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第17話
温かく穏やかな日差しが鬱陶しくない程度の厚みを持って教室の中に射していた。定年間際の教授の退屈な講義は、学生の興味などおかまいなしに淡々と行われている。心地よい気温と子守唄のような話のトーンに負けて眠っている学生が多いものの、ざわめきは講義が始まってから一度も小さくならない。それがいつものことで、きっと教授にとっては何十年もいつものことだったのだろう。教科書を片手に、ぼそぼそと言葉を紡いでいる。篤史はまばらに埋まっている講義室の中を見渡して、開始時と何も変わらないその様子に嘆息した。
長い週末がようやく明け、けれど新しい週が数日過ぎても潤の姿は大学で見かけられなかった。苛立ちはいつまでも消えない。けれど篤史は潤の連絡先も家も知らなかった。どうしようもなくて、何もできない自分に苛立つ。悪循環だ。七月に八つ当たりをしたこともまだきちんと謝っていない。けれどどうしても、その余裕が生まれなかった。
つまらない講義はひたすらに続けられる。頬杖をついていた手で顔を隠すようにして、篤史はまた溜息をついた。誰かが教室を出たり、入ってきたりすると平坦な鼓動が荒くなる。消極的な探し方。でも、きっと一目見れば、それで少しは安心できるような気がした。篤史は目を閉じて潤の表情を思い浮かべる。無理をして取り繕った顔、それから、入学式で会った時の笑み。桜の花弁が散る中で、篤史はそれをきれいだと思った。
「――おい、篤史?」
声と共に肩を揺すられると、篤史はびくりと身体を震わせて目を開けた。視線を上げて、その先でまだあの年老いた教授が同じ体勢で話しているのを確認すると、思わず溜息を零す。
「何だよ、具合悪いの? 風邪?」
隣で講義を受けていた北斗がわずかに顔を歪めながら聞いてくる。いつから北斗は自分の名前を呼び捨てするようになったのだろうかという疑問が浮かんで、けれど答えはわからなかった。それだけここ数日潤以外のことに無頓着になっているのだろう。篤史は身体を起こして椅子の背もたれに寄りかかると、項垂れて頭を掻いた。
「……別に、普通」
「お前って、いつもそれな」
北斗は困ったように笑いながら頬杖をついて篤史の方を見た。黒板を叩くチョークの音が聞こえる。
「普通なんだからしょうがないだろ」
「普通ねぇ……ならいいけど。まさかまた日和佐と何かあったりしないよな」
纏う空気を固くして、北斗はやけに真剣な様子で篤史に聞いてくる。その予想外の眼差しに篤史はたじろいで、それを肯定と取ったらしい北斗が身を乗り出してきた。
「今度は何されたんだよ」
「や、別に何も……」
「じゃあ何」
「何でもないって。ただ、最近見かけないと思ってただけ」
篤史の誤魔化しに北斗は納得のいかない顔を浮かべて、けれどしばらくすると諦めるように小さく息を吐いた。教授の話はまとめに入っているようで、教室の雰囲気が急にそわそわし始めている。
「……あいつ頭いいんだから、講義ちょっと休むくらい余裕だろ」
「……」
「篤史はあいつのことばっか気にし過ぎなんだよ。俺のこともちょっとは気にしてよ」
「……してるよ」
「嘘だ」
北斗は恨めしそうに篤史を見やり、図星をつかれた篤史は思わず言葉を詰まらせた。
篤史を助けるように、教授が講義の終了を言葉にし、一気に教室が騒がしくなった。がたがたと机と椅子の音が重なる。教科書をバッグにしまっていると、北斗がはぁ、と小さく溜息を吐いた。
「篤史って意外と、嘘が下手」
「……お前がしつこく聞くからだろ……っていうか、何で呼び捨てなんだ」
「ん? 好きだから」
「……」
怒る気力もなく、篤史は短く息をついてナイロンのバッグを閉じた。二限目の講義だったこともあり、教室からはあっという間に学生が流れ出ていく。静けさはすぐに訪れた。一面のガラス窓からは白い日差しが面になって射し込んでいる。
「無視すんなよ」
「お前の冗談に付き合ってる余裕ない」
「日和佐が気になるから?」
一際静かな空気を纏った声に篤史は動きを止めて北斗の方を見る。日差しに照らされた北斗は考えの読めない薄い笑みを浮かべた。どこか物悲しくも思えるような、そんな笑み方だ。
「中原……?」
「何でもない。それよりさ、遊びに行こうぜ。今日これで講義終わりだろ」
何度逃げても北斗はめげずに篤史を誘う。もういい加減で折れても不思議ではない頃だったけれど、今はタイミングが悪い。こうして話していても、頭の片隅には常に潤のことがあって、渦を巻くような違和感は拭えない。
講義室からは篤史たち以外の人影がいなくなって、広い部屋の中に声は無機的に響いていた。
「悪いけど無理」
「また。篤史ほんといつもそれじゃん」
「そんな気分じゃない」
「行けば楽しいって」
「……ごめん」
抑えた声で言うと、北斗はふと天井を仰いで長い溜息を吐いた。
「……また負けか。何連敗だろ」
誰に言う風でもなく北斗は言って、ノートをあっという間に片付けて机の上に座った。光の中で北斗のヘイゼルの髪がかすかに揺れる。
「どんな奴相手なら心開いてくれるんだよ」
「……何だよ急に」
「彼女?」
「……そうかもな」
「いるの?」
「いないけど、別にいいだろ。中原には関係ない」
付き合いきれない。そう思いながら適当に相槌を打って立ち上がりかける。けれどそれはできなかった。北斗の腕が伸びてきて、篤史の髪に触れたからだ。脈略のない突然の行為に驚いて思わず目を見張る。北斗は無表情だ。
「じゃあさ、付き合う?」
「……は?」
「そしたらもうちょっと俺に興味持つ?」
「……意味が……っていうか、俺男だけど」
「だから?」
「……だから……って……日和佐のこと、軽蔑してるんだろ?」
「まぁね。でも篤史は特別」
「ふざけるなよ」
「怒ってんの? かわいいなぁ」
茶化すように篤史の頭を撫でながら北斗が笑う。篤史ははっきりと怒りを覚えて、北斗の手を振り払った。バッグを手に席を立つ。がた、という音が空間に大仰に響いた。北斗がごめん、と言いつつも軽い笑いを零す。
「冗談だって。そんな怒んないでよ」
「……」
「篤史がいつ誘っても乗ってくんないからさ」
何でもないことのように北斗は言って机から降りる。軽やかな身のこなしが、それまでが冗談だったということを篤史に信じさせた。
「悪いけど、今は何度誘われても同じだから」
同じやりとりの応酬が面倒に思えて、篤史は素気なくそう言うと北斗の脇を通り過ぎた。苛立ちがふつふつと煮立つ。
「あのさぁ」
去ろうとしていた篤史を北斗が呼びとめた。仕方なく立ち止って北斗を振り返る。振り返った先、北斗は逆光の中から篤史を真剣に見つめた。
「篤史が何をそんな心配してんのか知らないけど、あいつは全然篤史のこと頼ってないんじゃないの」
篤史はその言葉にどうしようもない苛立ちを覚えて、短い相槌だけを打つと逃げるようにして教室から出る。自分では潤を助けてやれないんだろうか。感情が煮立つような感覚に冷静さが麻痺する。どうしてあの時自分を頼ってくれなかったのだろう。潤を放っておきたくないと、確かにそう思ったのに。
昼休みのキャンパスは賑わいに色づいている。篤史はモノクロームの気持ちを抱えながら、楽しげな空気の中を突き進んだ。
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