2 / 10

第2話 雨粒リフレイン

 翌日は、梶原の言う通り雨だった。  出勤前にネクタイを締めながら、早瀬陸は、窓に目を向けた。 少し風もあるのか、窓に打ち付ける雨粒は滴型ではなく、バラバラと細く糸を引いている。その不規則な水の流れを目で追っているうちに、懐かしい物理の問題を思い出した。 中学生の頃、少し背伸びをしてせっせと解いた問題だ。 「電車が、秒速10mの速さで水平方向に移動している。雨が鉛直下向きに等速で降っているとして、雨滴の落下速度を求めよ」 要するに、ある速度で走っている電車の窓についた雨粒の、落ちてきたスピードを計算しろという事だ。直角三角形の1:2:√3を使えば、簡単に計算できる。当時は、喜々として鉛筆を走らせたものだった。 思いがけず昔のことを思い出したけれど、悠長に古い記憶に浸っている場合ではない。 早瀬は、戸締りをして家を出た。 社宅は、本社まで30分ほどの距離にある。 最寄り駅まで徒歩10分、電車で10分、また徒歩で数分。10分はかからないが、5分では着かないという微妙な距離。 早瀬は、雨の中を駅まで歩いた。 少し傘を後ろに傾けて、時折り吹き付ける風から背中をかばうようにして、歩いた。 それにしても。 ……アマガエルの予報、当たりすぎじゃね? カエルに文句を言いたいような気もするが、普段と全く雰囲気の違う梶原と出会えたのは、ラッキーだった。 今朝の雨も、次に会った時の話題にできるかもしれない。 直接会って話をしてみれば、何かきっとわかるはずだ。 早瀬は、多少無理をしてでも、人でも物でも直接触れたほうがよくわかると信じている。 というよりも、自分にはそういう方法が向いていると、思っている。 目に見えない何かを追うよりも、実体をもつ何かを追うほうが楽しい。子どもの頃に、そう気づいたのだ。  早瀬が、子どもの頃に計算問題を沢山解いていたのには、ちょっとしたきっかけがあった。 小学校の低学年だったろうか。 とあるイベントで蒸気機関車を見て、その大きさとパワーと回る車輪に憧れた。 そこで、たまたま親切な解説員に蒸気機関の説明をしてもらった。手にしたパンフレットに、技術者のインタビューも載っていた。 小さな早瀬少年は、うっかり夢を抱いてしまった。 自分も、いつか蒸気で動く何かを作れるのではないか。 そのためには、どうすればいいのかと大人に聞いたら、数学と物理の勉強をするといいよと言われた。 それを鵜呑みにして、他の勉強はそっちのけで、算数と理科の物理分野に熱中した。 小学校を卒業する頃には、中学生の数学と初歩の物理の問題集を解いていた。 中学2年の一学期までは、学校の誰よりも計算をした。 ところが、沢山の問題に触れるうちに、おや?と不思議に思ってしまった。 物理の問題は、さも通常の社会の中で起こる事象について質問してるような顔をして、ありとあらゆる条件を追記することで、全てを架空の出来事にしてしまう。 電車の窓に流れる雨粒の問題にしても、そうだ。 風の強さや雨粒一粒の重さはまったく考慮されていないし、気温も無視している。窓ガラスの材質や状態だって、影響するかもしれない。 そういう事を、「~~~~は、ないものとする」の一文で、全てなかったことにしてしまう。いくら必死になって計算しても、そんな世界はどこにもない。 蒸気機関という現実の力に憧れた早瀬は、何か騙されたように感じてしまった。 実体を、掴みたかったのに。 ずっと、ずっと、架空の何かを追いかけていたなんて。 どれだけ問題を解いても、そこには現実の坂も車もボールもない。ならばそれは、0ということじゃないか。 実体の見えない数学と物理にがっかりして、早瀬はスポーツ、特にラグビーにに打ち込んだ。 大した成績は残せなかったが、熱中した。 自分が投げた紡錘型のラグビーボールが、狙った通りに味方の手に吸い込まれるようにキャッチされる瞬間が、たまらなく楽しかった。 それでも、高校では、大学受験に向けて進路を決めなくてはならない。 理系か文系かと聞かれれば、やっぱり理系だ。昔取った杵柄とはよく言ったもので、一度徹底して計算をやり込んでいるので、テストでの凡ミスが少なく成績は良かった。 二者面談で担任教師が教えてくれたのは、工学部という学部の存在だ。 そこでは、理論は具体的な物にならなければならない。 様々なアイデアを、どうやって使える道具にするか。できた発明品から、実用化するには何を工夫するのか。 「要するに、実感が欲しいってことだろう?現物につながるほうがいいなら、工学がいいだろう。工学にも、色々ある。電気、機械、航空、生物、化学、光、建築。