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ほくろ

 血色の透ける薄い唇が、わずかに動く。 「――なんだけど」 「え? すみません、なんて?」  かすかに届いた語尾以外は空気に混じって消えてしまい、俺は思わず屈み込んで片耳を近づける。 「近い」  すかさずぴしゃりと冷たく言い、肩を押し返す。その不愉快そうなトーンにまた、すみませんと口をついたが、怖々見やった彼の目元が淡いピンクに染まっているのを知り、俺は思わず顔を覆った。はああ、堪らず漏れたため息の向こうで、やはり彼が消え入りそうな声で呟く。 「なに」 「わかりにくいです」 「……悪かったな」 「いえ、悪くないです。むしろいいです」  そうして目を上げると、そこには普段病的なほど青白い肌を鮮やかに上気させた彼の顔があり、ときめきに膨らんだ胸と――そんな比喩では片付かない股座の感覚を持て余したまま、俺は彼を抱きしめた。くびり折れそうな痩身が、腕の中であえかにもがく。 「……俺」 「はい?」 「処女、なんだけど」  一度は聞き逃したせりふが、耳の中へ熱い息とともに吹き込まれる。殺し文句なんて軽いものではない。ぐる、と獣じみた唸り声は、紛れもなく自分のものだった。  病的なくらい色白で、実際身体も弱いのだろう、一カ月の半分くらいはマスクをしているような人だ。いつも気難しく眉根を寄せて、ぼそぼそとひどく不明瞭に喋る。マスクを外した素顔には薄いほくろが散っていて、泣きぼくろは両目の下にあるし、唇から透ける薄茶色のほくろがやたらにいやらしいなんて日頃から思っている程度には、俺は彼を「そういう目」で見ていた。  稟議書の隅々までまさに重箱をつつく勢いで責められ、マスクを差し引いてもぼそぼそしたその喋り方に苛々させられ、聞き返せば不愉快そうな顔をされる。経理部の鬼は周囲からそれなりに疎んじられていたが、俺は彼の職務をまっとうする姿勢も嫌いではなかった。  色々あって、などと総括するにはまだ早い段階だが、とうとうラブホテルの一室で抱き合うまでには至った。手順を踏んだ恋愛など久しぶり過ぎて、正直、じれったかった。それなのにさっきまでは焦りすぎたかもしれないと不安があったし、彼の顔じゅうにキスをし、唇を合わせ、ぎこちなく誘ってくれる舌をきつく吸い上げれば、もうこれ以上は一秒だって待てないという気持ちにもなる。 「脱がせていい?」 「……聞くなよ」  はだけたワイシャツから覗く胸も、ピンクに上気している。脇や臍の近く、そして背中にも小さなほくろがいくつも散っていて、そのひとつずつにキスをしながら、ついに、ぴんと高く張った頂点に濃い染みを作った下着を下ろす。ばね仕掛けのように飛び出した細身のそれにもキスをし、彼の両脚をゆっくり押し返した。 「……は、ずかしい」 「なんで?」 「なんで、って」 「これからもっと、はずかしいことしますよ?」  あ、と、彼が小さく呻く。こんな安っぽい煽り文句だけで甘く達する、経理部の鬼はこと色恋に関してはひどく未熟な人だ。身体もどこか成長しきらない青さがあって、自分がとんでもない犯罪を犯しているんじゃないかって気分にもなる。細い腕や脚も、骨ばった腰も、そしてこの、指で押し広げても硬くすぼんだままの場所も、青い。 「ひ、わ、やめ」  彼がか細く悲鳴を上げながら抗うのに構わず、鼻先を滑り込ませ、ちゅ、音を立ててキスをする。 「バカ、なんで、そんなとこ」 「ん、だって」  ちゅ、もう一度キスをして、我慢できずにべろりと舐める。 「ここにも、ほくろ」 「え?」  痩せぎすな身体のなか、小ぶりながら弾けるように豊かな尻。その谷間をゆっくり広げれば、硬くすぼんだ中心の脇に、ぎょっとするくらい黒いほくろがある。まるで灯台の明かりのように、ここだ、と示すしるし。それとも「召し上がれ」のサインだろうか。 「知らなかった?」 「……知るわけない、だろ。こんなこと、誰とも」  頭上から降る声が、擦れて消える。声が赤らむということがあるなら、こんなふうになるのだろうと思う。 「じゃあ、二人だけの秘密だ」  俺は再びうっとりと、そのしるしにキスをした。

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