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幼馴染
シュー……加湿器の静かな音と、石油ヒーターのかすかなにおい。
前触れのない目覚めに、自分でも少し驚いている。どれくらい寝ていたんだろう。通いの家政婦が帰りがけに顔を出してくれて、心配そうな彼女に平気だよと返して、いつもどおり誰もいなくなった家で無人の気配を感じながら目を瞑って。すぐに意識を手放したんだ。
ぼうっとスマホのボタンを押すと、あれからまだ二時間も経っていない。
少し寝汗を掻いているし、身体が熱い。
ヴー、ヴー、着信のバイブと同時に、ピンポーン、とチャイムが鳴る。音と振動の急な襲来に思わず身が強張ったのは内緒だ。そうだ、そろそろ来る時間。震えるスマホを放ったまま部屋を出て、階段を下りて、インターホンを取らずにそのまま玄関のドアを開ける。
「ふっ」
瞬間に吹き出してしまい、スマホから耳を離した正面の幼馴染は少し心外そうに、しかしつられたように笑った。
「なに」
「だって、睫毛に」
「うん?」
「雪、積もってる」
「そう?」
言いながら雪化粧の睫毛を指先で払って、彼はマスクを外した。
「それより寒いんだけどな。入っていい?」
ぶわっと白い息が広がる。
「はは、うん」
後ろ手でドアを閉めると、帽子、マフラーと装備を解いていく。ダウンの肩の滴を払ってやりながら、ちらりと見た庭の光景を反芻する。
「外も積もってる?」
「だいぶね」
「転ばなかった?」
「危ないシーンはあったけど。葵は、大丈夫?顔赤いね」
「大人しく寝てたけど……熱なんて久しぶりかも」
「薬買ってきたよ。お粥とかはある?」
「うん。清子さんが作ってくれた」
「じゃあ、持ってくから、戻って寝てなさい」
子供に言い含めるような口調と、眼差し。年相応でないのは幼馴染のほうで、とても高校生には見えない大人びた物腰は、黙っていれば、いや喋っていても、大学生か社会人にも間違われる。
「柏木」
憎まれ口の一つでも叩いてやろうと口を開いたけど、
「ねえ、葵」
それを制するように名前を呼ばれる。
「なに?」
「……いや、なんでもない」
「ふうん、じゃあよろしく」
気にならなかったわけじゃないけれど。気にしないと決めた。
葵は努めて軽く言って、ひらひらと手を振りながら部屋に戻った。
再び布団にもぐると、そのままベッドに沈んでしまいそうなくらいには身体が重い。加湿器の音になんとなく耳を傾けながら、今は無人ではない家のことを思う。この家で両親と過ごした時間より、家政婦の清子と、幼馴染と過ごした時間のほうが長いかもしれない――とか、熱が出ると心が弱る。
手際の良い幼馴染はそれほど時間をかけずに、葵さえどこにあるのか知らないお盆に湯気の立つお椀と水の入ったコップを乗せて、部屋に入って来る。お盆を置くと、第一声は説教だ。
「またそういう、ずぼらなことを」
布団の中で脱いだTシャツを、ぽいっと端から捨てたところ。寝汗が冷えて、気持ち悪くなってきたのだ。
「サービスだけど?」
「はいはい、葵の上のファンなら喜ぶだろうけど」
「それやめろよ」
揶揄ったつもりが、揶揄われただけ。
女子みたいな名前と、とても男らしいとは言えない見た目から、そのあだ名が定着して久しい。具体的には、中高一貫の男子校で、その名で呼ばれて五年経っている。
「柏木はいいよ、背も高いし、女子と間違えられることなんて一度もない人生だし。ねえ、着替え取って、なんでもいいから」
だるい身体を起こそうとすると、押さえられて、肩まで布団を引き上げられる。
「柏木?」
「ねえ、葵」
「なに。なんでもないは一回使ったからね」
妙に強引な行為に少しむっとして睨むと、いつもならいなすように苦笑するはずの幼馴染が、しかし今は真剣な顔つきだった。
「葵。俺のこと」
「あ、うん」
「なんで、ゆうって呼ばないの?」
柏木夕。それが、彼のフルネーム。ほんの数年前、具体的には中三の冬まで、そう呼んでいた。
「……俺も少しは大人になったってこと」
「意味がわからないよ」
「わからなくていいの」
中三の冬。そう、今日みたいに朝から雪が降った日だった。夜遅くまでこの部屋の窓から止まない雪を眺めて、このベッドに二人でもぐりこんで。おやすみ、と言ったあとしばらくしても寝息が聞こえなかったから。もしかして、お前もそうなの?なんて淡い期待と、お前ならいいよなんて笑っちゃうような覚悟を抱いて、幼馴染の背中に抱きついた。夕は、とてもどきどきしていた。もちろん、自分も。腕に力が入った。脚が絡まった。腹を撫で、その下にも触れた。彼は勃起していた。でも、決して抱き返してこなかった。
俺が男だから?弟みたいな存在だから?父親どうしが上司と部下だから?自意識過剰だった?迷惑してた?
悲しかったし、惨めだった。
そして、初恋が終わった。
次の朝から、ずっと下の名前で呼んでいた彼を、他人行儀に苗字で呼ぶようになった。それが、自分が取れる彼との最長の距離なのだから呆れる。自分からは離せないし、離れられないのだ。だから、お前から離れて――そういう意味だよ。
強く肩を押さえる夕の手を払って、身体を起こす。じゅうぶんに温まった部屋でも、素肌には少し寒い。
「……たしかにサービスじゃないよな」
ぼそり、と、低い呟きが耳元をかすめる。
次に自分の身に起きたことを、すぐには理解できなかった。
「こういうのは、誘惑っていうんだよ」
痛いくらいに抱きしめられる。彼のシャツが皮膚を擦り上げて、ひりひりする。
「痛い」
「葵」
「痛い。離せよ」
「葵、ねえ、我慢できるのは一回だけだよ」
何を言われているかわからなかったわけじゃない。でも、何も答えられなかった。ぽかんと開いた口に、冷たい指先が触れる。それから、唇が――
「んっ……」
乱暴で、短くて、噛みつくようなキスだった。
「やめっ」
夕の腕の中でもがき、睨みつけたけど。もっとずっと強い瞳がまっすぐにこっちを見つめてくるから。腕が絡まって、また、唇が触れる。今度は、そう、優しくて、長いキスになった。
はあ、と、どちらともなく離れて、荒い呼吸を繰り返す。
「……寒い」
「ごめん」
「あと、熱い」
「ごめん」
「俺、風邪引いてるんだけど」
「ごめん」
「あの時、すごく傷ついた」
「……ごめん。泣くなって」
夕は引っ張り出した毛布を葵の肩にかぶせて、その上からぎゅっと抱きしめる。いつも大人びていて憎らしい幼馴染が、どうしたらいいのかわからないって態度でおろおろ自分を抱きしめているのがおかしい。
「夕」
「うん」
「おかゆ、あっためなおしてきて」
「うん」
「今日はずっと一緒にいて」
「うん」
「あと。もう一回、キスして」
「……うん」
終わり
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