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わるいおとこ

 ヘッドラインがちらちらと移り変わり、トップニュースが始まる。午後七時を少し過ぎたところ。ソファーにぼんやり寝そべって、チャンネルを変える。バラエティーは気分じゃないし、アニメはもっと気分じゃない。結局またニュースに戻り、低く落ち着いたアナウンサーの声を聴きながら、目を閉じる。  スーツが皺くちゃになるけど、そろそろクリーニングに出そうと思っていたし、どうでもいいや。冷蔵庫は空っぽ、コンビニにも寄ってこなかったけど、腹も全然減っていない。このまま眠ってしまえば、抜け殻みたいな自分の身体は冷たくなっていくのだろうか。なんて、悲劇の主人公ぶる資格なんてどこにもない。  ヴー。  放り出したスマホが震えるのを、反射で取り上げる。着信は、彼。 (だめだ……)  出られない。切ることもできない。できるのは、手のひらの中でしきりに震えるのにただ耐えて、止まるのを待つことだけだ。  ヴー、ヴー。やがて、長いコールが終わる。  焦りが去ると、抜け殻の中で心臓がどきどきと動いているのがおかしくなって、僕はくすくす笑った。  ピンポーン。  今度はドアホン。今夜、誰かと約束はしていたっけ?ああ、もしかしたら、昨日あたりに酔った勢いで誘ったのかも。寂しくて寂しくて、手当たり次第にメールを送ったんだ。  ソファーを下りて、玄関に向かう。  ちょっと早いんじゃない?まだシャワーも浴びてないし、ベッド・メイキングもしていないよ。そんなに俺が欲しかった?ううん、そんなわけない、誰だっていいんだ――僕だってそうなんだから。 「よ」  無言で開けたドアの先にいたのは、浮かんでは消えた何人かのセックスフレンドではなかった。きちんと磨かれた革靴、スーツに包まれた脚がすらりと伸びて、見慣れたコートにマフラー、そして、今は忘れたい顔。 「な……に……」  押し出した声はひどく擦れていて、よほど間抜けだったらしく、目の前の彼が吹き出す。白い息が、ぶわっと広がった。 「飯、まだだろ?」 「あ、うん……」 「鍋やろうぜ、鍋」  彼はスーパーの袋を僕に掲げ、人好きのする笑顔を見せたのだった。  中途採用の彼と新卒採用の僕は、同期ではないのだけれど同い年で、僕がこの支社に転勤になってから最初に仲良くなったのが彼だ。前職はまるで畑違いの営業職で、人当りが良くて穏やかで機転が利いて、専門用語をずらりと並べた書類とにらめっこばかりで電話さえまともに取れない僕にとって、ひどく憧れる人物だった。 「今日の鍋は、白湯仕立ての鶏団子鍋。水菜たっぷりで」  お互い寂しい一人暮らしということで、寒くなるとよく鍋をつつくようになった。先週も僕の部屋で、ちょっと奮発して牡蠣の土手鍋を作ったばかりだ。 「なに?鶏団子じゃやだ?」 「ううん……」  さっきからずっと、気後れして喋れない。  なんで来たの?電話、無視したでしょ?混乱しながら彼を見上げると、ん?と、とびきり優しく見返されて、僕はたまらなくなって目を逸らす。ふわり、と、彼の指が僕の髪を撫でた。 「寝癖。あと、スーツくらい脱いで来い。台所、先に使わせてもらうな」  僕だって料理はするけれど、たぶん、彼の方が上手い。  野菜を手早く切って、長ネギの頭、人参のしっぽ、しいたけの軸は捨てずにみじん切りにして、鶏団子に混ぜるという手練れぶり。卵を一つ溶いて混ぜてあるので、火が通って出汁を吸うと、ふわふわの食感になる。鶏団子の鍋は、僕の好物だ。  こんもりかぶせた水菜を、土鍋の蓋で閉じ込める。あと数分もすれば食べられるようになるけれど、好物の鍋が煮えるのを待つ時間が、こんなに苦しかったことはない。  