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久しぶりのデート
休日の朝は、ベランダの外から聞こえる音が少し違う。通学路に面したこのアパートは、毎朝子供たちの明るく――今日みたいな徹夜明けには頭痛の原因になる程度には騒々しい声がひっきりなしに通り過ぎ、この先の角を曲がる宅配トラックの「左へ曲がります」のアラートが響き、どこかの家で犬が吠える。しかし今日は、通学路はしんと静か、トラックも通らない、人通りが少ないからか犬も吠えない。それに、いつもならそろそろ朝食に起こされる時間だが、きっと彼もまだ隣の寝室でぐっすり眠っているのだろう。二つの部屋のうち、狭いほうとはいえ一室を仕事部屋として俺に提供したせいで、彼には自分の部屋というものがないのだ。
そろりと扉をスライドする。俺を迎えたのは無人の静寂と寒さではなく、石油ヒーターの温かさとコーヒーのにおいだった。少し面食らった気分のまま、キッチンに立ったままコーヒーを飲む同居人に声をかける。
「……どうしたの」
「おはよ」
「はよ。今日、休みじゃないの?」
デジタル時計には確かに「Sat」と表示されている。毎日が休日、もしくは年中無休の俺とは違い、会社勤めの彼は週休二日だ。ハジメはマグカップの縁から唇を剥がし、呆れたようにため息をついた。
「言ったろ、休日出勤って」
「そうだっけ」
「ま、いいけど」
既にいつものスーツに身を包み、横分けに髪を整えている。コトリ、シンクへマグカップを置く彼に俺が訊ねたのは、彼が仕事の日は俺の担当であるという、もう何年も暗黙の了解のもとに遂行されている事実の単なる確認だった。
「晩飯、何食いたい?」
ハジメの答えは予想外だった。
「今日はいいよ」
「あ、飲んでくるって言ってた?」
「そうじゃなくて。外で食おうぜ、久々に」
やはり予想外の言葉に、俺はたぶん、きょとんとした顔をしたのだと思う。ふっ、堪りかねたように笑った彼の手のひらが、俺のぼさぼさ頭を小突いた。
「駅で待ち合わせな。仕事終わったら連絡する」
「あ、うん」
「かわいいかっこ、しといで」
思わずしかめっ面になったのが照れ隠しだと、わからない彼ではなかったろう。
ひとまず風呂を浴びて、ほぼ二十四時間ぶりに、まだほんのり温もりの残る布団に潜り込んだ。眠りに落ちるまでの短い時間、何を着ようかとか考えていた気もしたが、次に目覚めたのは彼からのコールだった。
待ち合わせの駅で降り、歯科医院の看板の横に彼の姿を見つける。
今朝と同じ、毎日変わり映えのないスーツ姿だったが、こうやって人ごみの中で見ると背の高い男なのだと思い出す。それに、まあ、惚れた理由の一つでもあるわけだが、いい男だった。
「モエギ」
彼もまた俺に気づいたよう、こちらに片手を挙げて寄越す。馬鹿正直に念入りに身支度してしまったことが急に恥ずかしくなり、俺は少し身体を縮めて彼に近寄った。いかにも仕事帰りのサラリーマンと、いかにも仕事をしていなさそうな私服の男の組み合わせが、ほんの少し居心地悪く感じる。今年初めて被ったフェルトハットのつばを下ろしながら盗み見上げると、ハジメはしばらく無言で俺を鑑賞していたが、やがて満足そうに頷いた。
「うん。かわいい」
「……バーカ」
これが照れ隠しだとも、もちろんわからない彼ではない。
「そのコート、やっぱ似合ってるよ。買って正解」
「着る時期、限られるけどね」
「今がちょうどいいんじゃない?」
「まあ、うん」
「そのピアスも」
「……そ?」
オニキスを嵌めこんだピアスは、二十六の誕生日に彼からもらった物だ。翌年には同棲が始まるなんて、その時の俺は知らなかった。会社を辞めてフリーになり、料理の腕が上がり、ゴミ出しの曜日をおぼえ、たとえばお互いの放屁やたまの歯ぎしりなんかにも慣れたが、そう言えば――
「デート、久しぶりだよな」
そう、こんなふうに待ち合わせて出かけるのは本当に久しぶりだった。
「……で、何食べるの?」
ハジメのにやけ顔から目を逸らし、コンコースの向こう、きらびやかな繁華街を見る。横合いの彼は、ふと厳かに言った。
「今日はすき焼きです」
「まじ? ボーナスまだじゃん」
「……お前さあ、当たり前のように奢られるよな」
「そりゃ、ハジメだから」
「理由になってないだろ」
「なってるんだよ」
どさくさに紛れて恥ずかしいことを言ってしまったせいで、じわじわと耳が熱くなる。俺はまたハットのつばを下げて、こっそりと恋人の肩に頭を預けた。
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