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第24話
指先にまで行き渡った熱が身体の動きを封じていた。篤史がこの部屋に来たのはもう昨日のことなのに、まだ魔法にかけられたように身体が熱に浮いて動かない。火傷を負ったように燃える左胸と、重く零れる吐息。耳に栓をしたように音が遠くて、潤はもう、何度も落ち着きなく溜息をついている。
篤史の言葉が、感触が、頭から離れない。初めは驚いて、すぐに怖くて苦しくなった。気を抜いたら立っていられないと思うほどだった。何度も言葉がリフレインして、潤の胸を締め上げる。本当はうれしかった。けれど同時に、本能で腕を伸ばしてしまいそうになった自分が怖かった。求めてどうする、という声を聴いたような気がした。篤史に突き離されたら、もう生きていけない。今度こそ死ぬのも怖くなくなるかもしれない。
自分の意志で篤史を拒んだのに、もう内心では感情が鬩いでいる。恐れは消えないのに、それと同じくらいの強い感情がぶつかっている。潤は目を閉じて身体を丸める。去り際の篤史はどんな顔をしていただろう。
「――……、」
目を瞑っていると、インターフォンの音が静寂を破ったのがわかった。ぎくりと心臓が強張る。少し前まで、この部屋を訪れるのは一人しかいなかったのに。潤はまた身体が震えだすのを感じながら、身体を起こし、玄関へと向かう。一歩フローリングを踏むごとに期待を膨らませる自分がいて、それを潤は必死に否定した。絶対にだめだ。不安に押しつぶされるだけだ。
玄関に出ると、潤は恐る恐るドアスコープを覗いた。そして、溜息を零す。
「……萱野さん」
ドアを開けるとすぅ、と柔らかな空気が入り込んだ。いつものようにきっちりとスーツを着込んだ澄樹が、視線を落とした潤に小さく笑った。
「誰か待ってたの?」
潤は熱の膜が再び心臓に張る痛みを堪えながら、首を横に振った。澄樹はそう、と簡単に引き下がった。
「……前にも同じやりとりしたな」
「……そう……だっけ」
曖昧に笑う澄樹に居心地の悪さを感じながら、部屋へと迎え入れる。散らかった部屋は、ほんの少し離れている間に冷たさを増したような気がした。
「萱野さん……最近よく来るんだね」
「……そうだね」
「……何で」
「君があんまり危ういから心配なんだ」
「……いつもみたいに、仕事って言ってよ」
「……そう……まぁ、後見人は心配だって仕事の内だろう?」
澄樹は誤魔化して笑ったけれど、潤は反応できずにベッドに腰を下ろした。テーブルのそばに奇跡的に空いたスペースに澄樹が腰を下ろす。
「……羽沢に何て言ったの?」
「余計だった?」
「……当り前だよ」
そう、と澄樹は小さく相槌を打った。内側から熱が、外からはしんとした気配が身体を浸食している。
「それはごめん。でも、彼を呼んでた時にはそうは思えなかったから」
「……」
「羽沢くんは何て?」
澄樹の声はいつも以上に落ち着いたものに聴こえた。自分が冷静じゃなくなっているのかもしれない。潤の動揺を察した様子で澄樹がほんの少し笑んで見せた。
「何て言われても関係ないよ。羽沢は……関係ないんだ」
人の気持ちが一箇所に留まらないことを、潤は知っている。あんなものはごく簡単に変わる。わかっているのに、潤はそれを求めている。信じたい。怖い。鬩ぎ合いに答えなんか見つけられそうになかった。
固く目を閉じていると、澄樹の溜息の気配があって、それから小さな物音がした。
「これ、この間も置いてあったけど、飲まないの?」
顔を上げて、痛みに胸を押さえる。澄樹が手にしたのは例の青い缶だった。今もまだ触れられない。
「それは……」
「うん?」
「……、」
黙り込んだ潤に、澄樹はまた息を吐いて潤の方を向いた。
「羽沢くんに貰ったの?」
「……」
「潤くん、怖がることはないよ。素直になるべきだ。大丈夫だって、言っただろう?」