普段通りに世間話を仕掛けてくる彼に、うん、と、ううん、だけで返事をするのはもう限界で。  ドン、テーブルを叩くと、カシャン、重ねた皿が不安げな音を立てる。 「ねえ、はやく、俺のこと振ってよ……」 「真下?」 「なかったことに……してくれようとしてるんでしょ?」 「真下」 「はやく、振って」  僕は必死に声を絞り出して、懇願した。  ――ちょうど一週間前。土手鍋と日本酒ですっかり上機嫌になった彼に、泊まってく?なんていいながら、追い打ちのように日本酒を勧めて。少しふらつきながらベッドに倒れ込んだ彼の上に、跨った。キスをして、シャツを脱がせて、ベルトを外して。終始戸惑っていた彼の股間に顔を埋めて、喉の奥まで咥えた。わざと音を立てて愛撫するうちに、気持ちとは無関係に彼の身体は興奮していって、昂ぶったそれを僕の後ろに沿わせて、そのまま身体を沈めてしまえば、彼にとってその先は未知の快感を享受するだけの時間だったと思う。  なんの自慢にもならないけど。僕の身体は男に慣れていて、文字通り手も足も出せずただ茫然としていた彼の上で何度も腰を振って、さんざんに彼を喘がせて、彼の口から快楽の言葉を引き出すことができた。僕の中で達した彼は、震える唇の間から切なくぜいぜいと息をしていて、とても色っぽかったな。  友人だと思っていた相手に、前触れなく襲われて、身体の隅々を舐めまわされて、最後には達してしまって。彼はきっとひどく傷ついたろうし、僕に失望したろうし、嫌悪もしたと思う。  終電も終わった真夜中に出ていった彼を、僕は追いかけなかった。  その足で彼女に慰めてもらうの?なんて言って?まさか僕に跨られたなんて言えないよね?昏い昏い感情で心も身体もいっぱいになった。  月曜の朝、気まずいまま顔を合わせたけれど、彼の態度は大人だった。おはよう、と、いつものように笑ったのだ。そう――彼は何も、変わらなかった。  僕がテーブルを叩いてから流れた沈黙は、たぶん、ほんの数秒だったと思う。けれど、その数秒が恐ろしくて、彼が口を開く前に勝手に言葉が溢れ出す。 「上村は優しいよ。あんなことした俺を、まだ、許してくれようとしてるんでしょ?でも、辛いよ、そっちのほうが残酷だよ……ごめん、最低なこと言ってるってわかってる……上村のこと、その、無理やりしたの俺だけど……でも無理だよ……もうこんなふうに会えない。お前の顔を見るのが辛い。喋るのも辛いよ……」 「真下、あのな、聞いて?」 「うん……」 「まず。泣かせてごめん」  ぽたぽたと手の甲に落ちていたのが涙だと、彼が言うまで気付かなかった。  彼の手が伸びてきて、温かい指の腹で涙を撫でるように拭う。 「それから。順番逆になったけど、俺と付き合おう」  頬を包んで、また、撫でて。それから、少し悪戯っぽく耳を摘まむ。  甘く痺れるような感触に、気が変になりそうだ。 「……まさか、罪悪感?悪いのは俺だよ?」 「ないって言ったら嘘になるけど、それだけじゃない」 「じゃあ、なに?なんで、そんなこと言うの?」 「わかんない?」 「わかんないよ……」 「好きになった。いや、もう好きだった、のかな」 「わかんないのかよ」 「わかんねーよ。一週間じゃまとまらない」 「……彼女は?どうするの?」 「付き合ってもいない相手に、どうもこうもないだろ」 「お前がうんって言うだけだったのに?」 「……もう一回言わせたいの?」  いつもはひどく穏やかで、優しくて、少し飄々としすぎるくらいの彼の顔が、今はひたむきに僕を見ている。 「好きだよ」 終わり

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