤史の機嫌は最悪だった。
「……別に、怒ってない」
「怒ってるよ」
「何でもないって」
「そんな風に見えないよ」
「しつこいぞ。怒ってないって、言ってるだろ」
肩口に触れかけた七月の手を思わず振り払って、篤史は勢いで口調を強くしてしまった。すぐに我に返って、けれど緊張感はもう誤魔化せない。遠くで甲高い騒ぎ声が響いた。透明なアクリルの板で仕切られたような空間に、緑が薫る。その柔らかさが、篤史の胸を鈍く痛ませた。
「……悪い」
「あ……オレが……ごめん、捲し立てたりして……」
「いや……」
最悪だ。そう思って、けれどそれ以上の言葉を紡げなかった。やり取りの合間にも潤のことがちらつく。むしゃくしゃする。去り際の言葉が重みを持って行き交う。潤があの状況を望んでいたなんて、そんなことは思っていない。信じていない。だって潤は悲しそうに顔を歪めていた。それなのに。
「……あの、篤史?」
「何でもない」
七月はうん、と寂しげに呟いて、宙で止まっていた腕を下ろした。からりとした風は雨の匂いを滲ませて、また空が泣き出すんじゃないかと、そんな気がした。
「……頼りにならないかもしれないけど、オレでよければ……話くらい聞けるよ……?」
消え入りそうな声。誰よりも大切なはずの七月を傷つけてまで、何をしているのだろう。そう思うのに、潤の表情が、声が、感触が、篤史を捉えて離さない。熱と痛み。混ざり合いながらやってくる。
「いや……本当に何でもないから……悪い」
「そう……じゃあ、オレ、行くね……」
「あぁ」
「あの、でも……できればおばさんの誕生日は何か考えてあげて」
「……わかった」
七月が不自然な緊張感の中を通って、篤史の横を通り過ぎた。近い足音が篤史を責める。篤史はようやく誰よりも潤を思う自分の気持ちと向き合った。潤のことが好きだ。誰よりも、何よりも。
相変わらず風が運んでくる雨と若葉の入り混じった匂いは、潤の痛みを想わせた。篤史は空気を吸い込みながら、辺りを見回す。潤の姿は当然のように見えなかった。
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