全身に拡がる熱を帯びた液体が、篤史を拒絶するものなんかじゃないことくらい知っている。痛いくらいにわかる。けれどこの痛みは、篤史が自分から去っていくいつかを想像する日々に比べればほんの小さなもののはずだ。だって、それを思うだけで身体が震える。
「……でも」
「うん?」
「でも……あいつだって……どうせいなくなるよ……オレから離れてく」
「……潤くん」
「だって……みんなそうだった……」
「……」
誰もが皆、潤を不気味に思い離れていく。あの担任教師のように。澄樹だって、潤が仕事だと脅さなければ、本当なら関わりたくなかったはずだ。同情を誘って、卑怯な手を使って、取引で拠り所を手に入れた。それ以外に潤は方法を知らなかった。だから、怖い。篤史を相手に、潤は取引の術を持たない。持ちたくない。
「……オレは……汚いよ…」
拒絶と痛みを恐れ、身体を投げ出した日々の中で、自分はすっかり穢れてしまった。北斗の言ったことは本当だ。卑怯で醜くて汚い。そのくせ手に入らないものを求めて手を伸ばしている。
「潤くん……」
澄樹の手が潤の頭を撫でた。身体が震えている。
「羽沢くんは、わかってる。僕が話した」
「……っ」
「彼は僕の話を聞いても、嫌な顔なんかしなかった。ただ、苦しそうにしてたよ」
「……」
「暴行を受けた君を置いて帰ったことを、ひどく後悔してた。ただそばにいたい、いて欲しいって、そう言ったんだよ。どうして君が彼を呼んだか、あの時わかった」
だから自分が汚れてるなんて、そんなことは考えなくていい、と澄樹は穏やかに続けた。目の奥が熱い。篤史の感触を思い出すと、辛くて仕方がなかった。
「潤くんが恐れているのと同じように、羽沢くんも恐れてる」
「……何を」
「君がまた傷つくこと。それに、自分の前から君がいなくなってしまうこと」
「……」
「何も不思議なことじゃない。当たり前の感情だ」
考えてみてもよくわからなくて、やっぱり不安はなくならなくて、潤は膝を抱え腕に力を込めた。
「……わかんないよ」
澄樹の手のひらは優しくて温かかった。誰かの手のひらが去っていくことが怖かった。自分を人間でいさせてくれる誰か。けれど、篤史だけは最初から特別だったかもしれない。入学式の日、全てを異質に感じた。過剰な警戒も、不安も感じなかった。ただ、居心地がよかった。
「でも、彼を信じたいだろう?」
そうだ。篤史のことを信じたい。でも、信じるためにどうしたらいいのかわからない。潤は生まれたときからその術を持っていなかった。
「それが伝えられれば十分、君も羽沢くんも救われると思うけど」
澄樹はそっと潤の頭を撫でて笑った。こんなに穏やかな澄樹は見たことがない。澄樹はいつだって穏やかそうに振舞いながら、巨大な同情の塊を持て余していた。それは潤にもわかった。だからそこに付け込んだ。でも今は前ほどそれを感じない。理由はわからないけれど。
「これから君が、笑って彼のことを好きだって言える時が来たら……僕はその時こそ仕事なんか関係なく、君に会いに来るよ」
「……どういう……意味……」
「その時が来るのを待ってる」
澄樹は潤の問いに答えを出さず、潤を抱き締めた。
潤は目を閉じながら、頭の中でアインシュタイン方程式を思い浮かべた。シンプルな方程式から導かれるいくつもの答え、宇宙のはじまり。方程式を解くことが安堵だった。篤史に出会ってから、解き進めようとするほどに状況は複雑化して、痛みばかりが生まれた。どうしたら篤史は微笑んでくれるだろう。どうしたら彼は離れていかないだろう。どうしたら。
絶え間なく痛みが潤を襲う。澄樹は背中を撫でながら、何度か大丈夫と繰り返した。
灰色の世界に光のようなものが射した。それは眩しすぎて、潤は未だうまく目を開けることができない。
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