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第23話

よく晴れた土曜日だった。大学の最寄りの駅前は、平日ほどの活気を見せなかった。空気は濃い太陽の匂いに、かすかなブルーを滲ませて、穏やかな春から少しずつ季節を変えようとしていることがわかる。鮮やかな季節の匂いを感じると、篤史は気を重くして溜息を吐いた。 幸大に二度目の待ち伏せをされたのは昨日のことで、幸大はかなり不機嫌そうに七月と一緒に買い物に行け、と篤史に命令した。篤史の母親の誕生日のことを七月から聞いたらしい。気分は乗らなかったけれど、七月に負い目があったし、いつまでも気にさせているわけにはいかない。それで了承したのだけれど、晴れの休日の空気に包まれていると、潤は今も苦しんでいるだろうと思うと、後悔を覚えずにはいられなかった。光の温かさに気持ちの重さが反比例する。 潤は、篤史の目を見ようともしなかった。俯き、信じないと言いきった。成す術がないとは思わない。けれど、一方的に強引に押し入ったところで潤はますます警戒するだろう。 「――……、」 また溜息が零れて、篤史は項垂れた。澄樹は潤が自分に助けを求めていると言ったけれど、少しだけ不安になっている。 「……篤史」 歪んだざわめきの中に細く真っ直ぐに声が響いた。垂れていた頭を上げ、目の前に立っている七月を目で捉える。七月は困ったような複雑な表情を浮かべ、おはようと言った。 「……おはよう」 「うん……」 氷のかけらのような固い空気が漂う。篤史はそっと息を吐いた。 「この間、ごめん」 「え?」 「悪かった」 「……ううん……オレが捲し立てたから……ごめんね」 七月はふわりと笑ってみせた。午前中の白い光はやけに眩しかった。こんな時、いつもずっと、胸を痛くしてきた。それが随分昔のことのように思える。 「……で、どこに行くって?」 「あ、うん。母さんに聞いたら、青山におばさんの好きな雑貨屋があるって」 「雑貨屋?」 「そう。知ってた?」 「……知るわけないだろ」 篤史が溜息を吐くと、七月はおかしそうに笑った。 券売機で二人分の切符を買う。母親が好きだという雑貨屋は、実家からなら近いけれど、ここからはそれなりに時間がかかる。篤史が切符を七月に渡すと、七月はありがとうと言って小さく笑った。 「パスモがあるのに」 「……母さんのプレゼントだし、付き合わせてるの俺だろ」 「篤史がそんなこと言うから、オレすぐ甘えちゃうんだよ。ユキにも怒られた」 自動改札を通りながら七月が息を吐く。改札の中はがらんとしていて、人影はほとんどない。目当てのホームへの階段を上がって行くと、柔らかな光が広がるのがわかった。 「怒られたって?」 「篤史ばっかりずるいって」 「……惚気か」 篤史が呆れてそう言うと、七月はころりと表情を変えて微笑んだ。バカップルたる所以だろうか。その呑気さを自分たちにも分けて欲しい。 「無意識だからわかんないんだよね。それだけきっと自然に篤史に甘えてるんだ。ほんと、成長しない」 「……」 「自分のことばっかりで嫌になる。この間のことだって、篤史がオレに何も話してくれなくて嫌だなって思って……でもそれって結局、自分の心配なんだ。篤史の気持ち何も考えてなかった。本当、ごめん」 「……七月は悪くないんだから、謝るなよ」 「ううん。オレが悪いんだよ。ユキに言われた通り」 「……矢野が?」 あの絶対的に七月に甘い幸大が篤史を庇うなんて、青天の霹靂もいいところだ。 「ユキ、ああ見えて実は篤史のこと尊敬してるから」 「……絶対ない。それは」 「あるよ。篤史がただ気分でオレを邪険にしたりするはずないって」 「……」 幸大が自分のフォローをしているところなんてまるで想像がつかなくて、篤史は思わず顔を歪めた。それを見た七月が笑う。開放感に満ち満ちたホームには、もうすぐ電車がやってくるという合図が響いていた。 「……これは、言い訳だけど」 「……何」 「動揺したんだ。