43 / 45
もう一度
「神尾さん、どうしたんですかそれ」
「あー、引っかかれてさ」
「ペットなんて飼ってましたっけ」
「最近飼い始めたんだ、子猫」
背後から聞こえてくる会話に、思わずキーボードを打つ手が止まる。二列後方の別部署の島で話しているのは、同期の女性と二期上の先輩だ。
「いいなあ、可愛いでしょ」
「うん、可愛い」
やに下がった声、というのはこういうことを言うのだと思う。知らず眉根が寄ってしまうのがわかり、ざわつく胸を宥めながら席を立った。
先月とうとう禁煙を破り、喫煙者に逆戻りした。無人の喫煙ブースのかすかな残り香はしかしあまり気分の良いものではなく、一日数度のこの行為が離席の言い訳でしかない事実を頭から払いながら、メンソールの電子煙草なんて軽いのをしばらく吹かす。最後に大きなため息と一緒に有害物質を吐き出すと、郁海(いくみ)は喫煙ブースを出た。
それでもまだどこか苛ついた気分を持て余し、コーヒーでも淹れてから戻ろうと休憩室へ寄る。ふっと鼻先を香るコーヒーのにおいには気づいていた。ドリンクサーバーの前でコーヒーを注ぐ男の正体を知っていれば、このタイミングでここには来なかったのに。自分の選択を呪いながらも、踵を返すのはつまらない自尊心が許さず、彼の横に立って紙コップをホルダーにセットする。
静かに降りる沈黙が、重くのしかかる。
ちらりと横目で見た神尾の男前の頬には、なるほど、ひどく不似合いな絆創膏が貼られていた。
「――子猫ですって?」
堪らず漏れ出た自分の声は、ずいぶん不機嫌なトーンだった。
「ああ」
押し殺した彼の声にもまた、さっきまでの朗らかさはない。それも仕方のないことだった。
「また、ずいぶん躾の悪い猫ですね」
「どういう意味だよ」
「べつに。そのままの意味。あの時の子?」
つまらない言い訳だ、と思うだけ。
二人が付き合っている時、見える場所へはキスマークを残さないのが暗黙のルールだった。別に特別なことではないだろう。その程度の配慮をしないことで、会社でこんなふうに頬に絆創膏なんか貼って、下手な詮索を受けて、挙句馬鹿馬鹿しい言い訳をしなければいけないはめになるのだから。
さらさらと砂糖を一本、それからミルクも一つ入れて、マドラーで混ぜる。砂糖を半分に控えるのを、いつからかは知らないがやめたらしい。そうして彼も、ちらりと横目でこちらを睨むのだった。
「そういうお前は。なんだよそのネクタイ――似合わない」
「……ああ、これ」
先週だったろうか、行きずりの男が忘れていったネクタイだ。既に顔も身体も曖昧な彼が、今頃は郁海のネクタイを身に着けているのかもしれない。
「いいでしょ、俺が誰と付き合おうと」
「そうだな」
売り言葉に買い言葉で、どんどんお互いの声が、顔が、不機嫌になっていくのがわかる。別れる直前は、毎日こんな調子だったっけ。
くすり、と、小さな失笑が郁海の肩あたりで弾ける。戸惑って見上げると、目の端にほろ苦く笑う彼の唇が映った。
「先月、姉貴んとこに生まれたのを引き取ったんだ」
「え?」
「里親探す間だけって約束だったんだけど、あっさり情が移って、そのままうちの子になった。やんちゃで可愛いんだよ」
ほら、といって彼が向けた左手の甲にも、細かな爪跡がいくつもある。
「嘘でしょ。猫なんて……嫌いだったくせに」
郁海が飼いたいとねだった時、けんもほろろに却下したのは神尾だ。
「寂しかったんだよ――お前が出て行って」
「…………なに言って」
ただ呆然と呟くしかできなかった。
「戻って来てくれ」
「……出て行けって、言ったくせに」
「冷静じゃなかった」
「浮気する男は嫌いです」
「俺もだよ」
お互い、貞操観念の固いタイプの人間じゃなかったから。似た者どうしで享楽的に付き合っているはずだった。案外に独占欲が強かったのだと知った時には、二人の関係はほとんど壊れてしまっていた。お互いに当てつけのように別の相手と寝て、最後、怒鳴りあうように貶しあった。
ムー、ムー、スマホのバイブ音に、はっと胸ポケットに手をやる。自分の着信ではない。すぐ横で震える機体を手にした彼が、伏せていた目を上げて、気弱げに言った。
「こんなとこでごめん。すぐにとは言わないから、考えてくれ」
そうして郁海から離れ、スピーカーに耳を当てようとするから。
「そういうとこ、ダメだよね」
スーツの裾を掴み、彼からスマホを奪って、テーブルの向こうへ滑らせる。
「郁海」
「今すぐ、だよ」
彼に良く似合う臙脂色のネクタイを引っ張る。
驚いたように、そして苦しそうに顔を歪める彼に、言い放つ。
「今すぐ。俺に泣いて縋って、抱きしめてよ――お前じゃなきゃだめだって、キスしてよ」
熱に浮かされているようだ。顔が、身体が、息が熱い。ゆらりと視界が濡れて歪んだ瞬間、きつく抱かれ、よく知った香水のかおりに脳髄が痺れた。
「――郁海、戻って来て」
ともだちにシェアしよう!