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第1話 逃げた蛙
暦の上では秋だというのに、残暑という奴はなかなかしつこい。
静かな休日の陽が暮れていく頃になっても、傾いた太陽の日差しは眩しくて、肌に熱い。
早瀬陸は、土手の上を走る遊歩道を、家に向かってぶらぶらと歩いていた。散歩と買い物のどちらが「ついで」かわからないが、片手には、最寄りの店で買った夕飯用のビールと惣菜をぶら下げている。
時々、川からの風が吹いて涼しい。
さわさわと風が河岸の草をゆすり、蝉と交代したばかりの秋の虫の音が聞こえてくるのも気持ちがいい。遠くで、カエルの鳴く声も聞こえる。少し遠回りになるが、こっちの道を選んで良かったなと思っていると、何かが視界の端に引っかかった。
遊歩道を天辺にして土手はなだらかに下り、河岸へと続いている。
その河岸に、さっきから不規則に何かが出たり入ったりしているようだ。不思議に思った早瀬は、足を止めた。
視力には自信があるが、上からでは色と形くらいしかわからない。
道から外れてよく目を凝らすと、出入りする茶色い塊はどうやら人であるらしい。
早瀬は、少しだけ土手を下ってみた。
……あれ?あの人……。
声をかけようかと迷っていると、突然その茶色がにょきっと立ち上がった。
思った通り、それは同じ社に勤める先輩の梶原忍だった。
頬と鼻の頭に泥をつけて、眼の高さに掲げた両手の中をじっと見つめている。
その手の中に何があるのかはわからないが、梶原は真剣にそれを見つめていた。
「梶原さーん、何してるんですかー?」
早瀬の声を聞き終らないうちに、驚いた梶原がびくんと体を揺らした。
何だろうと思う間もなく、梶原は組んでいた両手をほどいてまたしゃがんでしまった。
「梶原さーん?」
何かを探しているのだろうか。もう一度声をかけると、今度は勢いよく立ち上がり、早瀬を見上げた。
小さく口元が動いて、何か言ったらしいことはわかったが、聞こえない。早瀬が、さらに坂を下ろうとしたら、梶原が手で制した。
追い払われるのかと思ったら、梶原はどんどん土手の坂を上ってきた。
「君、少し声が大きいよ。蛙が逃げちゃったよ」
梶原は、呆れ気味に早瀬をたしなめた。
その姿は、会社で見かけたスーツ姿とは似ても似つかない。泥さえついてなければ、魚屋のようだ。
長靴と一体化したエプロンのような、長いオーバーオールに迷彩柄の長袖Tシャツ。首にはタオルを巻いて、泥だらけの軍手には、スコップや小さな熊手をいれたバケツを下げていた。
「カエル?ですか?」
「そう。まあいいや。そろそろ潮時だ。それじゃ」
「あ、あの、待ってください。あ……何で、カエルを?」
「何でもいいだろう。他人の趣味についてとやかく言うのは、感心しないよ」
「あ、じゃなくて、何か珍しいカエルがいる、とか?」
「そんなんじゃない。ただの蛙、アマガエルだよ。ああ……、明日は雨だよ」
今度こそ「それじゃあ」と、梶原忍は強い意志で早瀬の質問を終了させて、歩き始めた。
早瀬も、仕方なく遊歩道に戻った。
梶原はどちらに向かったのかと左右を見ると、進行方向は早瀬と同じだ。西日に向かって歩く梶原は、逆光の中で細長いシルエットになっている。
早瀬は、その後をつけるような形で、帰りの道筋を戻ることになった。
☆
総務部給与担当の梶原忍は、社内ではちょっとした有名人だ。
彼本人は、仕事中ほとんど自分の席を離れない。その代わりとでも言うように、各部署に配置されている女性契約社員のネットワークが、地下水脈のように彼に関する噂を広めている。
仕事には厳しい。社内規則については、何でも知っている。社内のシステムについても、詳しい。
