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第19話
その日最後の講義を終えると、篤史は少しの疲労感に溜息をついた。講義が終わった後の学生の移動は日ごとスピーディーになっていく。あっという間に講堂を埋めていた学生の姿は見えなくなった。いつもなら北斗に促されて篤史もあの学生たちのようにすぐに教室を出ることが多いけれど、今日は北斗がいない。篤史はぼんやりと窓の外を眺めながら、マイペースに帰り支度を進めた。景色は深い橙色に染まり、鮮やかな色が影を濃くしていく。その変化が胸に入ってくるようなざわつきを覚え、篤史はまた嘆息した。
相変わらず潤を見かけない。キャンパス内の大きな通りを通る時、窓から外を見る時、そこに潤を探しては姿を見つけられないことに複雑な感情を抱く。不安感が身体を圧迫して、熱が籠り、世界が閉塞する。篤史は言葉で説明できない事象なんて大嫌いだけれど、実感してしまうともうどうしようもない。
「――……」
まるでひとつ上の次元が映されているかのように歪んだ世界を眺めていた篤史はやがて諦めバッグを手にとった。講堂の中の最後の一人になってから随分と時間が経過したような錯覚に陥る。改めて見回すと、空っぽの広い教室はますます篤史の虚無感を誘った。
まだ比較的新しい建物とはいえ、人影のない廊下は闇の色に染まり出し、どこか悲しく退廃的だ。篤史は背中に薄い紙が貼りつくような不快さを感じながら、階段を降りた。揺らぎながら降りてくる夜の帳を感じる合間にまた潤のことを考える。最後に潤を見たあの夜は、今日よりもずっと冷たかった。
「羽沢」
一階への階段の最後の段を下りると、篤史は不意にかけられた声に足を留めた。視線を上げると、入口に立っている人物に少し驚く。
「……矢野?」
眉を顰めると、幸大は気まずそうに頭を掻いた。高校から合わせて同級生でいるのは四年目になるけれど、幸大に待ち伏せをされたことなんて一度もなかった。もちろん、逆も然り、だ。それにここは医学部のキャンパスで、幸大が用もなく訪れることはあり得ない。
「……講義、終わり?」
「まぁ」
「あー……えー……お疲れ?」
「……ここ医学部だぞ」
「わかってるよ。だから……待ってたんだろうが」
「お前が? 俺を?」
わかっていたこととはいえ、篤史はますます驚いて目を瞠った。幸大は心底嫌そうな顔をして溜息を吐いた。
「話があるんだよ。ちょっと付き合え」
「……疲れてるんだけど」
「付き合え」
「……」
篤史は溜息を吐き、幸大は入口の向こうを顎で指した。仕方なく幸大の後ろに続いて外に出る。
夜へとシフトしていく世界は、少しの柔らかさと冷たさの入り混じった小さな風が吹いていた。一体何事なのだろうかと頭の中で考えを巡らせ、けれど幸大がと自分の共通点はどう考えてもひとつしかなかった。そう考えれば答えは自明だ。篤史は内心で気を重くし、しばらく歩いたところで幸大が強張った表情で振り返った。
「お前、七月になんか言った?」
予想通りの幸大の問いに、篤史は内心で嘆息した。
「……何かって?」
「わからないからわざわざこうして聞いてるんだろ。七月が落ち込んでんだよ」
「俺のせいだって?」
「七月がそんなこと言うわけないだろ。俺がそう思っただけ。お前じゃないの?」
「……悪かったって伝えてくれ」
七月に苛立ちをぶつけてしまったことを改めて謝らなければならないともちろん思った。でもできなかった。言葉でそう伝えたところで、今の状況では繰り返す。篤史の人生で一番大事な存在に一言の謝罪も紡げない。まったく、異常事態だ。
幸大は立ち止まり、そのまま立ち去ろうとした篤史の肩を掴んだ。あからさまな不機嫌が表情に宿っている。怒りと不安。後者がやや勝っているのかもしれない。
