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第21話

潤と最後に会ってからもう二週間近くが経過している。その間一度も潤を見かけなかった。柔らかさ帯びだした五月の日差しは世界を穏やかに見せ、篤史の心の影とくっきりとしたコントラストを描いた。最後に会った時の潤の痛々しい表情は日を追うごとに鮮明に焼きつき、篤史はあの時あの場所を去ってしまったことをひどく後悔していた。潤がわざと自分を怒らせようとしていたことに気付けないはずはなかったのに。後悔は膨張を続けていて、篤史はとうとう駄目元で学生課で潤の住所を聞くことを決めた。さすがに十日も姿を見ないということになれば対応してくれるかもしれない。淡い期待が篤史の決意を後押しした。 学生課のある建物はキャンパスの外れに位置している。時間は昼休みに入っているけれど、辺りに学生の姿はほとんどなかった。緑の影が歩道に揺らめいている。柔らかな風が、篤史の不安を煽った。本当に潤のことばかりを考えている。 「――あの」 ちょうど建物に続く曲がり角を折れようとしていた篤史は、前方から歩いてきたスーツ姿の男に声をかけられ足を留めた。ダークグレーのスーツを着こなした男はまだまだ若く見えるけれど、光に溢れる大学のキャンパスにはあまり馴染まない。研究室などに出入りする営業の人間かもしれない。 「あ……はい」 「羽沢篤史くん……だね?」 「……は?」 予想外の事態に篤史は驚き、思わず眉を顰めた。男に見覚えはない。 「失礼ですけど、どちら様ですか?」 「突然申し訳ない。カヤノと申します」 聞き覚えのない名前に篤史が警戒を強めると、男は近付いて名刺を差し出した。篤史はそれを受け取り、白い紙面に浮かぶ黒い文字に目を落とす。 「……弁護士?」 「日和佐潤の後見人です」 「後見人……?」 頭の中を占有している名前を不意に聞き、篤史は目を瞠らせた。澄樹は優しい声ではじめまして、と言い、小さく微笑んだ。 「少し話したいんだけれど、時間ある?」 物腰が柔らかい割に有無を言わさない姿勢に、篤史は申し出を了承した。もちろん潤のことが気になるし、断るつもりはないのだけれど。澄樹は緊張を解いてよかった、とまた微笑んだ。太陽が一日で一番高い位置を越えて、汗ばむほどの強い光が全てを非現実的に映した。手にした白い紙片だけが随分と重く、現実的に思えた。 昼時の学生食堂を避け、大学を出て少し歩いたところにあるカフェに二人で入った。カフェを見つけるまでの間に篤史は頭の中でいくつかの疑問を整理した。席についてコーヒーをオーダーすると、一瞬の絶対的な沈黙が漂う。 「いきなりで申し訳ない。驚いただろう?」 「……まぁ……あの、俺のこと、どうして顔だけで?」 あぁ、と澄樹は苦く笑って、すでに運ばれてきている水のグラスに口をつけた。透明な氷が揺らめく。 「少し、調べさせてもらったんだ。気を悪くしないで……って言っても、無理かもしれないけれど……潤くんのために……」 「日和佐のため?」 澄樹は一旦言葉を区切り、迷う仕草を見せた。緊張を煽る表情に、自然と身体に力がはいるのがわかった。 「……助けて欲しい」 「え?」 「彼が君に助けを求めているから」 「日和佐が、俺に?」 「そう。寝言だけど」 「ね、ごと……?」 「そう」 「……後見人の方……ですよね……?」 篤史は思わず顔を顰めた。嫌な波がうねり始める。そもそも後見人がいるということは、潤には身内がいないのだろうか。この若い後見人は、どうしてわざわざ自分に会いに来たのだろう。まさか単に挨拶に訪れたわけはない。またいくつかの疑問が浮上して、澄樹はそれを察している様子で頷いた。 無言の合間にコーヒーが運ばれてきた。温かな色合いの陶器の中でコーヒーが湯気を立てる。日差しに溶けそうなくらい、淡い湯気だった。 「戸惑ってると思うし……これから話すことで更に混乱させるかもしれないけど……聞いて欲しい、最後まで」 「……」 「羽沢くんも医学部の学生だから、潤くんの成績がずば抜けていることは、知っていると思う」 「……いつもトップに」 「うん。彼は生まれつき人と脳の使い方が違う……というか、優れている。桁違いにね。