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第18話
空虚と冷たさを感じている。まるで世界から拒絶されているみたいに、感覚は空気と馴染まなかった。それから血の味と、心臓の鈍い痛みがある。身体のあちこちが痛いはずなのに、感じるのは心臓だけだった。馬鹿みたいだ。
久し振りに足を向けたキャンパスで、祐司は随分と簡単に潤を見つけ出したらしかった。祐司は潤の顔を見るとまるでこの世で一番汚いものを見たように顔を歪ませ、そのくせ潤の腕を掴んで人気のないところに連れ込んだ。光が途切れた世界になると、後はもう、この間と同じだった。繰り返しだ。
――お前のせいで俺まで変態に思われる。
そう言いながら、祐司は潤の身体を押し広げた。言葉と行為は整合性が取られることのないまま、潤は傷つけられた。どうしてこんな思いをしなければならないのだろう、なんて、随分昔に忘れた気持ちが蘇るような気がした。何度も何度も考えて、そして考えるだけ無駄だということだけがわかったはずだった。それなのに、やっぱり考えずにはいられない。少しの間目を閉じて、痛いことは考えないで、微かな快楽を引き寄せていればいいだけのはずなのに。それで苦しい時は終わることを知っているはずなのに。心臓を刺されるような痛みが和らぐことはなかった。
「――……、」
息を詰まらせ、潤は乱れたシャツの胸の辺りに皺を作った。苦しみと悲しみに底がないことを毎日思い知る。それが怖い。
取り壊しが決まっている古い校舎の端におまけのようにあるトイレは学生もほとんど寄り付かないらしい。祐司が去ってからはまるで宇宙のような静けさが小さな空間を支配していた。吐息と共に脱力して、タイルの壁に寄りかかる。汚れた鏡が醜さを全て映しているような気がした。
目を閉じると痛みの合間に喉の渇きを感じて、潤は篤史に貰った青い缶のことを思い出した。さっさと飲んで、いや、飲まずに捨ててしまえばいい。そう思ったのに、思考に反して缶はその色を褪せないまま部屋のテーブルの上に鎮座している。捨てようと思っては、思いとどまる。触れてしまうことさえ怖かった。あの時の篤史の軽蔑の眼差しと声が頭から離れない。期待なんかしていなかったのに、思い出すたびに胸が痛むのだ。
「――……ふ」
自分の愚かさに耐えられなくなって、潤は思わず笑いを零した。今日もこの間と同じで乱暴な扱いを受けたけれど、前回ほどの衝撃はなかった。馴染んでいく自分が目に浮かぶようだった。鏡に映った自分の顔は驚くほど醜い。そう思うと、笑いが零れた。悲しいのに笑いが零れてくるなんて。神経が麻痺している。
「何笑ってんだよ、気持ち悪い」
古いドアとタイルが音を立てた。声は、まるで白昼夢のように現実味がなかった。もうすぐ夕闇が訪れるというのに。潤は驚く余裕すらなく、声の方に視線だけを向けた。
「何、余裕なの? つまんねぇな」
本当につまらなさそうに息をつく男に見覚えがある。いつも決まって篤史と一緒にいる、医学科の学生だ。それに気付くと潤の心臓はぎこちない音を発した。男は潤が身構えるのに気づいたらしく、愉悦そうに口角を上げた。
「俺のこと知ってる?」
「……羽沢の……友達だろ……」
「中原北斗っていうんだけどね。まぁ、知らないか」
「……」
中原北斗という名前らしい。名前なんて知るはずもなかった。北斗はまた笑って、潤に近付いた。衣服が乱れ、頬を腫らした自分を見てもまるで驚く様子のないこの男が味方でないことくらいは潤にもわかる。
「あぁ、随分派手にやられたな。きれいな顔が台無し」
「……」
「気の弱い人だと思ったのに、意外と容赦ないね」
「っ……」
北斗は躊躇をまったく見せずに潤の頬に触れ、それから強い力でつねった。ぎりぎりと痛みが走る。
「っなに……」
潤が北斗を睨むと、北斗は至極無表情に距離を取り、今度は潤の頬を殴った。警戒はしていたつもりなのに、身体は吹き飛んで冷たい壁に打ち付けられる。
「痛いだろ?」
「っ……」
「俺のお前への恨みは、上里先輩なんかよりずっと大きいからね。当り前だ」
北斗は薄ら笑いを浮かべ、起き上がれない潤を見下ろした。北斗は祐司が潤に暴行を加えていることを知っている。潤は状況を把握した。
「……あんたが……あいつに吹き込んだわけ……」
「日和佐が先輩に口説かれてること言いふらしてるって?」
その口調で潤は確信を持ち、けれどそれがわかったところでどうしようもなかった。わからないのはどうしてわざわざ北斗が自分からそんなことを言いに来たかということだけだ。
「何で……」
潤が北斗を見上げると、北斗は初めて目に怒りの色を示した。
「お前、マジで邪魔なんだよ」
「オレは、何も……」
「そうだよ、お前は何にもしない。そのくせ一番気にかけられてる。俺なんか見向きもされないのに」
「……何のこ……とっ」
反論する間も与えられず、髪を掴まれ立たされると、もう一度殴られた。再び床に沈み、感覚が遠のいていく。
「決まってるだろ。篤史だよ」
「……はざわ?」
「汚いくせに、何もしないくせに、お前みたいな奴がいるから、俺は何も手に入れられない」
「そ、んなの……知らな……」
「知ってるか知らないかなんてどうでもいい。でもな、俺はお前みたいな奴が死ぬほど嫌いなんだよ」
「……、」
「顔腫らして、レイプされて、友達も何もいない。それで同情されるとでも思ってるわけ? 冗談じゃねぇ。自業自得だろ。この変態」
あの時、身体を売ってでもわずかな平穏を得ようとした。それが業だというのなら、自分の人生は一体何だというのだろう。誰も。
「……れも、教えてくれなかった」
「は?」
「オレは……何もしてないっ……」
北斗に胸倉を掴まれ、身体がほとんど宙に浮く。壁に身体を打ち付けられると、骨が軋むのがわかった。
「そうだよ。何もしない。それがむかつくって言ってる」
「……っ」
「消えろよ。俺と篤史の前から」
「……なん」
「どのみち、そうしない限り上里先輩は止めないよ。あの人もお前ほどじゃないけど馬鹿だから」
ここを離れ、そうして次の場所に行って、同じことを繰り返す。わかっている。消えればいい。死んでしまえばいい。わかっているのに。
「あんたには関係な……っ」
言葉を遮り、三度北斗に殴り飛ばされた。三度目が一番衝撃が強く、潤の身体は対角まで吹っ飛んだ。痛みに顔が歪む。生きているだけで、ただそれだけでたくさんの人が自分を気味悪がる。誰もその苦しみをわかってくれない。
「――すけて」
「あ?」
「……痛いよ……羽沢……助けて……」
意識は朦朧としていて、まるで頭が回らなかった。まったくの無意識に潤は篤史に助けを求めた。もちろんそれは北斗を逆上させ、北斗の蹴りが鳩尾に入る。空っぽの胃から分泌液を吐きだしながら、潤はまたあの青い缶のことを思い出していた。まるで夢を見るように。手を伸ばせばよかったと思った。プルトップを開けて、液体を身体に入れたら、それは今も身体に満ちていたかもしれないのに。そうしたら、ほんの少しは救われたかもしれなかったのに。
北斗の怒りはまるで治まる気配を見せず、潤はしばらくして気を失った。
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