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誤解

「あのさ」  煙草を吸わない自分が、三階の喫煙ブース前の自販機までわざわざ降りる理由なんて、普段はない。彼の跡をつけて、飲みたくもないコーヒーを買った。妙に水っぽいだけの、ブラック無糖。ほんの一、二分吹かして喫煙ブースから出てきた彼を見上げれば、今日一日中ずっと心構えをしていたというのにまだしつこく緊張が込み上げて、引き留める声は情けないくらい上ずっていた。 「今夜、時間あるかな」  肩あたりから香るような、軽い煙草のにおい。俺を見下ろす彼の目にいくぶん気まずそうな色が浮かんでいるように見えたのは、ただの被害妄想だったかもしれない。ぱちぱちと大きく瞬きをした彼は、次の瞬間には、よく見慣れた屈託のない笑みを作った。  ホワイトボードに「NR」と書いて出て行った彼に遅れること二時間、取引先から出たとメッセージを受けて、俺も退社する。待ち合わせは、三駅先の駅前の居酒屋だ。 「すいません、電車一本逃しちゃって」 「うん。その、わざわざごめん。てか、来てくれると思わなくて」  十五分ほど後にやって来た彼は、俺の正面に座りながら、意外そうな顔をした。 「なんで。先輩から誘ってくれたのに」 「誘った……っていうか」  これから話すことを考えて、喫茶店やファミレスではなく、チェーンの居酒屋を指定した。金曜の夜、店内はそろそろ混雑のピークに達する様相で、少し声を張らなければ対面の相手ともまともに会話できない喧騒だ。 「……とりあえず、好きなの頼んで」 「じゃ、遠慮なく。先輩もビールでいいですか?」 「や、俺はウーロン茶で」 「珍しいですね」  と言いながらもあっさり頷いた後輩は、生ビールとウーロン茶、それから出汁巻き卵、チキン南蛮、串焼き盛り合わせ、少し迷ってギョーザを注文する。間違ってもサラダなんて頼まない、食べ盛りの高校生がそのまま大人になってしまったようなはつらつさが好もしく、眩しい。  ウーロン茶とビールのジョッキを軽く合わせ、周りに満ちる陽気な空気に押し潰されそうになりながら、俺は重い口を開いた。 「あの、さ。昨日のことだけど」 「先輩、それなんですけど」 「……誰にも言わないでほしい」  頭を垂れて、結露に濡れた自分の手を握る。  これを切り出すために、切り出すだけのことで、一日中胃が痛むような気持ちでいた。 「言いませんよ」  語尾に被るほどの即答はしかし、ひどく怒ったような語調で、驚いて顔を上げる。 「てか、何言ってんですか。わざわざ呼び出した理由って、それですか。俺のことどういうふうに思ってるんですか」  憮然とした後輩の表情に、やはり少しの驚きとか、猜疑とか、安堵とか、嬉しさとか、プラスとマイナスの感情が混じり合って込み上げる。 「それは、その、いいやつだって知ってるし、思ってるけど……こういうことに関しては、さ、手のひら返されるっていうか……いや、被害者面するつもりはないんだけど、お前も見た通りだから。やっぱ難しいよ、実際」  それでも試すような言い方をすれば、 「俺、言いません」  やはりきっぱりとした返事があり、俺は瞬きに紛れるように、ぎゅっと目を瞑った。 「そっか」 「言わないし、先輩の見方変わったりとかも、ないです」 「そっか……ありがと」  張りつめていた気持ちがやっと緩んで、同時に、身体の力が抜ける。壁側のソファでなければ、そのまま後ろへひっくり返っていたかもしれない。 「お前に拒絶されたら……たぶん、しばらく、落ち込んだ」  一晩中、最悪の想像をしていた。今朝出社したら、フロアじゅうの好奇の視線を浴びて、その中の何割かはきっと嫌悪感や敵意も含まれているのだろうと。