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第22話

傾き始めた陽が部屋に緩やかに射しこんでいた。温かなそれは、けれど潤の傷を癒してはくれなかった。身体が受けた傷は回復しているけれど、胸の痛みだけがいつまでも大きいまま、癒える気配もない。痛みを抱えたまま浅い眠りに入り、痛みで目覚める。今日も同じだった。目覚めてからはベッドヘッドに背を凭れたままぼんやりと過ごした。時折煙草を吸って、つまらない窓の外の景色を眺めた。 灰が長く伸びた煙草を手にした灰皿に押し付けて、のろのろと息を吐く。灰皿をテーブルに戻すと、そこにたたずむブルーの缶が自然と目に入った。篤史がくれたその缶は、もうこの部屋の一部のようだった。 「……」 膝を抱えて缶を眺める。心臓が痛い。篤史に会いたい。会いたくない。怖い。自分はこんなにも醜いし、汚い。 額を膝に押し付けて、身体を丸める。意識の中で手を伸ばす。もうひとつの手が必死にそれを抑え込もうとしている。怖くて、怖くて。篤史の顔が歪むところを見た。少しずつ眉間の皺が深くなって、そして最後には耐えがたいほどの軽蔑の眼差しになる。潤は篤史の表情とこれまでの経験を照らし合わせた。そうなったら、本当に自分がどうなってしまうかわからない。生きて行くことも死ぬことも怖い自分は、どうなってしまうのだろう。希望が恐怖に勝ったことなんてない。いつもそう。これからも。それなのに。 淀んだ澱がかき回される。潤は膝を抱える腕に力を込めた。何を想像しても心臓が震える。 「っ……」 目を閉じていると、漆黒の闇の中で高らかな音を聞いた。それはまるで目覚めを促すようだった。身体がいつの間にかバルーンに閉じ込められていたように息苦しくて、その音は、それに針を刺したようだった。空気が弾けて、潤はそっと瞼を開く。インターフォンの音だ。 「――……、」 二度目のドアフォンの音に、潤は動揺した。ドアの方に目を向ける。澄樹だろうか。この部屋を知っている人間は澄樹しかいない。それでも、もしも祐司や北斗が知っていたら。 逃げられないし、逃げても同じことが繰り返されるだけだとわかっているはずなのに、最悪の事態を予想すると身体が震えた。今はまだ耐えられない。そのために大学を休んでいるのに。 「っ……」 今度は直接ドアをノックする音が聞こえて、潤は震えながら膝を抱えていた腕を解いた。出るのは怖いけれど、恐怖を想像しながらいることはもっと怖い。よろめきながら玄関まで行き、ゆっくりと深呼吸をしてドアスコープを覗く。外に立っている人物の歪んだ像を目にすると、衝撃が走った。身体の力が抜けて、ドアにぶつかる。ドアは無情な音を立てた。 「……日和佐?」 ドア越しに、少し戸惑った篤史の声。優しく潤の鼓膜を震わせたその声に、一気に鼓動が高鳴ったのがわかった。どうして。どうして、ここに篤史がいるのだろう。 「日和佐? 俺、羽沢だけど……開けてくれないか……?」 篤史が指でドアを叩いたらしく、こん、という硬質な音が静かに響いた。開けてはいけない。開けられない。怖い。直感が潤の身体を縛りつける。 「……はざわ」 開けるべきじゃないと思ったのに、意思とは無関係に身体は篤史を呼び、震える指が鍵に伸びた。感情が大きくなり過ぎている。だってもう何日も、ずっと考えていた。 ドアから白い光が零れた。音と、それから、浮遊するような衝撃。 「っ……」 一瞬、何が起きたのかわからなかった。抱き締められたのだと気付いたのは、ごめん、という篤史の声が耳元で聞こえた頃だ。追って感触がやってくる。温かな身体に、細胞全てが強張った。 「……ん……で」 ドアが閉じられて、光が細まり、閉じ込められる。視界にはいつまでも光の残像が残るようだった。篤史の力は強く、潤の不安ごと抱き締めようとしているようだった。 