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愛人の条件
本日の昼飯、きつねうどん、280円。学食の中でも一、二を争う安価なメニューだが、値段が理由でなく、単に好きなだけ。ただ、早くも夏バテで弱った胃腸がこれ以上食べられないと訴えていて、スープを飲み残し、油揚げもかじりかけで残してある。テーブルを囲む仲間は、まだ食事中だ。時間潰しにと、携帯電話を取り出す。
「あれ、みなと、ケータイ変えた?」
唐揚げに歯を立てていた友人に目ざとく指摘されて、奏(みなと)は思わず、開きかけた機体を折った。パチン。
「あー、うん」
「見して」
「ん」
薄紫のボティーを手渡す。
「これ、新機種?」
「まあ、そこそこ?」
「つーか、こないだiPod買い換えてなかった?どこにそんな金あんの?きつねうどん貯金?」
「あー、んー、まあね」
言葉を濁してごまかしたい湊の気持ちなど、彼らにはお構いなしだ。彼らは彼らの興味を満たすために、無邪気に核心に迫ってくる。
「湊って、何のバイトやってんだっけ」
「――社長の愛人」
「ははっ、何の社長だよ」
まあ、正直に答えたところで、間髪入れずに一笑されるだけなんだけど。
「…おわ、びびった。湊、着信」
友人の手の中で、湊の携帯電話が震え出したようだ。受け取り、開くと、電話ではなくメールの着信。差出人の名前を見て、少し驚く。噂をすれば影?
メールの内容は、不必要な前置きや動くハートの絵文字を除けば、いたってシンプルなものだった。了解、の二文字を返信し、リュックを引っ掛けながら席を立つ。
「俺、一旦帰るわ」
「なに、急に。三限間に合わねーって」
「ノート後でコピらして」
不思議そうな友人にそれだけ言って、湊はトレイを片手に輪から抜けた。
今から会えない?なんて、委ねるような勧誘形。でも、それって実際、命令形だから。
愛人たる者、呼び出しには必ず応じなければならない。
大学から私鉄で数駅行くと、有数の繁華街に辿り着く。この通りが本領を発揮するのは夜だが、昼間でも人通りは多いし、キャッチとか勧誘とか、あちこちでやっている。それらを横目に通り過ぎ、湊はあるビルの前で立ち止まった。七階建ての、一見して雑居ビルともオフィスビルともつかないビルだ。一階はゲーセン、二階は呑み屋、三階はキャバクラで四階はソープ…や、逆だったかも。五階も六階も似たような感じ。ただし、自分にはそれらのどれにも用はなく、そもそもこの時間ではゲーセン以外営業もしていないだろう。エレベーターに乗り込み、「7」のボタンを押す。
最上階の七階には、このビルのオーナーがオフィスを構えている。
背後の鏡に向き直ると、ふてくされた顔の自分に見返される。指先で捩って伸ばした前髪の隙間から、我ながら冷めた色の目が覗いていた。一応、なんて心の中で弁解しながらシャツの裾を整えていると、ピンポーン、到着を告げるブザーが鳴る。静かな、静まり返った階だ。廊下を突き当りまで進むと、重厚な木造ドアに、「Office」とだけ銘の入った小さな金プレートが打たれている。
ドアノブを下げ、押す。シックな調度品が揃った無人の部屋は、事務所というよりというより応接室の雰囲気。ひるまずに右手側のドアを開けると、
「みな?」
顔を見るより先に、声に迎えられた。
「…うん」
「早いなぁ。走って来た?」
いわゆる社長室。黒檀のデスクの奥に座っているのが、この部屋の主、ひいてはこのビルの主だ。
「んなわけないじゃん」
「はは、怒んなよ」
笑いながら立ち上がり、こちらへ歩み寄ってくる。タイトなダークスーツに身を包むのが常で、ネクタイはしている時もあればしていない時もある。今日は、後者のよう。
「杉本さんいなかったけど…」
「ん?別ビルで打ち合わせ中。秘書は忙しいんだよ、何かと」
「社長より?」
「社長より。俺なんか飾りだね」
うそぶくような冗談。彼の持ちビルはここだけではなく、都内に何棟もあり、事業も様々だ。水商売の中での、様々、だけど。彼一代で成した企業で、業績は順調に伸びている。今年で三十歳になったばかりの鋭気(と生命力)溢れる社長だから、この先も当面伸び続けるだろう。以上、情報提供者、秘書杉本。経済のことは、湊にはわからない。
