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知らない二人
実験棟の裏にある古い倉庫には、気味悪がって誰も近寄らない。けれどここは僕にとって特別で、まるで礼拝堂のようにも思える場所だった。錆びついた重い扉を開けると、いくつも積み上げられたコンテナが、明かり取りの窓から落ちる淡い光に浮かび上がる。
「やあ、ミオ、遅かったね」
奥から響く、柔らかい声。
姿は見えない。
「やあ、ノギ。来てたんだ」
「そりゃ、俺はね。きみは昨日、とうとう来なかったけど」
「まあ、ね」
噛み殺そうとしたため息が、結局、はあ、と出ていってしまう。
僕はコンテナの脇に、よいしょ、と座り込んだ。
「昨日……一昨日の夜かな、一段と派手に喧嘩しててさ。全然眠れなくて」
「そう」
ここは礼拝堂の、懺悔室。
僕らはお互い顔を知らない。
「ごめん、いつもこんなこと」
「なんで?いいよ」
「……うち、やっぱ、離婚っぽい」
「そっか。転校するの?」
「ううん。ついてくなら母親のほうだから、こっち」
「よかった、なんて、ひどいかな」
「……そんなことないよ。ありがと」
ふふっ、と、静かに笑う声が聞こえた。
僕は彼のことを、ノギと呼んでいる。彼がそう名乗ったからだ。そして彼は、僕をミオと呼ぶ。僕がそう名乗ったから。
ノギはこの倉庫の、なんていうか、先住民。ある日突然紛れ込んだ無粋な来客を、彼は快く迎え入れてくれた。コンテナ越しにぽつりぽつりと会話をするうちに、いつか、彼は僕にとって、この場所が特別である本当の理由になった。
ひらり、と、目の前を斜めに横切り、何かが落ちてくる。
それからすぐに、また、ひらり、ひらり。
「わ、え?」
驚いて思わず見上げると、コンテナの向こうからにょきりと出した手をひらひらと振って、ノギはくすくすと笑った。
足元に落ちた一枚を拾い上げる。いちごミルクキャンディの包み紙だ。
「なにこれ」
「きみを待ってる間に食べてた」
「三つも?」
「そうさ」
ふっと、甘いキャンディのにおいが鼻をかすめる。懐かしいにおいだ。
「……俺もこれ、好きだったな」
「ふうん」
コツン。
「いて」
「あげる」
容赦なく脳天を直撃したキャンディー。
「……ありがと」
もう少し渡し方があったろうと文句を言う前に、遠くで予鈴が鳴る。昼休みが終わるのだ。
「……行くね」
「うん」
僕はノギのキャンディーを握り締めて、倉庫を出た。
ざわついた教室に戻り、席に着く。
「神尾、ギリギリじゃん。どこ行ってたん?」
「ちょっとね」
「えー、なにそれ」
ここでの僕の役割は、学級委員長。珍しく予鈴の後に着席した僕を周りが揶揄い、僕はそれに苦笑しながら適当に返事をする。
やがて午後の授業が始まり、しばらく経ったあと。
ガラガラ、と、静かな教室に不躾な音が響く。
遅刻、早退、サボりの常習犯。クラス一の問題児が、悪びれもせずに入って来たのだ。ポケットに突っ込んだ両手、明るい色の髪、醒めた目。
「野際、早く座れ」
「……はーい」
少し猫背になりながら、窓際の一番後ろの席に着く。
ふわり、と、いちごミルクキャンディーのにおいが鼻をかすめた気がしたのは、ただの幻覚。
僕らはお互いの顔を知らない。
終わり
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