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第27話

小鳥のさえずりで、潤はゆっくりと目を覚ました。柔らかな空気に細く射す光と、いつものベッド。篤史の腕にしっかりと抱かれていることを確認すると、潤はそっと息を零した。 篤史が潤の部屋に泊まったのは、とても自然な流れだった。篤史は何も言わずに潤と一緒に潤の部屋に帰って、自分の部屋に帰るとは言わなかった。潤もまた、何も言わなかった。一瞬でも離れたらその瞬間に逃げ出してしまいたくなると思ったからだ。篤史もそれを感じ取ったのかもしれない。二人で話をして、食事を摂り、抱き締められながら眠った。ただ抱き締められて眠るなんてことあるわけないと思っていたのだけれど、篤史は何もしなかった。別に潤は構わなかったのだけれど、篤史は今はしないと笑った。信じて貰えるまでは何もするつもりがないのだという。潤はそれを少し寂しく思った自分をうまく表現できなくて、結局篤史の腕の中の心地よさにいつの間にか眠りに落ちていた。 「――……」 満ち潮の海が凪ぐような、そんな眠りだった。痛みより心地よさが大きい。それは潤にとって初めての経験で、脳が覚醒しだして記憶が蘇ると、涙が零れ落ちた。篤史の言葉、感触。ひとつひとつ、全てが心臓を圧迫する。怖い。今すぐ逃げだしてしまいたいほどに。そして、嬉しい。想いは相反していて、まだ混乱していることを自覚する。涙が止まらなくて、辛い日々はもう遠いようにすら思えるのに今はそれよりも辛いような気もして、自分でもよくわからない。 「……日和佐?」 零れた涙が篤史の腕に落ちた。篤史を起こしてしまったらしい。もぞもぞとシーツが動いて、篤史の手のひらが頬に触れた。 「おはよう……」 涙を見られたくなくて、また、どんな顔をすればいいのかわからなくて。潤が俯くと、篤史は潤の身体を引き寄せて、背中に手を当ててくれた。 「どうした?」 「……っ」 「泣くなよ」 篤史が小さく笑って、震える背中をさすってくれた。耳の中を何かが触れて回っていくような感覚。心地よくて、胸が熱くて、痛くて。篤史の熱と、巡る記憶。たくさんの背中、冷たい眼差し。アルコールに溶ける鋭い氷のかけらのように揺らいでいる。 「日和佐……」 「わからない。止まらない」 「しょうがないな」 篤史は背中をさする手を止めて、強い力で潤を抱き締めた。不安ごと潰してくれそうなほどの強さだ。現実はそんなに簡単に、これまでの人生が覆るはずはないけれど。それでも。 「少しは落ち着くか?」 「今は、苦しい」 「我慢しろ」 潤の訴えを無視して、篤史は抱きしめる腕に更に力を込めた。堪らずに潤も腕を伸ばして、篤史を抱き締め返す。そうすると、少し篤史の力は弱まった。篤史の心臓の音と、自分のそれが重なって溶ける。同じリズムを刻むようになると、不思議と心が凪いだ。 「……変だ」 「何が」 不安が小さくなっていく。ずっとこうしていられれば、穏やかなままいられるような気がする。嫌なことは霞んだし、篤史の熱は心地よかった。 「こんな風に、誰かの心臓の音聞くことなんか、なかった」 「もういつでも聞ける」 「本当に……?」 「本当」 不思議だと思う。不安と安堵はあまりにも揺らいでいるのに、篤史がそう言うとそれでいいような気がしてくる。揺らぎがどちらかに収束して、その解を一生変わらずに持ち続ける日が来るなんて思えないのに。それなのに、胸が熱くて、頭の芯まで熱くて、ただ信じたいと思う。 「……オレ……変だ……わからない……」 涙が零れている。ぱらぱらと、降り始めた雨のように一粒一粒が重みを持っている。篤史が小さく笑った。 「ゆっくりでいいって言っただろ」 「……」 「でも我慢はするな。全部俺に言え」 おもしろいなんて思わないのに、笑いが零れた。一緒に嗚咽も漏れた。誰かに必要とされるなんて、医者にでもなるしかないと思っていた。それが、唯一といっていい希望だった。でも、篤史がいるなら、あるいは。篤史がずっとそばにいてくれるなら。 「……羽沢」 「ん……」 「……羽沢がオレから離れて行ったら……もう……その時はどうしたらいいかわからないんだ……怖いんだ……だから……オレもちゃんと羽沢を信じて向き合えるようになるべきだって……わかったから……頑張るから……だから……」 「日和佐……」 「だから……どこにも行かないで……離れないで。オレをいつも抱き締めて……」 なんて、美しくない解なのだろう。今まで解いてきた方程式たちはどれも、美しいものでしかなかったのに。これはひどくいびつで、はっきりしない。それなのに、今まで生きてきたどの瞬間よりも胸が熱い。 「……日和佐」 篤史が耳元でそっと潤を呼んで、大きく繊細な手のひらが潤の髪を梳いた。 「そばにいる。約束する」 「オレ、羽沢がいない時にはもう戻れないよ」 「俺だって同じだよ。戻れない」 「……」 「じゃなきゃ普通、ここまでしないだろ」 「……そうなの?」 「そうだよ。大体、ふられなかったからよかったようなものの、下手したらただの痛いストーカー紛いになるとこで……俺だって怖かったんだぞ」 潤が笑うと、篤史も笑って顔を見合わせられるところまで身体を離した。見つめ合うと、篤史のてのひらが頬に添えられる。目を逸らせなくなって、潤は身体を強張らせた。温かい手のひら。顔が熱い。 「……なに」 「いや、好きだなと思って」 思わず零れた笑いから、そのまま吸い込まれるように唇を重ねる。本当に引き込まれるように、自然に。篤史の唇は一瞬だけ驚いた様子だったけれど、すぐに形勢は逆転された。合わさった舌が熱に溶けて、世界が眩く白む。 「……っ……ん……」 長いキスを交わし唇を離すと、篤史の吐息を自分のそれが混ざり合うのがわかった。キスだけで、こんなに身体が熱くなる。 「………羽沢」 「ん?」 「……ずっと……何も、しない?」 小さな呟きに、篤史が笑った。 「俺はいつでもしたいけど?」 「……ずるい。それは」 抱き締められて、背中を撫でられる。優しい声、てのひら。篤史はまだ余裕があるのだろうか。自分には、もうすでに余裕がない。少しでも離れたら、瞬間、篤史を求めて手がさ迷うだろう。 「……胸が苦しい」 「いい傾向だな」 朝の光、匂い。柔らかな肌ざわり。篤史の腕の中で、言葉は余韻を持って鼓膜を震わせた。言葉が身体の奥深くへと染み渡って、潤は初めて光の中の未来を思い描いた。悲しくて苦しいばかりのいつかではなく、篤史の隣にいるいつか。その日を信じたいと、心から思う。 篤史に抱かれながら、潤はゆっくりと息を吐き出した。静かに鼓動が波打つ。目を開けると、柔らかな光に照らされた青い缶が飛び込んでくる。鮮やかに輝くその青は、まるで海のようだ。果てなく広がる青い世界。ずっと深海のようだった世界に、今までで一番明るい光が射した。

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