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プロローグ

「伏せろっ!」 低い声が響いて、手を下に引かれた。そのままコンクリートに組み伏せられ、上からがっしりとした男の身体が覆いかぶさってくる。 ‘バン’ 耳をつんざくような銃声が響いて、 それと同時にべったりと生温かい血の感触と、鉄の匂いが広がった。 ここは国が所有する大規模研究施設、‘シリウス’の地下。どこかの国では大学という施設があるらしいが、この国でのシリウスの位置付けは、それの最高峰に当たる。 その地下で、誰かがエレンの命を奪おうとしたようだった。 「ヨル!大丈夫!?」 エレンに痛みはない。ということはこの血は、自分を守るように覆いかぶさっている彼のものだ。半ば絶望するような気持ちで叫ぶと、 「それより助けを呼ぶのが先だ!」 という怒声が飛んできた。 たしかにこの状況で二人きりは危険だ。すぐに冷静さを取り戻し、緊急時用のボタンを押す。 ボタンを押せば警報が鳴り、エレンについているGPSを頼りに近くの警護人が駆けつけるようになっているのだ。 警報は耳を塞ぎたくなるほどの轟音だった。 警報に混じってわずかに聞こえる足音から、助けが来ることを悟った犯人が逃げて行ったことを把握する。 それでも、ヨルは大事を取ったのか、エレンの安全が確保されるまでエレンから離れようとしない。 「離して!!」 血の感触が及ぶ範囲はどんどん広域化していき、彼の傷が一刻を争うものだと物語っている。 「だめだ。なによりもお前の命が優先だ。」 一見普通に話しているように聞こえても、ヨルの声はくぐもって震えている。どんなに無茶をしても痛くもかゆくもないそぶりを見せる彼が、ここまで余裕のない声を出すのは、普段ではあり得ないことだった。 「お願いだから!!」 「だめだ。」 大切な人を護りたい、と。思う気持ちは同じなのに、どうしてこうも矛盾してしまうのだろう。 振り払おうとしてもヨルの力に抗えるわけはなく、傷の悪化を危惧してエレンは抵抗をやめた。 「エレン様!ご無事ですか!?」 「ああ、僕は大丈夫。それより… 」 やっとエレンの拘束が解かれたのは5分ほど経った後で、すぐさまヨルの傷を確認すると、傷は浅いが大腿部の大きな血管をかすっており、血が洪水のようにあふれていた。 顔では平静を装っているが、その実痛くてたまらないだろう。 「止血と輸血が必要だ。Ω性のO型は後で血液を提供してくれ。とりあえず僕が指で止血をするから、終わったらすぐ上の手術室に運… 」 しかし、止血しようとした指を優しく退けられ、エレンは驚いてヨルを見た。ふしばった男らしい手は、紛れもなく彼のものだ。幾度となく触れたからわかる。 「だめだ。それは罪になる。」 凛と響いたヨルの声は、固い意志を帯びていた。 「何を言ってる?だってヨルは僕を護って… 」 「いけません、エレン様。あなたはいつか国を背負う立場。Ωに医療行為を施すなど、あってはならないことです。」 今度は別の声が聞こえてきた。 「どうして!あり得ない!命をかけて僕を護った人間を、見殺しにしろって!?そんなことできるわけがないだろう!」 「エレン様、Ωは私たちとは違います。それに、貴方の立場をお忘れですか?」 ひどく冷酷な声だった。そこで初めてエレンは、必死に目を背けようとしていたこの国の制度について、理解したのだった。 この世界には、男性、女性のという2つの性の他に、α、β、Ωという第2性が存在する。 αは優位の性であり、数が少ない。容姿端麗、頭脳明晰な者が多く、そして生殖能力が強い。女性でもαならば生殖が可能となる。 人口の多くを占めるβは、いわゆる“平凡”な性だ。αより能力は劣り、男性は子種を持ち、女性は子を孕む。 Ω性は男女ともに子を孕む能力を持ち、また男性は子種も併せ持つ。彼らは3ヶ月に一度、αを異常に性的に刺激するフェロモンを体内から分泌し、この時期を発情期(ヒート)とよび、ヒート中のΩが近くにいるとαは彼らに種付けをしたくてたまらなくなる。 ヒート中のΩは、αという優位性をただのセックスしか能のない雄犬のような存在にしてしまう害悪だとされている。さらには、ヒート中のΩは普通、まともに働くことができない。 そのせいで、いつしかこの国では、Ωへの医療行為が禁じられた。 そんな劣位性なら保護するなと、国が政策を打ち出したのだ。 始めは医療保険制度が適用されなかったり、義務教育をなくしたのだという。しかしそれが引き金となり、次第に差別が激化。今ではΩに医療行為を施すことが犯罪となっている。 病気にならなければいいだとか、αを誘惑して勝手に増える節操のないところが悪いのだとか、エレンたちαはそんなふうに教育されてきた。それが当たり前だった。 けれど本当は、自分たちが平和に暮らしている国が、多くの犠牲のもと成り立っていることを、理解したくなかったのかもしれない。 自分たちの理解していた当たり前はひどく残酷なもので。自分たちは当然のように実行された理不尽な政策に目を瞑り、日々をのうのうと暮らしていたのだと、エレンは知った。

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