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四月一日、アトリエにて
土曜の午後は、先生のアトリエで過ごす。
住宅街の一角の、小さな庭のある、小さな一軒家だ。
「こんにちは、先生」
僕がいつものように窓から声をかけると、カラリ、とすぐ脇のガラス戸が開く。
「こんにちは、いらっしゃい」
先生はいつものように穏やかに笑い、僕を招き入れるのだった。
「今日はとても寒いですね」
一度は訪れたはずの春はどうやら寸前で引き返してしまったようで、今朝から冷たい雨が降っている。ストーブを焚いた温かい部屋には、コーヒーの快い残り香が漂っていて、僕はそれをゆっくり吸い込んでから冬物のコートを脱いだ。
「もう少し温かくしましょうか」
「いいえ、へいきです」
先生は既に椅子に腰掛けて、イーゼルにキャンバスをセットしている。僕はセーターを脱いで、ズボンを脱いで、靴下を脱いで、下着を脱いで……すっかり全部を脱ぎ捨てて、先生を見た。
「今日はどうします?」
「手を。きみはいつも、そうやって隠すね」
ポーズの指定より先に、手で隠した前を露わにするように求められる。先生だって気付いていると思うけれど、別に恥ずかしがってそうしているわけではない。裸になる時はできるだけ恥じらうふりをして隠すのが、癖になってしまっただけ。
僕は先生に言われた通り、椅子に跨って、片膝を上げた。
「寒くないですか?」
「へいきですよ」
鉛筆の走るかすかな音が、アトリエに響き始める。
分厚いレンズの奥で伏せられた、先生の痩せた目蓋を見つめる。
先生のことを、僕はあまり知らない。周りからは何と呼ばれているのかと最初に訊いた時、先生が一番多いね、と言われたので、僕も以来ずっとそう呼んでいる。
「先生」
「動かないで」
「いつも同じ人間ばかり描いていて、飽きませんか?」
先生に会った春の夜を、忘れることはできない。いつものように客引きのために出た街角で、およそ娼夫など買いそうにない紳士に声をかけられた時の驚きといったらなかった。それも、僕を買おうというわけじゃなく、デッサンのモデルにだなんて。
「飽きませんよ。きみはとびきりきれいだ」
とっくに旬は過ぎ、売り専ももう潮時だなと思っていた。身体を売る以外の稼ぎ方をまともに知らず、毎夜毎夜、くすんだ未来に憂鬱な気持ちになっていた。
「いろんな男に抱かれました」
「そうですか」
「そうですよ。それでも、きれいですか?」
「ええ、とても」
「今日はエイプリルフールでしたね」
「おや、信じてくれないんですか」
落ち着きはらった先生の声に、身体のどこかが甘く疼く。
本当のことを言うと、いつかは、先生は僕のことを抱くのではないかと思っていた。きっと親子ほど年が離れているけど、そんなことはまるで問題にならない。節くれだって細かい皺の目立つ手は、いまだ僕を撫でたことがない。時々毛先がコーヒーに染まって茶色くなっている銀色の口髭は、いまだに僕の頬や唇に触れたことがない。
「去年の今頃は、もうそこの公園の桜が咲いていたでしょう」
「そうでしたっけ?」
「一本だけ、早く咲くのがあるんですよ。あそこをくぐって来たきみの頭にね、花びらが
乗っていたよ」
先生の笑い声の代わりに、シャシャシャ、と鉛筆が擦れる音がする。
「僕はね、それをつまみ上げるのにひどく勇気が要ったから。よく憶えているんですよ」
「知りませんでしたよ……」
「言ってませんからね」
一度は訪れたはずの春が引き返してしまったような、寒い日だ。窓の外はどんよりしたグレー。細い雨が風に舞いながら、庭木の葉に滴をまぶす。ストーブのオレンジ色が僕の身体を淡く照らすのが、先生からはどう見えているのだろう。
「ねえ先生。きっともうすぐその桜が咲きます」
「ええ」
「そうしたら、またあの下をくぐって来ますよ。頭には必ず、花びらをくっつけて」
鉛筆の音がやむ。
先生は愉快そうに、ふふふ、と笑った。
終わり
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