「……何した」
「別に、お前が心配するようなことじゃないよ」
篤史は肩に触れた幸大の手を振り払ったけれど、幸大の眼差しは揺るがなかった。こんなところで殴り合いになるのは不本意だ。
「別のことで苛々して、八つ当たりした。言い過ぎたと思ってる」
「……」
「それだけだよ」
「そんなことで七月があんなに落ち込むかよ」
「そんなこと言ったって、それで全部だ。嘘だと思うなら七月に確かめろよ」
「……」
口調を少し強めると、幸大は引き下がった。けれど納得はいっていないらしかった。
「苛立ってるのが七月にばれて、七月が心配したからいらないって言った。今の俺じゃまた同じことになるから連絡しなかった」
「……」
「本当にこれで全部。満足か?」
幸大はしばらく間を置いて、それから息を吐いた。別に幸大に懇切丁寧に説明する必要なんて感じないけれど、誤魔化せば七月の心配がひとつ増えるだけだ。
「……わかった。本当にそれだけ?」
「しつこい。大体、今更俺と七月がどうにかなるんだったら、お前に会う前にどうにかしてる」
「……」
「今は、七月のこと考えてる余裕もない」
あまりにも長く幸大に疑いの目で見つめられたせいか、最後は余計なことを言い、篤史はそれをすぐに後悔した。幸大は少し驚いた様子で、それからすぐそばのベンチに腰を下ろした。
「なんだ……そういうことか」
「……何が」
「お前、七月に苛々の理由言わなかったんだろ」
「言ったろ。七月は関係ないんだよ」
「だから、それだよ」
「どれだよ」
「八つ当たりされたことに傷ついたんじゃなくて、お前が何も言ってくれなかったのが寂しかったんだ」
幸大は勝手に納得した様子で空を仰いだ。
「勝手な推測するなよ」
「でも当たってるね」
「……」
「お前は七月の保護者のつもりでいるんだろうけど、七月も同じなんだよ」
別に自分は七月の保護者を目指していたわけじゃない。その一言は紡がなかった。いつの間にか辺りはすっかり暗くなった。
「七月に心配かけてんじゃねぇよ」
「……それは、悪かった」
篤史が顔を背けると、幸大は少しだけ笑った。短い沈黙は、以前ほど強張らなかった。時が進んでいるのかもしれない。そう思った。
「こんなこと、ほんとは言いたくないけど」
「……何だよ」
「七月は……お前が本当に大事なんだよ。俺が泣いて嫌がったって、羽沢に何かあれば七月は本気で心配するし、どこにだって駆けつけるよ」
「……」
「すげぇ嫌だけど、しょうがないんだよ」
深いネイビーに馴染まない幸大の言葉に、胸の奥が小さく燃えた。小さな火は一瞬で馴染み、後に焦げ跡は残らなかった。肩の力が抜けたのがわかった。十数年分の重み。
「それにしても、お前に七月じゃない大切なことがあるなんて知らなかった」
「……、」
「驚いてる」
幸大が笑う。ずっと、七月のことが一番大事だった。それは変えようのない事象で、一生変われないだろうと、そう思っていたのはごく最近のことなのに。
「……俺も知らなかったけど」
気持ちは、少しずつ地面に根付いている。篤史はもうそれに抗おうとはしない。初めから抗いようがなかったのだ、多分。
「相談乗ってやろうか?」
幸大は急に上機嫌になって、篤史は内心で嘆息した。七月のことがなくても、幸大と自分はうまくやれなかっただろう。
「馬鹿か」
「何で。お前の弱味握れる」
「絶対無理」
きっぱりと言い放ち歩きだすと、すぐに幸大が隣に並んだ。仕方なく、肩を並べて歩く。この状況を七月が見たらさぞ喜ぶのだろう、なんて、そんなことを考えた。
空気は冷えていく。潤のことを思い浮かべると胸が痛い。最後に会った時から、ずっと、ひたすら。会いたいとも、怖いとも思う。答えはあるのに。
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