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モーニング

sideM  半年前から、毎週水曜日は支社へ出向することになった。いつもより一時間早く起きて、いつもと真逆の電車に乗って、慣れない駅で降りる水曜日。もう何年も支社での案件をいくつか担当していて、不定期に行き来していたから、環境が激変したとかいう感覚はない。寝汚い自分にとって、週の半ばの早起きは少々辛いものだが、まあなんというか、その程度。  目の端に、茶色いトレイが映る。 (あ、来た)  不躾にならないように、ちらりと横目で、一人分空けた隣の席を見る。  トレイの上は、いつものようにトーストとジャム、それにブラックのホットコーヒーという店で一番シンプルなメニューだ。カタン、と、テーブルにトレイを置くと、湯気を立てるコーヒーをよそに、まずは鞄からタブレットを取り出す。すいすいとしばらく画面を操作したあと、思い出したようにカップの取っ手をつまみ、音を立てずに一口飲む。  空席を挟んだ右隣の男の動作をそうやって眺めながら、自分もまたカフェオレを一口飲み込んだ。 (あーあ、なにやってんだか……)  早起きが少々辛い程度の、水曜日。  いつもと真逆の電車に乗って、慣れない駅で降りて、駅前のカフェでモーニングを摂る水曜日。  週で一番、心浮き立つ日だった。  いつから彼の存在に気付いたのかは、実は憶えていない。最初にこの店でモーニングを食べていた時、既にあの席に彼はいたのだろうか。意識して座るようになったのは、そうだな、ここ三ヶ月くらい。  年の頃は、自分と同じくらいか、少し上。短めの髪は、前髪を掻き上げたトラッドなスタイルで、丁寧に剃刀を当てた顔は、少し冷たいくらい整っている。いつも上下揃いのスーツではないから、営業職ではなく内勤なのかな。今日は、濃いグレーのツイードジャケット、その下は黒のタートルネック。控えめなチェックのスラックスに包まれた長い脚を組むと、黒の靴下が裾から覗く。  彼も同じように、今から会社に行くのだろうか。  どんな職業なんだろう。デザインとか、編集とか、似合うな。  前に一度、社員証なのか名刺なのかはわからなかったが、ちらりと見えたことがある。ローマ字の振り仮名しか見えなかったけど、Sから始まる名前だったような気がする。  またふと、彼がタブレットに指を伸ばす。文字のぎっしり詰まった画面は、もしかして、新聞なのかもしれない。せいぜいネットニュースと、会社で仕事に関連する記事を流し読みする日もある(ない日のほうが多い)、なんて自分と違って、社会人って感じが滲み出ている。 (かっこいいよなあ) sideS  オープン当初から通っているから、さて、今年で三年……四年になるだろうか。月曜から金曜まで、毎朝毎朝、飽きもせず――いや実のところ多少飽きてはいるが、よく通い続けているものだと思う。ホテルのモーニングでは割に合わないし、かと言って自分で用意するのはごめんだ。コーヒーと、少しばかり胃袋を満たしてくれる軽食を、良心的な価格で提供してくれるこの店は、自分にとって貴重な場所だ。長く通う間に、店内のテーブルの配置も変わったし、指定席も何度か変わった。最近では、そう、左隣の彼の出現によって。  元々は、彼の隣り、今空席になっている場所に座っていた。  ある日――初夏だったと思う。半年ほど前に現れた見知らぬ人物になんとなく配慮して一つ空けて座るようになってから、指定席がずれたのだ。  彼は、毎週水曜日しか現れない。  どんな理由があるのかは計り知れないが、決まった時間にそこにいるし、いつもきっちり揃いのスーツを着ているから、お堅いサラリーマンなのだろうなとぼんやりと想像している。濃紺のスーツがお気に入りらしいが、個人的には、もっと暗い色のほうがに合うと思う。年は、結構下かな。ただの童顔かもしれないが、それにしても、顔立ちだけなら大学生にも見える。少し癖づいた黒髪は、伸びたなと思った翌週には大胆にばっさり切り落とされていて、彼の性格を伺わせる。ドールめいた瞳、うまそうに朝食を頬張る表情はあどけないくらいだが、偶然に電話に出た時の彼の声は案外にスモーキーで、決して低くはないが落ち着いたトーンだったのが意外だった。  あの時、森川だったか森田だったか、森のつく名前を名乗った気がする。不意のことでよく聞き取れなかったのが、今の今まで悔やまれるというもので。  もし見られていたら、なんて思って、出勤前のゲームも水曜日は封印している。大して読みもしない新聞など購読して、意味もなく気取ったりして。時々視線を感じたり、ほんの一瞬目が合ったような気がするのも、この距離ではむしろ自然だろう。  自意識過剰は、自分の悪いところだとわかっている。 (ああ、不毛だ)  内心ため息を吐きながら、コーヒーを口元に運ぶ。横目で見ていた彼もまた、両手でカップを包んで、ふーふーと何度も慎重に息を吹きかけてから、猫舌なのだろう少し音を立ててカフェオレを啜るのだった。 (可愛いよな)   sideM←S (どうしよう)  いつもの水曜日。いつもの、心浮き立つ水曜日。  でも、今日は少し違う。  彼が、すぐ隣にいる。  きっと出張なのだろう、三人連れの自分と似たようなサラリーマンが、いつものあの場所に座って、今も何やら仕事の話をしている。先客によっていつもの場所を追いやられた彼が、少し迷うようにうろついた後、手近な空席、つまり自分の隣りに座ったのだ。  油気なくセットされた髪に、銀色に光る若白髪を一本発見してしまった。それに、今まで気付かなかった煙草の残り香。キャメルのジャケットから出た手首には、テンデンスの腕時計が嵌められている。  トーストとジャム、ブラックコーヒーのシンプルなセットをテーブルに置いて、椅子に腰掛けながら足元に鞄を―― 「おっと……すみません」  思ったよりずっと柔らかい声。  倒れてきた鞄を受け止めた脚が、びくりと跳ねてしまわなかったろうか。 「あ、いえ、大丈夫です」 「今日はホットドッグなんですね」 「え?」 「不躾にすみません。よくお会いするなあ、と思って」 「あの、はい、俺もそう思ってました……」 「朝からよく食べますね」 「うわ、はい、お恥ずかしいです」 「はは、なんで?」 「あれ、はい、俺何言ってんですかね」 終わり

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