記憶、処理、全てにおいて、数値で見れば世界でも間違いなくトップクラスの中の、ほんの一握りだ」 「……」 「彼に両親はいない。父親は初めからわからず、母親は彼がまだ幼い頃に子供を捨てた。母方の祖父に育てられたんだけど、彼の祖父は脳科学の権威でね。六歳になるまで、彼は祖父にドイツの研究所で育てられた」 潤が優秀であることはもちろん知っているけれど、澄樹の話はいささか突飛だった。まるで映画か小説だ。けれどおそらくは事実だ。彼はあまりにも常人離れしている。 「彼の祖父は天才と呼ばれる人たちの脳を研究していたけれど、優れた脳の持ち主たちが決して幸福でないことを知っていた。そして悩んでいた。彼は、彼なりに孫を愛していたんだ。その孫を研究対象として見続ける未来を考えた時、全てを捨てて日本に来ることを決意した」 時折コーヒーを飲みながら、澄樹はゆっくりと話した。 「祖父は日本で潤くんにできるだけ普通の暮らしをさせてやろうと考えた。でも、潤くんの能力は明らかに浮いていて、周りはまるでついていけなかった。彼は……日本に来てからひどい苛めに遭ってね……あの容姿だから……年を重ねると暴力は性的なことを求められるまでにエスカレートして……それはずっと……今も続いてる」 「……」 悲しげな澄樹の表情を見て、篤史は胸を痛くした。潤が本当は望んであんなことをされているはずがないことをわかっていた。わかっていたはずだ。けれど信じたくないという思いがあったし、潤に邪険にされると苦しかった。そうして彼から去ってしまったことを、ひどく後悔している。 「彼が中学生の頃に、彼の祖父が亡くなってね……僕が後見人に就くことになった。僕の祖父は潤くんの祖父に随分世話になっていて……僕が祖父に頼まれたんだ。初めは、気が進まなかった。でも彼の境遇に同情したんだ。だからそれを引き受けた」 「……」 「……すぐに後悔したよ。初めて彼に会った時、彼は強姦に遭った身体で僕に抱いて欲しいと頼んだ」 「な……」 「慣らさないとと痛いばかりだからって……そう言ったんだ」 澄樹はまるで現実から目を背けるように目を伏せた。それは彼が潤を抱いたことと、それが今も続いていることを察せられる表情だった。巨大な隕石でも降ってきたかのような気分で、痛みと苦しみが圧し掛かる。 「……今日は……それを言うために?」 早く話を切り上げたい気分になって、篤史は低い声で尋ねた。少し前までもしかすると潤を助けられるのは自分しかいないのかもしれない、なんて都合のいいことを考えていた自分が恥ずかしい。そして苦しい。 澄樹は首を横に振って、篤史に視線を向けた。 「そうじゃない。君に彼を助けて欲しい……それが頼めるかどうか、確かめに来た」 「俺が……?」 「僕には無理だ」 澄樹の発言が無責任に思え、篤史は眉を顰めた。 「……どういう意味ですか?」 「僕は彼を抱いて、それで初めは、助けているつもりになっていた――本当は暴行した人間をつきとめて止めさせるべきだって思ったけど、潤くんはいつも相手が誰か絶対に言わないんだ。そいつらがいなくなっても、また別の奴が出てくるだけだって。同じことを初めから繰り返すのは嫌だって……」 「……」 「だから抱いた。でも彼は僕には救われなかった。本当の意味では……それは僕にはできない」 「……なぜ」 「僕が彼に同情しているからだよ。彼ほど不幸な人間に会ったことがない。でも彼は同情なんか求めていないんだ。わかっていても、僕にはどうにもできない」 「……」 「潤くんは、君に医学部に入った理由を話した?」 思わぬ話を振られ、篤史は少し動揺した。潤は確かに自分に医学部に入った理由を話したけれど、それは自分が聞いたからに違いない。 「……必要とされたかったって」 「それが彼の全てだ。自分の存在意義を誰かに認めて欲しがってる。でも僕には絶対に言わない」 「それは俺が聞いたから……」 「潤くんは言いたくないことは言わない」 「……」 「彼は本当に苦しい時には僕の名前を呼ばない。こっそりと、誰にも聞こえないように……君の名前を呼んだよ」 「……」 「きっと潤くんは君をつき離そうとしただろう? どうしてかわかる?」 篤史はそっと俯いた。澄樹が小さく息を吐いた。それは責めているようではなく、ただ悲しそうに響いた。 「怖いからだよ。嫌われたくないからだ。