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先輩と僕

 最近、よく眠れない。  原因はわかりきっている。最初に知らされた時は、自分を取り繕うのに必死で、ショックを味わう余裕もなかった。それから数日、やっとじわじわと痛み始めて、数週間、数ヶ月、時間が経つごとに痛みは増すばかりでまるで治らない。  一人の部屋で、しくしく痛む心臓を押さえながら、祈るように夜明けを待つ毎日。自分でも馬鹿馬鹿しいと思う症状も、けれどもうすぐ終わる。終わってくれと思う。  金曜の夜は、酩酊するまで呑んで、気を失うことにしている。  どんな方法でもいい、週末くらいは眠りたいから。  今夜も僕は、好きでもないウィスキーをオンザロックであおっている。  ピンポーン……遠くでチャイムが鳴ったような気がして、ぼんやりとドアを見ると、そんな僕に気付いたように、ピンポーンともう一度鳴る。立ち上がろうとしてふらついて、僕は何がおかしいのかふふふと笑いながら鍵を開けた。 「――はい、どちら様?」 「ゆーま」  グレーのコートに、タータンチェックのマフラーをぐるぐる巻いて。マスクとニット帽、おまけに曇った眼鏡で隠れていたって、見間違えようもない姿。 「……先輩。どしたの」 「何回も連絡したんだけど。電話には出ないし既読はつかないし、なにやってんだよ」 「なにって……呑んでんだけど」 「一人で?」 「誰かいるように見える?」 「見えねーな。入っていい?」 「え?」 「酒とつまみ、買ってきたから」  イエスともノーとも答えないうちに、もう、靴を脱いで上がっている。僕は慌てて、その背中に手を伸ばした。ざらついたウール地を一瞬かすって、空を切る。 「ちょっと、先輩」 「なんだよ」 「こっちのせりふだよ、何しに来たの」 「お前と呑みたいと思ったから、来た。だめなの?」  大の大人が小首を傾げたって、通用しないよ――僕以外には。 「最近お前、付き合い悪すぎ」 「そりゃそうでしょ」  顔は赤くなっていないだろうか、いや、どうせもう酔っているからわからないだろう。呑むとすぐに赤くなるってことは、先輩だって知っている。 「彼女さんは?」 「お前ん家に連れてくるわけないだろ?」 「そうじゃなくて。彼女さんと一緒にいなくていいの?って聞いてんの」  先輩は僕の話を聞いているのかいないのか、さっさと帽子とマフラーを外し、勝手知ったる仕草で鴨居のハンガーにコートを引っかけている。 「ねえ」 「いいんだよ、ほとんど毎日顔合わせてるんだから。たまにはお前の顔見たい」  ああ。 「……これからはほとんどじゃなくて、毎日になるんでしょ。てか、俺の顔なんてそれこそ毎日見てるし」 「んー?まあ、そうだけど」  入社からずっと僕の面倒を見てくれていた、二つ上の先輩。毎週のように一緒に呑んで、遊びに行って、まとまった休みには旅行して、友達みたいだった。ずっと一緒にいられるような気でいたけど、そんなのは僕の祈りみたいな思い込みで。  来月、先輩は結婚する。  僕の六年間の片思いが、終わるのだ。  先輩の買って来た缶ビールで乾杯しなおして、サラミを齧る。 「式、来月だね」 「ん」 「先輩が結婚とか、まだ信じられないよ」 「ははっ、俺も」 「今年で何組目だよ、もう、ご祝儀払う身にもなってよね」 「お前もすれば?」 「誰とだよ」 「ほんとにいないの?」 「いない、よ」  しまった、自爆しそうだ。自分で振った話題で、またしくしく痛い。 「なあ、ゆーま」 「なに?」  もう一枚サラミをつまもうと伸ばした手が触れたのが人肌だったことに、一瞬、気付けなかった。慌てて離れようとすると、がっちりと掴まれて、握り締められる。 「なに、先輩……」 「ずっと考えてたんだけど」 「あ、うん」 「俺は、お前が可愛い」  ぎゅっ、と、もう一度強く握られる。  繋いだ指先からどくどくと脈が伝わってしまいそうで、僕はふざけたふりをして手をぶんぶんと振った。 「はは、ありがと、俺って先輩のお気に入りだもんね」 「ゆーま、はぐらかすなよ」 「……はぐらかすって、なんだよ」 「ゆーま、俺のこと、好きだろ?」  やめて。 「気付いてなかったと思った?」  やめてくれ。 「だから、ずっと考えてたんだよ。で、もし男を抱くなら、やっぱりお前しか考えられないって思った」  ぞくりと走った感覚の正体はわからない。ただ、それに突き動かされるように彼の手を強く払い、叫んでいた。 「同情はやめろよっ……」  それが、彼の決めつけを肯定する言葉だったことに気付いた時にはもう遅くて。みるみる目の前がぼやけ、ぬるい涙が頬を伝っていた。 「同情じゃない」 「じゃあなに?彼女さんと喧嘩でもした?マリッジブルーってやつ?俺を巻き込むなよ」  最後、しゃくり上げてしまって、ちゃんと言えなかったかもしれない。 「やっと泣いたな」 「触んな」  先輩は構わず、僕の頬に触れる。大きな手に包まれるのは、初めての感触だった。 「結婚するって言った時さ、お前、泣くかなって……ちょっと期待した。言うかなって、期待したよ。でもお前、びっくりするくらいハイテンションで、おめでとうなんて笑って」  長くて、少し骨ばった指が、僕の下睫毛をこする。 「それが、こんな顔になっちゃってさ。ひどいクマ」 「だれのせいだよ……」 「うん。ショックだった。お前にとって俺って、そんなもんなのかよって思った」  それから、唇の隙間に割入って、前歯を撫でる。 「あいつとはしばらく会ってない。明日会うけどね……式の延期の手続きで」  先輩、と、言おうとしたのかもしれない。だけど、開いた口に指を突っ込まれて、身体は勝手に飢えを満たすようにそれをしゃぶっていた。ちゅ、と、音が立つ。上目遣いで見た先輩の顔は、歪んでいる。今にも泣きだしそうなそれは、ひどく色っぽかった。 「抱きたい」  抱き合った瞬間、盛大に静電気が弾けた。  服を脱ぐのもそこそこに、ベッドにもつれ込む。  海にも温泉にも行った。裸なんて、何度も見た。それを思い出して自分を慰めるのにもすっかり慣れていたのに、本物は、こんなにも熱い塊だなんて。僕の体じゅうを舐めて、前から、後ろから、抱きしめて。絶対に触れることのないと思っていたものが、手に、口に、足に触れて、今、僕の中にあって内臓を抉りそうなほど強く突いている。  僕はもうずいぶん前に、人間の言語を操ることをやめて、あっ、あっ、と動物の声で鳴いている。先輩も、さっきからずっと、ゆーま、と僕を呼ぶことしかできなくなっている。  キスでぐちゃぐちゃになった唇から、何度目か、僕の名前が漏れる。 「ゆーま、かわいい……」 「せんぱい……」  がくがくと揺さぶれらながら、伝うのが汗なのか涎なのか、涙なのかはもうわからなくて。 「好きっ……だったっ……」 「ゆーま、ゆーま」 「ううん、好き……っ」  くぐもった唸り声が、耳に吹き込まれる。  頭の中に、激しいフラッシュが閃く。  僕は悲鳴を上げて、先輩の名前を呼んだ。 終わり

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