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第25話

部屋には昨日から引き続いて柔らかな日差しが入り込んでいる。浅い眠りから覚めた篤史は濃い目に淹れたインスタントコーヒーでぼんやりとした頭を覚醒させた。昼前にはもう一度潤のアパートを訪れることを昨夜のうちに決めた。一昨日行ったばかりだし、焦っても仕方がないことだと頭ではわかっているけれど、痛々しい潤のことを思うとどうしても一日をそのまま過ごすことなどできそうになかった。 不安はある。今まで感じてきた中で一番全貌の見えない不安。潤は篤史を信じることを意識的に拒絶していた。あの弁護士が話していた過去を考えれば当然のことかもしれないけれど。 「――……」 ソファに凭れて息をつくと、不意にインターフォンの音が響いた。篤史は少し驚いて時計を見やる。九時。引っ越してまだ日の浅い独り暮らしの部屋、日曜日のこんな時間の来訪者は珍しい。篤史は宅配便の可能性を考えながらモニターのところまで行き、映しだされた顔を見て目を瞠った。 「……中原?」 受話器を取ると、北斗がモニターに向かってへらりと笑みを浮かべ手を振った。 「篤史? 開けて」 「……どうして、家知ってるんだ?」 「後で説明するから入れて」 「……」 篤史は事態を飲み込めず、促されるままついオートロック解除のボタンを押した。モニターがブラックアウトして、受話器もノイズすら拾わなくなる。北斗に住所を教えたことなんてなかったはずだ。 「……」 わけがわからず立ち尽くしていると、すぐに部屋のベルが鳴った。篤史は嘆息して玄関に向かい、ドアを開けた。現れた北斗は呑気な様子で微笑んで、篤史の許可も取らずに玄関に入ってきた。 「お邪魔します」 「おい……」 強引に部屋に入り、リビングに向かって行く。篤史はそれを追いかけながら、北斗の来訪の理由を頭の中で探した。 「さすが。いいとこ住んでるんだな」 リビングに入るなり、北斗は部屋を見回してそう言った。 「……中原、どうやってここに来たんだ。答えろよ」 「ん?」 「家。教えたことなんかなかっただろ」 篤史が語気を強めると、北斗は篤史を振り返って笑みを浮かべた。まるで怯む様子がなくて、調子が狂う。 「決まってる。後つけたことがあるからだよ」 「は?」 顔は笑っていても、目が全く笑っていない。篤史は警戒心を一気に強くして、けれどそれはもう遅かった。不意をつかれて腕を引っ張られ、あっという間にソファに押し倒される。突然のことに声も出なかった。 「篤史、俺に全然構ってくれねぇんだもん」 「な……」 「こないだなんかとうとう昼飯まで断られて……どうせまた日和佐のことだろ?」 北斗は無表情でそう言いながら、篤史の身体をソファに押し付けた。篤史と北斗はほとんど同じくらいの体格だ。北斗はそれをわかっていて、効率よく篤史の身体を押さえつけている。 「中原っ……離せ……」 「嫌だよ。俺、篤史のことが好きなんだ」 「な……に言って……」 「だから、好きだって、言ってる。それなのにお前は日和佐日和佐って……あいつはずるいよ。俺あいつすげぇ嫌い。汚いくせに篤史の同情誘ったりして……自業自得なんだ」 「お前……、」 力が抜けたのがわかった。潤が受けた暴力と、北斗の言葉が結びつく。 「中原……あいつに何した……?」 「何回か殴っただけ。俺は、ね」 「な……」 「あいつ、やっぱり篤史に何も言わなかったか。言えるわけないよな。強姦されて喜んで腰振ってました、なんてさ」 「っ……」 「俺じゃないよ。残念だけどやった奴はもういない。昨日退学したんだよ」 「……退学?」 「あの人の親父、お前ん家の勤務医なんだって。篤史のこと話したら、びびって退学届出してさ……きっと今頃雲隠れだ。お前ん家、すごいんだな」 北斗は篤史を押さえる腕に力を込め、唇で緩やかなカーブを描く。 