これからずっと肩身の狭い思いをするかもしれないとか、いっそ転職するのもいいかもしれないとか、あれこれ考えて眠れなかった。 「ていうか、俺こそ、取り込み中のところお邪魔しちゃって」 「あれは俺が悪い。あと、取り込み中とか言うな、頼むから」 「あ、すいません」  この店と最寄駅を同じくする、つまりは、このあたりで一番大きな歓楽街での出来事だった。日頃から飲みに行くとなれば大抵この町で、何十件、いやもしかしたらもっと、様々な店のひしめく町では知り合いとばったり出会う経験などほとんどなかったから。油断していたのだと思う。 「お前は?どこで飲んでたの?」  彼の口から出たのは、聞き覚えのない横文字だった。 「ほんと、タイミング最悪だったな」 「すいません」 「……お前じゃなくて、俺」  昨夜、俺は、そして彼も、ここからもう五分ほど歩いたビルの中で飲んでいた。昨夜の相手のことはそれほど知らない。名前と、年齢と、勤め先は聞いたな。あとは、バリタチだってことくらい。久しぶりの深酒と、久しぶりの予感とで、途中からの記憶は途切れ途切れだ。何度めかにトイレに立って、そこはビル内の店舗の共同トイレだったから、一旦店を出て通路の奥へ入って、後ろから逞しい腕と熱い息遣いに包まれるようにして個室にもつれ込んだ。  お互い気が急いていたのだろう。鍵を閉め忘れていたことに気付いたのは、だから突然ドアが開いた時だった。  彼が見たのは、抱き合う二人の男だった。  言い訳のできる段階はとうに過ぎていた。俺も相手もズボンを膝まで下ろして、欲望を剥き出しにしていたのだから。 「その、彼氏さん?は、怒ってませんでした?」 「へーき」 「付き合い長いんですか?」 「いや。てか、そんな話、聞きたい?」 「……聞きたいわけないじゃないですか」 「だよな。気ぃ遣わないで、ほんと」  普通の恋バナのように盛り上がるべくもないのだ。親しい後輩が、態度を変えずに接してくれようとしているだけで、じゅうぶんに幸運だと思わなければいけない。 「てか、彼氏ってほどじゃない。たぶんもう、連絡取らないし……なんて、ごめん、忘れて」  苦笑する俺を、なぜか彼が拗ねた顔で睨んでくる。 「ねえ先輩」 「なに、ごめんって、ほら串焼き来た――俺もちょっと飲もうかな。すいません、生一つ」  皿を運んできた店員にビールを注文しながら、後輩を見る。 「てことは、今、フリーなんですか?」 「まあ、そうだけど」 「年下、どう思います?」 「どうって……付き合ったことはない。って、何言わせるんだよ」 「……先輩、ほんと鈍いな」  やはり唇を尖らせながら、ため息をついて、抜き出した煙草をトントンとテーブルで叩く。 「俺とかどうですか、って、言ってるんですけど」 「なに」 「もっと言わなきゃだめですか」 「なにいって……お前、ストレートだろ」 「そういうの、なんで気にするんですかね」 「……いや、ふつうするでしょ」  すらりと長い煙草に火を付け、あさっての方向に煙を吐き出した彼が、うっそりと笑う。それは、いつもの、育ち盛りの少年がそのまま大きくなったような健やかな笑顔ではなくて。 「好きだって気づいたのが失恋の瞬間だなんて笑えるなって思ってたけど。先輩が人のもんじゃないなら、これもアリですよね?」 「……気の迷い、だろ?」 「だとしたら、問題ですか?」  居酒屋の喧騒の中、彼の低く潜めた笑い声が、酔ってもいない頭に響く。 「いいじゃん。試してみません?」 「…………お前がそんなやつだって、知らなかった」  高鳴り始めた心臓を押さえ、今度は俺が、彼を睨む番だった。

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