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第20話

暗闇に白煙がくゆる。薄く開いた唇に挟んだ煙草は灰の重みに傾いていた。あちこちが痛み、煙草の味もよくわからない。それでも煙草の煙が肺を満たす感覚が、ほんの少しの安堵を生んでいた。記憶にほんの少しのフィルターをかけることができる。視界もぼんやりと霞んでいて、今はっきりと感じるのはほとんど痛みばかりだ。旧棟で北斗に会って、数発殴られてからの記憶はない。気付いた時には北斗の姿はなく、辺りはすっかり暗くなっていた。それから重い身体を引きずってどうにかアパートまで戻ってきて、震える手で煙草に火をつけたはずだ。でも記憶がはっきりしない。部屋に帰りたいという本能に従ったのだろう。意識は、死んでもいいと言っていた。 どうしてだろうと潤はいつも思う。子供の頃からずっと。例えば鳥が飛んでいることに、白い光が輝くことに。そしてまた、殴られたり汚い言葉を吐かれることにも。世界はたくさんの興味深い事象を内包していて、けれど人というカテゴリーに含まれないものは大抵のことを理解できた。空の飛び方も宇宙の年齢も。わからないのは人間が関わった時だけだ。そうして傷つき、それでも潤は求めている。最後には自分がわからなくなるのかもしれない。どうしてどうしてと繰り返してきて、繰り返すことに事態が悪化していく。 「―――……」 うつろな目から涙が零れ落ちた。世界がなくならないのなら、自分が消えてなくなりたい。死ぬことは怖いことなのだと思っていたけれど、このまま残りの人生を生きて行くよりはましに違いない。だって、この痛みは死より辛いように思える。 潤はひどく遠い思考でそう考えながら、ゆっくりと目を開けた。涙で滲む視界に青い缶が映る。離れた場所にあるものが人体に干渉することはない。わかっているのに、感情はもうないのに、涙が零れた。篤史の顔が見たいと思った。もしできるのなら、少し話がしたい。入学式の日に悪夢から覚ましてくれたように。 篤史を求めてしまうのが嫌なのに、気付くと篤史のことを考え、手を伸ばしている。馬鹿みたいだ。わかっているのに。 はらはらと涙が零れ、その震えに反応した煙草の灰がほんの少しシーツの上に落ちた。このまま放っておけば、いずれ白に火が移る。 「……、」 突然、視界が白んだ。潤は驚く気力もなく、眩さに目を細めた。視界は余計に曖昧になる。唇に振動が伝わり、潤は煙草が取り去られたことに気付いた。 「危ないよ」 声を聞き、それが澄樹のものだとわかっても、いつものような少しの安堵は訪れなかった。何も感じない。何も。 「鍵も空いてたし。不用心だな」 「……今日は、何の書類?」 潤がそっと口を開くと、澄樹が息を呑むのがわかった。少しずつ、明るさに目が慣れてきた。目の開きは鈍いけれど、どうにか澄樹の表情を捉えることはできる。 「書類はないけどね……時間が空いたから」 澄樹は笑みを浮かべ、煙草を灰皿に押し込んで、ベッドの端に腰を下ろした。緩い波を感じた。 「……変なの」 「また殴られたんだね……どうして逃げなかったの?」 澄樹はわずかに顔を歪め、潤の腫れた頬に手を当てた。悲しそうな顔をする澄樹に腹が立った。 「そんなの……」 「……、」 「逃げたって……仕方ないよ……いつかは殴られる。同じことだ……」 「潤くん……」 「逃げられないし……誰も助けてくれない……萱野さんだって……っ」 涙が零れる。必死にそれを押し込もうとしたけれどそれはうまくいかなかった。仕事という名目で、同情で、彼は自分を抱いてくれる。彼は自分を助けてくれている。でもいつも距離をはかっているし、一番欲しいものはくれない。自分が必要とするほどに彼は潤を必要としてくれはしない。だから、いつまでもこの関係が続く。潤は仕事を言い訳に抱かれ続ける。それで精一杯だということを、潤はよく知っている。みんな同じだ。だから、絶対的なものを誰かに求めるのが怖い。怖いのに。 目の端でまたあの青い缶を捉えた。潤は続きを言うことができずに、辺りを沈黙が支配した。 「頬、冷やそう」 しばらくして、澄樹がそっとそう言った。潤は首を横に振った。 「……いらない」 「潤くん」 「もういいよ……こんな顔、潰れてなくなればいいんだ」 「……」 「それでオレも消えてなくなればいい……萱野さん、オレを殺してよ」 「……できない」 「どうして? オレを殺せば、萱野さんだってオレから解放される。無理に呼び出されたり、セックスさせられたりしなくなる」 「……」 「……大丈夫。オレは遺書を書いてビルの上で靴を揃える。萱野さんはただ、背中を押してくれればいいよ。ほんの少しでいい。飴玉ひとつで取り戻せるエネルギーだ」 そう考えると死ぬことはさっきまで考えていたよりもずっと簡単なことに思えて、潤は乾いた笑いを零した。 「そうだ。死ぬのなんて、簡単なんだ……」 澄樹が手を振り上げた。もう今日は殴られ過ぎていて、今更一発増えたところで何も感じない。そう思ったけれど、澄樹の手が下りてくることはなかった。 「……殴らないの?」 ゆっくりと澄樹が息を吐き、手を下ろした。 「……死ぬのは簡単かもしれない……でも、そう思っても君は今生きているし、僕が背中を押すまで死ねないんだろう?」 「…………怖いんだ」 怖い。死ぬことも生きて行くことも――光のない世界に佇むことも、光に向かって手を伸ばすことも。全部怖い。動けなくなってしまった。 「どうすればいいか、わからないんだよ……」 視界を手のひらで覆ってしまうと、暗闇は簡単に作られた。死ぬことは、きっとこれと同じだろう。それでも、それをこんなにも怖いと思う。 澄樹がそっと潤の身体を起こし、優しく抱きしめた。何度もセックスを繰り返したのに、こんな風に抱きしめられたことは一度もなかった。 「か、やのさ……」 「……僕は……僕も……わからなかった。ずっと戸惑ってた。今もだ。君に幸せになってもらいたいと思うけど……自分がどうするべきか、わからなかった」 「……言わないで」 知っている。そんなことはわかっている。それでも彼が抱いてくれるから、潤はそれに甘えていた。それを失ったら、どうすればいいのかわからない。死ぬことも生きることもできなくなる。 「君は僕に甘えることを望んでいるわけじゃないだろう?」 「……そんなことないよ」 「……ハザワって、呼んでただろう、何度も。助けてって」 「……、」 痛みを覚えて、潤は言葉をつまらせた。澄樹の腕の温度を感じるのに、篤史のことを思い浮かべる。初めて会った時、篤史が笑ったから。だから、それが一番の思い出になってしまうことが怖かったから。 「ちがう……あれは……」 「大丈夫だよ」 歌うように澄樹は言った。震える身体を澄樹が抱きしめてくれている。 「大丈夫」 この人の声は、こんなに優しかっただろうか。じわりと穏やかな春風のような波が広がる中で、潤はそっと目を閉じた。目を閉じると、たゆたう波の狭間に篤史の顔が浮かぶ。笑み、温かな手。あの時、確かに光は射したのだ。すぐに細い熱の柱が立って苦しくなる。一目でも会えたら、きっともう死にたいなんて思わないのに。

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