オレ、あんな苛々した篤史見たことなかったから」 「お前には見せたことなかっただけ」 「……本当、オレって甘やかされてるね」 「かもな」 「あ、ひどい」 軽口を言い合うことなんてほとんどなかったけれど、違和感はない。それは七月に対する感情が質を変えた証拠だった。 「お前が言ったんだぞ」 「そうだけど……びっくりしたんだよ……ユキは、また別のところで驚いてたみたいだけど」 「……何だよ」 「篤史に好きな人ができたって」 「は……?」 七月の言葉の恥ずかしい響きに篤史は思わず言葉を失った。事実誤認とは言えないけれど、幸大にそんなことを一言でも言った覚えはない。 紅潮した頬に風が舞い込んだ。大きな音と共に電車がホームへとやってくる。スカイブルーがメタリックの塗装に遮られた。 「……何だよそれ」 電車のドアが開くのと同時に、ようやく篤史は口を開いた。空いたドアから出てくる人間はなく、篤史たちは並んで車内に乗り込んだ。まばらに座席が空いている。 「え? 違うの?」 七月が空いている三人掛けの座席を指差し、そこに腰を下ろすと篤史の方を見た。当り前だけれどからかっている風もない。七月はこういう場面でストレートな表現を迷わない性質だということを忘れていた。篤史は怯み、けれどすぐに諦めて七月の隣に座った。 「……違わない……けど」 「けど……何?」 「……察しろ。俺がこんな話、したがるわけないだろ」 「でもオレ知りたいなぁ」 無邪気な口調で七月が言う。確信犯だ。篤史は諦めて溜息を零した。七月を好きだった頃は、絶対に七月の前で情けない面など見せなかったのに。 「……信じられないから嫌だって言われたよ」 「篤史が?」 七月は驚いた様子で目を丸くした。潤が心からそう思っているわけではないと思っているけれど、自信が満ちているわけでもない。七月の前でつい気が緩んだ。七月は少し考える仕草をして、それから静かに笑った。 「……笑うとこか?」 「え、あ、ううん。そうじゃなくて」 「何だよ」 「その人本当は篤史のこと信じたいんだ」 「……」 景色がするすると流れて行く。澄樹の言葉を思い出した。わかっている。でも本人に少しでも伝わらないのがもどかしい。 「信じられないから嫌って、そういうことでしょう?」 「……」 「相手のこと思い過ぎると、信じるのも怖くなる時ってあるよね」 熱が揺らぎ、模様を描く。 「いつか離れきゃならなくなったらどうしよう。それより、嫌われたらどうしようって……きりがないってわかってるのに、怖くなる」 「……、」 「オレは、そういうことあるよ。信じられないんじゃなくて、信じきることが自分でも怖い。きっと、その人も同じじゃないかな」 七月の言葉は真っ直ぐ、そのままの形で心に留まった。そんなことは、きっと誰にでもある感情だ。篤史だって潤に嫌われることを怖いと思っている。でも、澄樹の話を聞いた後では一般人と潤のそれが同じだなんて思えない。潤は想像もできないほど重い苦しみを背負ってきたのだ。そう考えると、心臓が震える。けれどもう、潤のことを自分の中でなかったことになんてできるはずはない。澄樹とも約束したし、何より、その程度の思いならこんなことにはならなかった。 「……篤史?」 「いずれにせよ、本当のことはあいつにしかわからない」 「随分冷静なんだね」 篤史は短く息を吐いた。 「冷静でいないと今すぐ電車から飛び降りたくなる」 「会いたい?」 「悪いか」 一拍置いて、全然悪くない、と七月が笑った。景色の流れる速度が遅くなって、車内に低い声のアナウンスが流れる。背もたれに背を預けながら、篤史はひたすら潤のことばかりを考えた。信じてもらえるまで何度でも、何度でも抱きしめる。潤が自分の目を見るか、それが他の誰かなら、それも仕方がない。そんな風にすら思う。これ以上もう、潤が苦しませたくない。

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