どんな質問をしても、返事がかえってくる。口が堅くて、書類のミスは見逃さない。もちろん、交通費をごまかそうとしても、すぐに見つかる。いつも落ち着いているけれど、上にも下にも言うべきことはちゃんと言う。遅刻はしないが、残業もしない。
会社員として、ずいぶん立派に聞こえるけれど、彼女たちにとって大事なことは、もっと別のことだ。
背が高くて、やや童顔ながらなかなかのハンサム。お洒落ではないが清潔で、定期的にスイーツを差し入れしてくれる。いつもと違う服装をしていれば、さらりと褒めてくれる。
皆に平等に優しくて、同じだけ素っ気ない。
そして、彼は女性に興味がない。
興味がないという言い方が、どこまでの範囲をさしているのかは定かではないが、女性との交際経験はないということだけは、確からしい。
女性社員たちは、互いに牽制し合う必要もなく、部署の花をめでることができるというわけである。
入社三年目の営業担当である早瀬は、社内食堂での雑談中にそれを聞いて、意外に感じたことを覚えている。
その時まで、早瀬は彼に対して、それほど強い印象は持っていなかったからだ。
彼の姿を見たのは、新入社員研修の際に社内規則や各種申請の概要を説明しに来た、一度きりだったと思う。
正直に言えば、真面目で厳しそうな雰囲気と、分厚い社内規則一覧(及び記入例一覧)にうんざりしたことしか覚えていない。
早瀬にしてみれば、印象が薄かった理由がもう一つある。
見た目のインパクトが薄かったのだ。
はっきり言えば、梶原は早瀬の好み100%の姿形ではなかったということだ。
早瀬の恋愛の対象は、同性だ。
大学まで、同世代の男ばかりを見てきた早瀬は、社会に出て様々な年齢の大人の男たちを目にして少し浮足立っていた。
社内で恋愛をしようなどとは思っていなかったけれど、好みの人がいれば毎日楽しいではないか。
スーツを着慣れた姿が、誰をも少しだけ余分に魅力的に見せていたのだろう。
翻ってその日の梶原の様子はと言えば、眼鏡でやせてて、背が高い。聞き取りやすい声だが、残念ながら早瀬は声フェチではなかった。
それよりも、スーツが大きすぎるのか痩せすぎているのかシルエットがだぶついていることと、眼鏡のせいで表情がよく見えないことが、残念だった。
……眼鏡、外さないかなぁ。スーツの上着、脱がないかなぁ。そうしたら、もう少しわかるのに。
研修中だというのに、そんな事ばかり考えていた。
結局、その時には何の判断もできないまま終わってしまった。
なのに、今になって「梶原忍は女性に興味がない」なんていう重要情報が流れてくるなんて。
フェイクとは、考えにくい。
会社員が、同性愛者かもしれない事をにおわせるのは、今の日本ではリスクしかないと言っていい。
それでも、そんな情報が確信めいた噂として流れてくるということは、彼も自分と同じゲイなのではないだろうか。
……あの人、本当はどんな人なんだろう。
早瀬は、いつか梶原忍に会ってみたいと思った。会って、何が言えるわけでも、言いたいわけでもないけれど。
☆
……って思ってたのに、カエルねぇ。
あれから15分ほど、早瀬は先を歩く彼の背中を見ながら歩き続けていた。
「お堅い給与担当者は、スーツを脱げばカエルを追いかける少年のような人でした」
これだけで終わってしまえば、まるで陳腐な少女漫画だ。
でも、見つめていた男と見られていた男が、どちらもゲイだとしたら?
話は、少し違う様相を呈することにならないだろうか。
このまま真っ直ぐ歩いて脇道を越えれば社宅の入り口だというところで、梶原は、その脇道を曲がった。
その先は、行き止まりのはずではなかったか?