何よりも、君が去って行くことを恐れてる」 「っ…」 波が激しくうねる。あの時潤の言葉なんか無視してそばにいればよかったのに。 「お、れは……」 「……うん」 「……明らかに暴行を受けた日和佐を置いて……帰りました」 「……」 「……日和佐がわざと俺を怒らせようとしてるってわかったのに……苛々して……後悔してます……」 じりじりと焦げる感触がある。匂いすら感じた。心には芯が存在しようとしていて、それがどうにか冷静を呼び掛けていた。 「君は何も知らなかったし、それは仕方がないことだ。ただ……僕は今日君に助けを求めに来たけど……もし、覚悟がないなら……逃げて欲しい。潤くんはあの通りだから……僕は無理にでも君に潤くんのそばにいさせたいわけじゃない」 「……」 「……ごめん。矛盾してるな……何て言えばいいか……」 澄樹は溜息を吐いて、コーヒーを一口啜った。揺らぐ香ばしい匂いが、ひどく篤史を苦しめている。 「ただ……夢にうなされながら君を呼ぶ潤くんを見て……居ても立ってもいられなくなったんだ……」 澄樹もまた、苦しげだった。篤史は少しの間目を閉じた。思い浮かぶのはやっぱり、潤のことばかりだった。このところは寝ても覚めても、ずっと潤のことばかりだ。 「……俺は」 口を開くと、澄樹の肩が不安げに震えた。篤史はコーヒーを一口啜り、気を落ちつけた。混みだしたカフェの中で、二人のテーブル周辺だけが異常なほどの緊張感に包まれていた。 「俺は……少し……思い上がっていたのかもしれません」 「……」 「きっと……日和佐が俺に助けを求めれば……助けてやれるんだと思った。でもあいつは俺を頼らない素振りをして……勝手に自分で傷ついたんです。きっと頼られるんだろうって……思ったから……でも……」 「……」 「でも……今は……日和佐が俺に助けを求めてるかどうかなんて……正直どうでもいいんです。俺は、ただ……日和佐の顔が見たくて……ただ……そばにいたいし……いて欲しい……そう思って……」 他人に自分の感情を素直に話したことなんてなかった。そんなことはあり得ないだろうとすら思ってきた。でも、今初めて誰かに聞いてほしいと思った。そう思えるほど、確固たる気持ちが形成されている。 澄樹は間を置いたあとで、ゆっくりと細い息を吐きだした。そこにはいくらかの安堵が感じられた。 「……迷ったんだ」 「え?」 「書類上いくら優秀でも、君はまだ高校を卒業したばかりの子供だ。どう考えたってこんなこと、重すぎるし……簡単に了承されたら……それはそれで信用できない」 「……」 「未来のことなんかわからないよ。でも、僕は君を信じたいと思ってるんだ……今……酷だってわかってるのに……勝手なことを言って申し訳ない」 澄樹の声が、かたかたと鼓膜を叩いた。篤史は少しほっとして、ようやく口元にかすかな笑みを浮かべた。 「……俺の人生全てだと思っていたものがあります」 「全て」 「俺はまだ子供ですけど……それでも、全てだったとしか言えないものです。きっと一生変わらないと思った。今まで、何があっても揺るがなかった」 「……」 「でも今は日和佐のことの方が大きいんです。いつからか、どうしてか、そんなことがもうよくわからないくらい……大きいんです。一時的な感情とか、無責任な同情とか、そんなもので俺の十八年はくつがえらない。誓って、確かです」 信念と決意を込めた視線を澄樹に送ると、澄樹は一瞬驚いた表情を浮かべ、それから笑った。 「……そう」 「おかしいですか?」 「いや……ここまで俺の疑いが傾くなんてね……やるなぁ、君」 「……疑い」 「ほぼ晴れたよ」 「……ほぼ、ですか」 「あとはこれから次第……なんて、急に上から目線になって悪いけど……心配でね」 そう言いながら、澄樹は手帳を取り出し、その内の一ページを破って篤史に差し出した。 「潤くんのアパートの住所だ。今行っても門前払いかもしれないけど……彼は君を心から拒絶したいわけじゃないよ。そうじゃない」 頷くと、澄樹が優しく微笑んだ。 篤史はまだ強張っている手でコーヒーカップを取り、濃いコーヒーを啜る。まだコーヒーは温かく、ゆったりと染み入る。ざわざわと身体の内部が震えて、篤史は潤のことを思った。

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