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ベランダの布団

 遮光カーテン越しにも明るい朝だった。一度はうっすら目覚めたが、ああ今日は休みなのだと思い出した途端に、うとうとと二度寝に落ちた。いつもより遅く起き出して、ぼんやりと別段予定のない一日について思いを巡らせるのもささやかな幸福というやつだ。  土日休みの典型的な週休二日の会社員になってからもう長く、そのこと自体には大した不満も感慨もないが、たまに取る有給休暇のありがたみだけは毎回しみじみと感じる。土曜は激混みの市役所や病院の待ち時間は短いし、近所の郵便局が開いているし、美容院の予約もあっさり取れるし――そうだ、こんな天気の良い日に布団を干せる。  万年床の布団を最後に干したのはいつだったろう。久しぶりに敷布団、掛布団、マットレスと一式ずらりとベランダの手すりに並べた。そこからぼんやり眺めた生垣の木の若葉が知らぬ間に真っ赤に色づいていて、ちょうど花をつけたようにも見える。春になると紅葉する、なんの変哲もないこの生垣がけっこう気に入っている。しばらく前まで伸び放題だった枝が、そう言えばきれいに刈り込まれていおり、そんなことにさえ少し良い気分になってふらりと外出を決めた。  散歩がてら公園を通って、遠回りして図書館へ。一時間ほどのんびり本を選んで、帰りにスーパーで適当に買い物をして、建物を出た。  自動ドアをくぐった先は、ニュートラルなグレーの景色だった。暗い空、鼻をつく濡れたコンクリートのにおいと、音もなく降る細い雨。  放心から返る。次の瞬間、優(まさる)は走り出していた。  マンションが見える頃には、ずいぶん雨が強くなっていた。生垣の向こう、一階のベランダを見て完全に脚が止まる。諦めが焦りを凌駕したわけではない。雨を吸った布団が虚しく垂れているはずの自宅ベランダの前に、外からその布団を取り込もうとしている男がいるのだ。  スーツ姿の見知らぬ男だ。ワイシャツの肩が、セットした髪が、精悍な頬が、雨粒を受けるのに構わず手際よく布団を重ねて抱える。本当に取り込むつもり? いやいや、ありがたいけど、どこに? 「あの」  混乱のまま口を開く。 「それ、俺の布団ですけど」  間の抜けたことを言ったと思う。  優の布団を抱えたまま、男は肩越しに生真面目な顔で振り返った。 「知ってます」  小走りにエントランスの屋根の下へ入る。迷いのない足取りで部屋の前へ立った男は、ドアを顎先でしゃくった。 「鍵開けちゃってください」 「あ、はい」  もたもたと鍵を探してドアを開けると、ぬっと布団が差し出される。 「どうぞ」  抱き留めた布団はまだほんのり温かく、恐れていたほど濡れていなかったことに優は心から安堵した。これも、目の前の男のおかげと言えなくもないだろう。 「……あの、ありがとうございます、ご親切に」 「いえいえ。これもお隣のよしみということで。じゃあ」  軽く片手を挙げた男は隣のドアを開け――パタン、その向こうへ消えた。  優がまずしたことは、自分も部屋の中へ入り、布団一式を床へ置くことだ。そして肘からぶら下げた買い物袋を置き、背中のバッグも下ろし、じゅうぶんに今しがたの出来事を反芻してから、部屋を飛び出した。  103号室のチャイムを鳴らすとすぐに、中から男が出てくる。  肩からタオルをかけた彼は見知らぬサラリーマンふうの男ではなく、かれこれ二年は隣に住む、文字通りの隣人だった。 「どうかしました?」  落ち着きはらった声に、今なら聞き覚えがあると思える。 「あ、あの、俺全然気づいてなくて、あの、誰だろうなって思ってて、あの、失礼な態度で」  しどろもどろに弁解すればするほど、自分の間抜けさを白状することになる。 「わは、まじですか」 「ほんと、すみません」 「いいですけど」  愉快そうな苦笑を向けられ、優は頬が熱くなるのを感じた。  103号室の彼とは、廊下で会えば挨拶する程度の、ごくごく普通の近所付き合いをしていた。  廊下ですれ違う彼は、いつもTシャツにジーンズとか、パーカーにカーゴパンツとか、ラフな服装をしていた。今はいくぶんほつれいているが、髪もこんなふうにまとめてはおらず無造作に下ろしていて、職業はおろか年齢も不詳といった様相だった。 「いつもと感じが違うから……なんて、言い訳ですけど」 「あ、これですか。昨日から出張で、慣れないスーツなんて着てました」  ずっと下だと思っていたが、こうやって見ると同い年くらいかも。 「俺は雨に降られないで帰って来れたんですけど、家に着いてすぐくらいに降り出して。留守だと思わなくてチャイム鳴らしたんですけど、出ないから、ついつい。今日、降水確率けっこう高かったでしょ」 「……天気予報、見てなくて」 「はは、でしょうね」  少し揶揄を含んだような失笑に、また、頬が熱くなる。 「でも」 「はい」 「や。感じが違うのは、お互いさまですよ。いつもはスーツ姿しか見ないから、新鮮です」 「そう、かな」 「ずっと年上かと思ってました。私服、かわいいんですね」 「……そんなこと」  単身者専用のこのマンションに住んで、三年になる。  入居者は全員男で、よくネットなんかで見る彼女を連れ込んで密かに同棲みたいなのも聞いたことがないから、おそらくほとんどが独身だろうけど、ここまで条件が揃っていても出会いなんてなかった。もちろん、二年前に彼が隣に越して来た時だって、格好いいなと思ったことは認めるけれど、彼のドラマに自分の役割はないだろうと、いつもどおりストレートの男ばかりの世間を再確認するだけだった。  一瞬の物思いから返り、 「あ、そうだ、あの、ちょっと待ってください」  彼に断って部屋に戻る。  買い物袋の中を急いで漁り、一番ふさわしいものを探し、よろめきながら再び103号室へ。 「これ、お礼にもならないですけど。スーパーで百円くらいで売ってるやつで、すみません。でもこれ、けっこうおいしいんですよ。生クリームとカスタードクリームが半分ずつ入ってて。エクレアとか、たまに食べたくなりません?」  一息に言って差し出したが、スーパーのエクレアを、彼はすぐには受け取ろうとしなかった。いや、自分でもあんまりだとは思うが、これくらいしか渡せるものがないのだ。それでも、非礼を詫びたいし、礼をしたいし、できればもう少し話したい。なんて、何考えてるんだろう。 「……甘いもの、嫌いでしたか?」  おずおずと引っ込めたエクレアを、引き留めるように彼が掴む。 「いや。えーと、よかったら、一緒に食べません?」  驚いて顔を上げる。 「お隣のよしみということで」  目の前の笑顔がやけに眩しくて、知らず、まばたきを繰り返した。

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