早瀬は、梶原が曲がった角の先を見ようと数歩走った。
すると彼は、脇道をまっすぐ歩き、行き止まりの寸前で左手の生垣をくぐって行ってしまった。
早瀬は、後を追うように、脇道を奥まで進んでみた。
梶原がくぐった辺りには、生垣の切れ間に立派な門があった。表札には、彼の苗字が書いてあった。
若手社員用の社宅の並びに、大きな家がある。
社宅とひとつながりの土地なので、きっと地主の家だろうと同僚と話した記憶がある。
「梶原さん……ここに住んでんの?」
早瀬は、大きく深呼吸をして一歩門に近づいた。
すると、足に何かがぴたっと張り付いてデニムを濡らした。
ビールを入れた、ビニール袋だ。
買ってから時間が経ってしまったので、ビールはすっかりぬるくなってしまった。
……今日はここまでってことかな
親しくもないのに、こんな所までついて来てしまった。
早瀬は、自分のした事が急に恥ずかしくなったのも手伝って、自宅へ帰ることにしたのだった。
☆
その頃、梶原は自宅の脇にある水道で、長靴やバケツについた泥を洗い流していた。
……もう少し、あの子を見ていたかったんだけどな
真夏を過ぎて、秋ももうそこまで来ている。
冬眠をする生き物たちは、その準備に忙しくなる。夏の軽快な姿で声を聴かせてくれるのもあとわずかなので、できればもう少し、あのアマガエルと遊びたかった。
すっかり泥を洗い流す頃には、完全に陽が落ちて夜になり始めている。梶原は、一式をずらっと軒先に干して、自宅に入った。
玄関を入ると、正面の階段をトントンとあがって、寝室に向かった。
しばらくすると、また軽快に階段を下りてきた。
これから、ごく普通に食事をして、ごく普通に風呂に入る。
ただ、梶原の入浴時間は、一般的な男性よりは長いかもしれない。やる事が沢山あるのだ。
頭のてっぺんから足の爪の先まで、丁寧に洗う。髭をそり、ムダ毛のケアをする。
湯船に長くつかって体をやわらかくしたら、ごくぬるいシャワーで肌を引き締める。
仕上げに、薄くボディクリームを塗って完了だ。
洗いあげたばかりの素肌に、さらりとバスローブを羽織って、台所にストックされているペットボトルの水を手に取る。
長風呂で、体の表面が潤った代わりに喉はカラカラだ。
スマホ片手に今日一日のニュースをチェックしながら、ゆっくりゆっくり水を飲んだ。
ここまで終わったら、一階の戸締りをきっちりして、二階にあがる。
そこでは、準備しておいたものが主人の帰りを待っていた。
ベッドの上に、きちんと畳まれていたのは、スタンドカラーのパジャマだ。スリーパーとも言うらしい、膝上まで着丈のある長いタイプだ。そして、少し幅広で真っ直ぐに床までつきそうなロングパンツ。どちらも、紺色の柔らかなコットン。
着ていたバスローブはハンガーにかけ、パジャマに袖を通した。下着は、つけない。
肌の上を、するんと布が滑る。手首、足首をすっぽりと隠すパジャマは、お気に入りの一つだ。
胸元のボタンを二つ、開けたままにしておけば襟元も涼しい。
ひとしきり布の感触を楽しんでから、部屋の灯を落とすと、隠れ家のようなベッドに潜り込んだ。
「今日は、妙なのに会っちゃったなぁ」
ごろごろと寝返りを打ちながら、河岸で出会った蛙を思い出そうとして若手社員を思い出してしまった。
「大きな声、出すから」
不満気に呟いてみたが、自分を見つめる顔を思い出したら、その不満も溶けて消えた。
離れ気味の細い目が、眠たげな蛙のように見えないこともない。それに、若くて元気がいい。
……彼でも、いいか。
梶原忍は、暗くなったベッドの上で目をつぶり、するりとボトムの中に手を入れた。
切れ長の目と短い黒髪と、唇近くの黒子を思い出しながら。
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