長い腕が湊の腰を抱き、そのまま胸に引き寄せられる。薄荷にも似た甘さのないフレグランスと、煙草の匂いが混じり合ってる。腰から尻にかけてを何度か撫でられ、耳元に息が吹き込まれた。
「みーなー、ちょっと痩せた?」
「痩せてない、つーか、三日で痩せない…つーか、元からガリだし」
「何で怒んだよ。ちゃんと食ってる?」
「それ、榊(さかき)さんにそのまま返すよ。忙しいくせに、こんなことしてさ」
「俺のこと心配してくれるんだ」
「そりゃ…」
臆面もなく恥ずかしいせりふを言ってのける男に、反論も口ごもってしまう。それがお気に召したのだろう、榊の愉快そうな笑顔が、間近に迫った。どこか貴族的だと思わせる気品ある目鼻立ちに、しかしそれは幻想だといわんばかりの、悪っぽくて悪戯っぽい笑みがひらめいている。
「でもねー、俺と、こんなトコでこんなコトするのが、きみのお仕事だからねー」
触れるかどうかの距離で囁かれ、白い額に垂れた一筋の髪を払ってやると、鼻先がくっつく。次に、唇。お互いの唾液を舐め取るような短いキスを交わし、離れた。濡れた唇を指でこすりながら、湊は男を睨む。
「…だから。あんたが無理してぶっ倒れでもして、倒産とかしたら、俺が路頭に迷うって話に繋がるじゃん」
「はは、みなはほんと、口悪ぃ」
逆襲のつもりだったが、余計喜ばせただけ。きれいに爪を切りそろえた指先が、湊の唇を割り、軽く広げる。
「じゃあまず、この悪いお口で、ご奉仕してもらおうかな」
――事の発端は。
いや、発端なんて劇的な幕開けではなくて、原因を突き詰めれば、駆け引きにおいてどちらが手練でどちらが未熟か、つまりそういうことだと思う。
大学進学を機に地元を離れて、一人暮らしを始めた。高校時代から同列のチェーン店でバイトをしていたから、店は変わっても、レンタルショップの仕事は既に手慣れていた。得た賃金の一部を足りない生活費に、残り大半を遊興費にあてる、ごく一般的で特筆事項なんてない生活だったのに。
その日、深夜も深夜、明け方近くになって榊は店を訪れた。それまで彼を見かけたことがなく、こんな時間にスーツなのは、疲れたサラリーマンかホストだろうとかどうでもいいことを考えながら、DVDにバーコードチェッカーを当てる。
「儲かってる?」
ふいに話しかけられ、何のことかはわからなかったが、とりあえず「ぼちぼちです」と答えた俺。相手は悦に入ったように笑い、尚更どうでもいいことを訊いてきた。
「きみ、時給いくら?」
なんであんたにそんなこと、と、まさか思った通り口にできるわけもなく、
「あ、バイト希望っすか?」
レジ横の張り紙を指差してやった。スタッフ募集の張り紙。時給も記載されている。ちらりと上目遣いで男を窺うと、考え込むような生真面目な無表情の後、ややあって口を開いた。
「俺にできるかな」
「…や、冗談です」
「わかってるよ」
気まずい沈黙が訪れたのは、100%相手のせいだ。しかしそれも、あっさりと破られる。
「だってさ、この時給で一日八時間毎日働いたとして、いやまあ法律違反だけどね…せいぜいこんなもんでしょう」
なにが、だって、なんだ。指で作った数字を示され、顎を引いたのは、別に肯定の意味じゃなかったけど。
「まあ、バイトといえばバイトなんだが。この仕事やめたら、もっと儲けさせてあげるよ」
疑問が浮かびすぎて、結局どれも言葉にならない。返事に窮する湊に構わず、彼は平然とこう言ったのだ。
「俺の愛人、やらない?」
「みな…そう、じょうず」
吐息と微笑混じりの、榊の囁き声。
くつろげたスラックスの中から突き出した、くすんだ色の、欲求のカタチ。舌を這わせ、唇で含み、顎を使って刺激する。彼のために、彼によって教えられた方法だ。髪や頬を撫でられると、時々ひやりと冷たいリングが当たる。
愛人やらない?と言われて、イエスと即答したわけでは決してない。それから何度か、秘書の杉本を通したコンタクトという名のちょっかいをかけられ、堪りかねて断るつもりで行った彼のオフィス…つまりここで、結果的にセックスとしか呼べない行為になって。冗談みたいだと可笑しい気持ちと、傷ついたプライドを抱えたまま、商談成立。あれから二ヶ月弱、現在月々の手当をいただいて、囲われてる。いつ榊から声が掛かってもいいようにと、本当にバイトは辞めさせられた。ランクの上がる衣服、充実していく贅沢品。実家の母親と、母親の再婚相手に申し訳ない、と時々どっぷり自己嫌悪に落ち込むけど。
