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第26話

毎日続いていた晴天が嘘のように、冷たい大粒の雨が降り注いでいた。まるで悲しみを携えたかのような重みのある雨だ。濃い雨の匂いに不安を煽られる。 自分の中の怒りをコントロールするのに、ほとんど丸一日かかった。本当なら昨日のうちに潤に会いに行くつもりでいたのに、あまりにも感情的になり過ぎていてそれができなかった。一日経って、降りだした雨のお陰今は幾分冷静を取り戻していると思う。怒りはもちろん質も大きさも変わらないけれど、冷静の波がそれを抑えている。 月曜日の朝一番の講義に、潤の姿はなかった。いつも通りの平和な講義が展開されている。後方の席で潤の不在を確認すると、篤史は溜息をついた。朝、講義に向かう前に篤史は潤のアパートに立ち寄ったのだけれど、彼は留守だった。居留守の可能性ももちろんあるけれど、アパートに人の気配を感じず、篤史は潤が大学へ向かった可能性を考えて講義に顔を出した。けれど潤は必修のはずのこの講義には出ていない。 篤史は構内で潤のいる可能性がある場所を思い出しながら、講義の途中で退出することを決めた。閉塞的な教室の空気の中を、少しの焦りを感じながら突っ切る。見回した限り、北斗も講義にはいないようだった。 薄灰色に染まった廊下にマイクを通した教授の声と、雨音とが寂しげに響く。冷たい指先がいつかの潤の感触を思い出させた。呼応するように潤の表情が鮮明に思い浮かび、胸が熱くなる。 「――……」 潤がいそうな場所を、篤史はいくつも知らない。出会った場所か、図書館の書庫。すぐに思い浮かぶのはこの二つだけだ。改めて、潤との接触の少なさを実感する。それでも、篤史には潤に惹かれるのには充分な回数だったらしい。自分でも信じられないとは思うけれど。 篤史は雨の音を聴きながら図書館へと真っ直ぐ向かった。この雨の中ベンチにいるということもないはずだ。もし図書館で見つけられなかったら、もう一度アパートに行ってみた方がいいかもしれない。 篤史のいた講義棟から図書館までは数分で辿り着く。月曜日の朝、それも講義中の時間帯であるせいか、図書館はいつも以上に静まり返っていた。埃っぽさが湿気に濡れて、重く揺らめいている。篤史は一般の書架を抜けて、淡いグレーの光を受ける廊下に出る。そしてそこからすぐの書庫へと足を踏み入れると、空気の重さが増したのがわかった。 絨毯をそっと踏んで、視線の先に人影を見つけると息を吐く。安堵の波が寄せた。以前ここで会った時と同じように潤は机に数枚のルーズリーフを散らかして、顔を隠すようにして突っ伏していた。近付くとかすかな寝息が聞こえる。眠っているらしい。 「……」 篤史はもう一度息を吐いて、そっと潤の隣の席に腰を下ろした。鼓動の音が穏やかになったのがわかる。心のどこかで、もしかしたら潤にはもう会えないかもしれないなんてことまで考えていたらしい。書庫独特の匂いに雨の重みが加わって、篤史の胸を痛くした。 「ん……」 無意識に伸びた手のひらが潤の髪に触れると、潤が小さく声を零した。水分を吸って、艶やかに篤史の指の間を滑る。 「……は……ざわ……」 篤史の指が潤の髪を離れると、潤が苦しげにそう呟いた。起こしてしまっただろうかと思い身体を強張らせたけれど、潤はまた寝息を漏らした。寝言らしい。それがわかると篤史は鼓動を大きくして、思わず息を呑んだ。潤があまりに悲しそうに自分の名前を呼んだからだ。澄樹が呼んでいたといったのは、この風景のことだったのかもしれない。実際に自分の目で見ると、ひどく切なくて、嬉しい。 「……はざわ」 「日和佐……」 「ん……っ」 堪え切れずに篤史が潤の手を握ると、潤が少しして飛び起きるように頭を上げた。篤史と目が合うと、動揺した様子で目を瞠る。大きくてきれいな瞳。初めて会った時と同じ感想を持って、篤史は熱の雫が落ちるのを感じた。あの時からもう、ずっと気になってしまっていた。 