「先輩、随分日和佐のこと気に入ってたみたいだけど……気に入り過ぎてあのきれいな顔にいっぱい痣作ったみたいだな」 北斗が笑う。冷たい雨に濡れるように血の気が引いて、瞬間、篤史は北斗を力の限り押し飛ばして殴りつけた。北斗の身体が床に打ち付けられる。握りしめた拳は震えていた。 「……ってぇ」 「お前が……そいつ焚きつけたのか……?」 「……」 「答えろ」 北斗の胸倉を掴み上げると、北斗は篤史を真っ直ぐに見て笑みを浮かべた。 「そうだよ」 篤史は堪らなくなってもう一度北斗を殴った。北斗は大人しく殴られたけれど、自分がしたことを反省している素振りはなかった。表情を変えないまま、篤史を見上げる。 「何で、俺を責めるわけ? 俺だってかわいそうなのに」 「何……」 篤史が眉を顰めると、北斗は自分の頭を指差した。ぞっとするほど感情のない笑みを浮かべる。 「俺は、あいつと同じだよ。わかるんだ」 「……、」 「小学校までは施設にいた。でも知能テストの結果が漏れて、ある日突然中原の家に引き取られた」 「……」 「みんな、俺が変だって笑った。ひどい苛めも受けた。引き取られて、医者になれって言われるまで俺は自分の価値に気付かなかったんだ。でもわかった。俺は特別だってね。だから、俺は自分でいることを止めたんだ。馬鹿どもをひたすら観察して、振舞いを覚えた。今じゃ、ただちょっと普通より勉強ができるってだけのやつになれた。わかる? その普通さを手に入れるのに、俺がどれだけ苦労したか。どれだけ、苦しんできたか」 「……」 「あいつはずるいよ。自分の好きに生きてるくせに、お前に気にかけられてさ……俺だって同じなのに。俺だけが我慢してる。俺の方がかわいそうだよ。俺の方が篤史のこと欲しいのに」 北斗に同情はしなかった。あるのは怒りばかりだった。北斗がどんな不遇な過去を持っていたって、それが潤を傷つける理由になんかならない。 「……俺は……お前を赦さない」 「赦さない? 俺を警察に突き出す? 構わないよ。大した刑になんかならないし、親父の顔に泥を塗れる」 「……」 わかっている。それにきっと潤は警察に被害届を出すことを嫌がるだろう。そうなれば、法も無意味だ。 「っ……」 篤史は怒りのまま、北斗を掴み上げて壁に打ち付けた。目の前の男が殺してしまいたいくらい憎い。そして同じくらい、自分が憎かった。自分のせいで潤が傷ついたのに、何も気付かなかった。 「……俺を殴るのは、もう終わり?」 「……」 「無力だな、篤史」 北斗の口元に血が滲む。本当に無力だ。今北斗を幾度殴りつけたところで潤が受けた傷はなくならない。自分の怒りを発散する行為でしかない。ただ、確かなのは今どうしようもなく潤のそばにいたいということだけだった。自己中心的な考えは自覚している。でも、どうしても。 「……俺は確かに、傷ついてる日和佐に何もしてやれなかった。これからは、俺が守る」 「正義のヒーロー気取りか? 言っただろ。あいつは誰にでも喜んでケツ出すんだぜ?」 「そんなこと、もうあいつには必要ない。必要なくしてやりたい」 「……」 「お前を殺してやりたい。二度とあいつに顔を見せられないくらいの顔にしてやりたい。けど、俺はこれからずっとあいつのそばにいたいから、それができない。俺が今どれだけ悔しいか、わかるか?」 北斗の表情が歪み、篤史は北斗を掴む手から力を抜いた。身体が崩れ、北斗は口元を拭った。 「……消えろ」 「……」 「今すぐ」 「……」 沈黙の後で、北斗が立ち上がった。よろめく身体にすら、震えるほど怒りを覚えた。 「……好きなんだ」 北斗は小さく独り言のように呟き、部屋を出て行った。言葉はまるで響かなかった。耳障りだとさえ思った。北斗のことを考える余裕は一ミリもなく、頭の中は潤のことでいっぱいだ。 「……っ」 玄関のドアが閉まる音を遠く聞くと、握ったままの拳で壁を叩く。かすかな振動が、後悔の念を強めた。

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