だいたいさ、これって犯罪じゃん?早生まれの湊はまだ十八歳だ。未成年者略取とか…略取はされてないか。淫行?つーか援交?みたいな。
口の中の動物が、ぴくりと動く。下腹の震えを感じた瞬間、どろ、と精液がいっぱいに広がった。卵の白身みたいな舌触りで、獣っぽい臭いの、不味いやつ。狭まる喉に容赦なく流れ込み、湊を咳き込ませる。
「よくできました」
満足そうに言った榊に、優しく頭を撫でられた。
終了の合図ではない。むしろその逆。
「みな、お膝」
膝に乗り上げろ、と、要求されているのはそういうこと。もちろん、ジーンズと下着は脱いで。ベルトの留め金を手ずから外した榊が、嬉しそうに目を細める。
「パンツ、グショグショじゃん」
「…悪いかよ」
「悪かねえよ、俺だって盛ってるもん」
IではなくWEで湊を道連れにして、彼は軽く顎を動かした。たったそれだけのモーションに、湊は下着を脱ぎ、榊の太股を跨ぐ。スーツの両肩を掴んで、後ろに忍び込む細長い指の動きに耐えた。
「んっ…」
鼻声が上がる。前後、左右させ、緊張がほぐれたと思う頃には、また身を竦ませるような感触があてがわれるのだ。温かくて、硬くて、ぬるぬるしてる。頬を何度もさするのは湊の機嫌を取るためで、無言の要求に従って腰を落とせば、
「あっ…はっ、ぁうっ」
痛みと圧迫感に悲鳴じみた声が押し出される。
「んっ、全部入った。判る?」
言いながら揺らされ、また、声が。
「やっ…」
「嫌なの?」
「…ううん」
張り通せない意地は、簡単にくじけてしまうから。彼の肩に置いた手に、手が重ねられる。
「みな?動いて?」
その命令を待ち受けていたように、腰が浮いた。
この体勢で、動けるのは自分だけだ。彼のストロークを再現するために、だから、自分で、彼を中心に上下運動しなきゃいけない。腰を浮かし、落とす、を何度も繰り返す。
「…あっ、あっ…ぁっ」
上る時より落ちる時、感じる。体重と、加速度Gの効果…公式は言えないけど、事実。こもった熱がまとわりつく。革張りのソファーの上で、膝がつるりと滑った。
「みな…いい」
うっとり言って、顎を反らすから。その顎先を舐めて、噛み付く。腰に添えられていた手がTシャツ越しに、胸を弄る。勃ってるの、自分でもわかる。
「は…ぁん、さかき、さん」
名前を呼ぶことで請うと、両方の尻たぶをがっちりと掴まれ、前後に激しく揺さぶられた。中でくっきり形を成しているようで、溶け込んでしまっているような、ひどく強烈で曖昧な存在感。右手で自分を高めながら、自分の中の男と女、どちらにより直結してるんだろうとか思いながら、
「ひぁっ…はぁんっ」
中で弾けた榊を追いかけ、達した。
長らく椅子になっていた榊の太股が、ゆっくりと脱力する。射精後の敏感な身体が、小さな振動にも感じて震えてしまう。榊の臍から下にかけて、正確に言うとYシャツにも少し、湊の精液がかかっている。
「ごめん…」
「何が?」
謝る湊を、ぬいぐるみでも抱きしめるみたいにぎゅっとして、笑う。
「週末には、みなのアパートに行くよ」
「俺としては…足繁く通われるより、ほどほどが楽なんですけど。単価上がるし」
榊が湊を引き剥がすのと、湊が榊の胸を押し返すのと、どっちが早かったんだろう。
「くそ可愛くねーな、この愛人は」
「愛人だもん。マジでさ、他の…本命の人とも上手くやってくんないと、俺だって困る」
榊の左手を持ち上げ、薬指の付け根に嵌った細いリングを撫でる。彼は素早く湊の手から抜け出し、自分でその付け根を握った。
「路頭に迷うからね、って、もういいっつうの。これは女避け、何回も言わせるな」
「はいはい…」
「おい、湊」
ようやくまともに人の名前呼んだな。不服そうな彼を残し、ソファーから降りる。冷たい下着に足を通し、ジーンズを履きながら、ぼんやりと呟いた。
「俺もしようかなー、女避け」
言った瞬間、後悔する。避けるほど寄って来るのかよ、とか、どうか冗談で返されますようにと強く願ったけど。
「いいよ。買ってやる」
本当の願いが、けっこう、真剣な口調で叶えられたから。
「みなー?」
ほっぺたの熱が冷めるまで、彼を振り返れなくなってしまった。
終わり
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