「……ごめん、起こして」 「え……」 「探してた」 潤は大きく留めた目を更に大きくして、それから困ったように視線を逸らした。 「何で……」 「謝りたくて」 「……何を」 「お前を暴行してたやつ、退学したって」 「え?」 「昨日、中原に聞いた。中原がそいつ焚きつけたって……何で何も言わなかったんだ」 「……」 潤は気まずそうに視線を落したまま、唇を噛んだ。篤史は握った手に力を込めた。 「……殺してやりたかった」 「……、」 「そいつのことも、中原も。それくらい、腹が立った。でもできなかった」 「……」 「あいつらを殺して日和佐の前から消えるより、日和佐のそばにいたいと思ったから」 肩を震わせて、潤は篤史の方を見た。篤史はそっと呼吸をする。 「だから……ごめん。俺のために、あいつらを逃がした」 「……」 「ごめん」 潤の瞳から涙が零れた。真っ直ぐに頬を伝う。潤の戸惑いが伝わってくる。 「俺、日和佐のこと好きだ。そばにいたいし、いて欲しいと思う。本気だ」 鼓動が大きくなり、感覚を奪う。血の熱さだけがリアルだった。怖い。 「二度と、お前を置いて行ったりしない。ずっとそばにいる。守るよ」 「……っ無理だ」 潤は篤史からまた目を逸らし、何かを払拭するように首を横に振った。手を振りほどかれないようにしっかりと掴み、もう片方の手で潤の肩を押さえる。 「日和佐」 「っ……」 「……信じてくれないのは、嫌だからか? 俺に好かれるのが迷惑なら、もう言わない。お前の前から消えるよ」 「……、」 潤は言葉をつまらせ、身体の力を抜いた。緊張が篤史を縛りつける。これは賭けだ。潤が首を縦に振ればそれで終わる。きっと潤が篤史の名前を呼ばなかったら、こんな賭けはしなかった。 雨音を遠くに感じる。篤史は鼓動と雨の音の中で、それらが潤の答えを流してしまわないよう耳を済ませた。 「……じゃない」 「日和佐……」 「そうじゃないっ……オレだって……!」 潤は激しく首を横に振った。握る手にまた力が入る。 「オレだって……信じたい……信じたいよ……」 触れる面積の小ささがもどかしくなって、篤史は潤を抱き寄せた。潤の感触に胸が悲鳴を上げる。 「不安なのは、自分が汚いと思ってるからか? それとも俺が離れてくと思うから? 七月のこと?」 「……、」 「俺は日和佐が汚いなんて思ったことないし、思えない。これからも同じだ。絶対いなくならないし、不安に思うなら七月にはもう会わない」 潤が息を呑んだのがわかった。篤史は潤を強く抱き締めた。それでももどかしいくらい、胸が苦しかった。 「日和佐が不安に思うことは何もしない。日和佐とだけいる」 「……」 「好きだ」 力が抜けたらしい潤の身体が腕の中で崩れる。篤史は潤の骨ばった頼りない背中をしっかりと支えた。言葉に嘘なんかひとつもない。全て本心だ。初めて誰かにこんなにストレートな言葉を吐きだした。 「こんなこと、初めてだ。日和佐じゃなきゃだめなんだよ……」 温かな雨が首筋に落ちた。こんな告白をする日は来ないと思っていた。自分に限ってありえないことだった。それなのに、潤を前にするとそんな思い込みがあまりにも簡単に破られる。 「……も……一回……言って」 「日和佐が好きだよ」 潤の手が篤史の腕を掴む。震えが、潤の不安を篤史に伝えている。篤史は目を閉じて、ただ潤を抱き締めた。 「……オレ……怖いんだ……」 「わかってるよ」 「……わからない……信じたくないのに……信じたいんだ……怖くて……」 「そばにいる」 「羽沢……」 「いいよ。わかってくれるまで、いつまででも待つ。日和佐は何も心配しなくていい」 シャツを掴む潤の手から緊張がわずかに抜けたのが感触でわかった。空いた手で潤の髪を撫でる。平衡の崩れた世界に、潤の熱が広がる。篤史はそのことに安堵して息を吐いた。 冷たい雨の音を、今は優しく感じている。鼓動の音を伝え合っている。それは初めて、とても心地いいと思える何かだった。

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