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夜のお茶会
暖房の効きすぎた教室で、あくびばかりするのにも飽きた。この十分間の休憩が終わればまた次の授業が始まるだけだし、とか、いつもの思考回路に繋がるまでに躊躇なんかない。机に広げたテキストとペンケースをリュックにしまって、席を立つ。前後左右はまだ空席、クラスメイトが戻るより前に、教室を抜ける。
エレベーターではなく、外階段へのドアを開ける。
真冬の夜の空気は、頬を切り裂くような冷たさだ。
カン、カン、カン、一段ずつステップを踏みながら、ゆっくりと下りて行く。三階と二階の間の小さな踊り場で足を止めて真横のビルを振り返ると、暗闇にぼうっと赤が光って、少ししてから、焦げ付いた匂いが漂ってきた。
「こんばんは、晶人 くん」
対称の世界で同じように踊り場に出て、煙草を吹かす一人の男。
「こんばんは。手すり、冷たくない?」
彼はたぶんにやりと笑って、いつものように――そう、いつしか当たり前のように、煙草を挟んだ手で自分を招く。
こくりと頷いて、カンカンカン、少し早足で階段を下りる。くっつきそうなくらい隣り合って並んだビルの二階には、会計事務所が入っている。看板には小林会計事務所と書いてあるけど、今自分を手招いた人は小林姓ではないことをもう知っている。
地上まで下りて、また、隣の外階段を使って二階まで上っていくと、手元の空き缶で煙草を揉み消した人がにやりと笑ったのが、今度ははっきりと肉眼で見えた。
「長岡さん、さぼり?」
「まあね。晶人くんも、だろ」
「俺はこれからさぼるんだもん」
ははっ、愉快そうな失笑を弾けさせて、長岡は背後のドアを開けた。
「そうだった。いらっしゃい」
「おじゃまします」
天井の明るい蛍光灯、しゃんとした観葉植物、大きなコピー機。向かい合わせに配置された事務机の間を通り、パーテーションの裏へ回る。黒く重厚なソファーの端に座って、ほんの一二分ですっかり凍えてしまった指先に息を吐きかける。この事務所に普段は何人いるのかはわからない。晶人がここへ寄るのは、彼が一人でいる時だけだった。
「コーヒー?紅茶?緑茶?」
「うーん……紅茶!」
「了解」
パーテーション越しの注文はすぐに叶い、長岡がひょっこりと姿を現す。右手で器用に二つのカップを持って、左手には蓋付きの青い缶。
「今日はクッキーがある」
「あ、俺、それ好き」
「ならよかった。消費活動にご協力よろしく」
「まかせて」
「じゃ、紅茶にクッキーと、優雅に夜のお茶会と洒落込みますか」
「ティーバッグの紅茶と、おつかいものの余りでしょ?」
晶人が混ぜ返すと、長岡がやはり愉快そうに笑う。
つまらない塾を抜けて、隣のビルで残業中の彼と、二人してこっそりさぼる時間。いつの間にか、密かな楽しみになっていた。
バターと砂糖たっぷりのクッキーを齧り、熱い紅茶を啜る。幸せのため息を吐くまでの一連の様子を眺められていたことに気付いて、少し恥ずかしくなった。
「あ、長岡さんは、ココアとバターのどっちが好き?」
「それより、センターどうだったの」
「あー、うん、自己採点だとまあまあかな」
「賢いんだよなあ、きみ」
「見た目にそぐわず?」
「見た目ねえ。まあ実際、おしゃれだし、かわいいよ」
「――すぐ揶揄うし」
「ごめんごめん、でもほんとのこと」
むくれる晶人の頭を撫でて、それにまたむくれるのを笑って。いつも彼はこんな調子だ。
「もういいよ。長岡さんみたいなちゃんとした大人からしたら、俺なんてどうせ、だもん」
私服校だからいつも好きな服を着ているし、頭も金色だし、はじめのうち不良だと思われていたんだっけ。今は誤解も解けて、そう、実は保健室登校のはみ出し者ってことも、彼には知られている。
長い指が伸びて、ココアクッキーを摘まむ。うん、バター派の自分と喧嘩にならなくて、いい感じ。シャク、と良い音を立てて、こくりと飲み込むと、長岡はふと目線を天井にやって、それから、晶人を正面から見た。
「俺がちゃんとした大人だったら、いたいけな高校生引っかけて、こんなに喜ばないよ」
また揶揄われただけだと思ったから、笑おうとしたんだけど。
いつもは優しくほころんでいる口元が、今はきゅっと結ばれていて、いつもは優しい瞳が、今は少し、違ったから。覚悟はしていたけど、直面すると全然平気でいられないんだなって、頭の中の自分が他人事みたいに考えている。
「いたいけって、俺が?」
下手くそな返事は、おまけに少し震えてしまったかも。
「一年くらいだったかな。楽しかった」
ああ、ほら、やっぱりこの話。
「……やだよ」
「だって。センターの結果、良かったんだろ?合格しちゃったら、もう、塾なんて通わなくてもいい」
「そうだけど」
「だからさ」
「やだ」
「晶人くんさ」
「や、だ、聞きたくない」
耳を塞いで、首を振って、まるでじゃなく本当に子供だって、自分でもわかっているけど。このひと時の幸せが、ずっと続く幻想くらい、最後の最後まで見せてくれたっていいのに。
両手首を、温かい手のひらに掴まれる。少し乱暴なくらい強く引きはがされて、驚いて顔を上げると、目の前に長岡の顔があった。
「聞いてよ」
「やだよ……俺、浪人する」
ふっ、と、失笑の息が晶人の髪を揺らす。
「それもいいけどね。あと少しで、きみはたぶん、晴れて大学生になる。いたいけな大学生だ。そうしたら、昼間、外で、会おう」
ゆっくりと言い聞かせるようなせりふが、聞こえなかったわけではもちろんない。
「どうかな」
こつん、と、くっついた額が熱い。
ねえ、今、どんな顔してるの?見たくても、今は何も見えない。
「返事、して?」
喋ったら、たぶん、泣く。
思いきり抱きつくと、ぎゅっと抱き返してくれる。
かすかな煙草の匂いを吸い込んで、結局はやはり、くすんと泣いてしまったんだ。
終わり
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