「後悔してたんだ」 「……、」 「……あの時……日和佐が何て言ったって……こうすればよかった」 突然過ぎて、混乱している。事態を読み込むのにこんなに時間がかかることはほとんどない。ただ、篤史の言葉には頭より先に心の方が反応して、視界が濡れて歪んだのがわかった。 「どうして……」 「……ごめん……さっき……会った」 「あ……った……?」 「……萱野さん」 「っ……」 動揺が揺らぐ。壊れかけの時計のように、心臓はぎくしゃくと動いていた。 「……あの時……日和佐を置いて帰るべきじゃなかったんだ」 「……」 「ごめん。でも、会いたかった」 篤史の声は悲しげで、それなのに、熱を感じた。ひどい火傷を負ったみたいに、内側が破壊される感覚があった。あの時、篤史にそうさせたのは他でもない自分だ。そうしなければ、怖くて二度と立ち上がれそうになかった。怖かった。怖い。ある日突然足下に底のない穴が空く感覚。どこまで落ちても底にぶつからない感覚。耐えられない。 「……ちがう」 黒い恐怖がすぐそこに迫っていて、潤は首を横に振った。力の入らない手で篤史の肩を押しのけようとして、けれどそれはうまくいかなかった。 「羽沢……離せ……離して」 声が震える。篤史は腕を離してはくれなかった。このまま抱き締められていたいと思う自分がいる。でも、落下の恐怖を感じる。すぐ、ほんのすぐそこに。 「っ……」 潤は思考を止めるように硬く目を閉じて、ありったけの力で篤史を引き離した。黒いインクが澄んだ水を濁らせるように、恐怖が勝った。身体の震えは小刻みになって、その振動を受けながら、潤は首を横に振った。 「日和佐……」 「やだ」 「……俺は……お前のこと……」 「嘘だ」 涙と震えを隠したいのに、うまくいかない。声は随分と冷たく空間を響かせた。篤史の手のひらが肩口に伸びるのを振り払う。怖い。だめだ。篤史は馬鹿で醜悪な自分をいつかは拒絶する。その日を待ちながら、この手を取ることなんてできない。無理だ。 「……日和佐」 「……オレは汚いし……変なんだ……だから……そんなの嘘だ」 「嘘じゃない。汚いなんて思ってないし、これからも思わない」 「嘘だよ!」 荒げた声はひどく掠れていた。喉が渇いている。水が飲みたい。でも今は、何も吸収できる気がしない。 「オレは……いつか羽沢といた……あいつみたいに綺麗じゃないよ……」 「あいつって……七月?」 あの日、篤史の穏やかな笑みを受けていた彼は、とても綺麗だった。一目で自分とは違うことがわかった。篤史が彼を大切に思っていることは、篤史が仮に何も言わなかったとしても明白だった。 「七月のことが大事だった。でも変わった。お前と会ったから」 「……嘘」 「本当。どうしたら信じる」 潤はひたすら首を横に振った。痛くて、苦しくて、怖い。潤の中にあるのはそれだけだ。ただ、それだけ。 「信じない」 「日和佐」 「絶対信じない! 嫌なんだ。あんたなんか……嫌だ」 あんなに手を伸ばしていたのに、触れられない。耳を塞いでしまいたい。全て忘れてしまいたい。 「いい。もう……いいから……帰れよ……」 「待てよ、俺は本当に……」 「そんなのどうでもいい。帰れ……お願いだから……帰って……」 これ以上、苦しみたくない。潤は下を向いて目を閉じた。涙が熱い。訪れた沈黙を、潤はひたすらに耐えた。 「……わかった。今日は帰るけど、俺の気持ちは変わらないからな」 「……、」 「お前のことが好きだよ」 「っ……」 「顔が見れて、よかった」 落ち着いた声がゆっくりと染みわたる。ドアが開いて、閉じられる音。ぱたん、という音の余韻が消える頃、ようやく潤はその場に崩れた。 「羽沢……」 鼓動ごと押さえこむように、胸を強く押さえる。本人がいなくなった途端、名前を呼んでしまうくせに。 でも怖かった。怖い。 やっぱり自分は、先になんて、進めない。

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