分野は色々あるから、大学案内を沢山読んでみろ」 早瀬は、そうやって今の職に通じる道を得た。 プロ用の工具メーカーの営業だ。 物であれば何でも良かったが、職人の手が握る工具を扱う仕事が、性に合っているように感じたのかもしれない。 ……あの人の手に、スパナやレンチは似合わないかな。 早瀬の手は、毎日、高速でパソコンのキーボードを打っているはずだ。 その手が、昨日は小さなカエルをそっと包んでいた。 あの人にしっくりくるのは、キーボードや電卓ではなくて、カエルのような柔らかな生き物なのかもしれない。 雨に濡れての出勤は、あまり得意ではない。 いつもなら、面倒くさいとつまらなそうに歩く雨も、今朝は早瀬の頭をクリアにしてくれた。 そして、梶原忍の事をもう少し知りたくなった。 ☆ 早瀬が起きるよりも30分ほど早く、目覚ましが鳴った。 手探りで時計を止めて、逆の手で枕元の眼鏡を探る。 梶原忍は、シルバーに近い灰色の細いフレームの眼鏡をかけて、ゆっくりと目を開けた。 彼が一人で住む古い日本家屋は、柱や窓枠、外壁を残して、室内は全てリフォームしてある。 余計な襖を取り払い、畳を一部フローリングに変え、階段を広げて、水回りも広く新しくした。 二階には二間あったが、つなげて一部屋にした。 床をフローリングに変えた広い室内の中央には、梶原のベッドが鎮座していた。 木組みのベッドフレームは濃い栗色に光って、馴染んだ白いリネンが、サラサラと肌に気持ちいい。 そして、寝床全体は、天井から吊ったごく薄い布で覆われている。 プリーツのないタイプの薄いカーテン生地を天井にフックをつけてひっかけた、簡易の天蓋だ。 布の裾には、水の流れのようなラインがごく控えめに入っている。裾を持ち上げてベッドに入るたびに、波のように揺れて美しい。 起きたばかりで、半分眠ったままの頭を起こして、梶原はベッドから抜け出した。 カーテンを開けると、濃紺の夜が差し込む朝日によってかき消されるはずだった。 しかし、窓ガラスには叩きつける雨。 室内に溜まった夜は、ほの暗い朝と入れ変わるにとどまった。 「やっぱり雨か……」 それでも、窓を細く開けて室内の空気を入れ替える。びゅっと強く吹き込んでがたがたと窓を鳴らす風が、梶原のパジャマをヒラヒラとはためかせた。 「寒……」 昨日は暑かったのに、雨が降ると気温がぐっと下がる。梶原は、窓を閉めてベッドに戻った。 柔らかな布に名残を惜しみながら、ベッドの中で伸びたり縮んだりして、本格的に目を覚ます。 「しごと……めんどくさ……」 本音を言えば、着替えたくない。できたら、一日、気に入りのパジャマのままでいたい。 体のどこも締め付けない服を着ていたい。 柔らかい服を着たいからと言って、梶原は女性になりたいわけではない。女装がしたいわけでもない。 あくまでも男性として、限界ギリギリまでゆるやかな服装でいたいのだ。まるで、砂漠の国の王族のように。 しかし、そういうわけにもいかない。 梶原は、渋々ベッドから降りて、パジャマを脱いでバスローブを羽織った。 そして、今日着る服を一式持って、部屋を出た。 片手に、畳まれた下着、靴下、ハンカチ、ネクタイ。逆の手にはハンガーにかかったワイシャツ、スーツ。ベルトが長く垂れて、階段を引きずりながら降りてきた。 熱めのシャワーを浴びたら、平日用の顔になる。 仕事には、仕事に適した服を。 趣味には、趣味に適した服を。 そして夜は、自分好きな服を着て、自分の好きな場所で眠る。 そう。 梶原忍は、合理的で夢見がちで、一人を楽しむ術を知っている男だ。 鏡に向かってネクタイを締めたら、仕上げに眼鏡を取り換える。 仕事に行く時は、決まって黒縁でレンズが大きいものを使う。視界がクリアになる上、フレームが丈夫で落としても壊れにくい。 今朝の梶原忍は、昨日の男のことは、もう気にしていなかった。 忘れているわけではないけれど、そうそう会うこともあるまいと高を括っていた。 そして、素っ気なくあの場に置いてきた男が、自分に興味を持ったなんて思いもしなかったのだ。 [[newpage]]  二人の勤める会社は、決して大企業ではない。 初代が始めた小さな工具のメーカーが、少しずつ大きくなって、株式会社になった。 それほど高給でもないのに離職率が低いのは、食堂のおかげと専らの評判だ。 栄養士と調理士が常駐しているので、毎日違う食事を手作りし、ワンコインで提供していた。 早瀬たち営業も、外周りの日以外は、ほとんど食堂を利用している。 今日は、雨だ。 朝に比べて風は収まったとはいえ、こんな日はいつも以上に混む。 まとまった席を確保するのが難しくて、早瀬は同僚たちとバラバラにわかれて食べることにした。 肉メインのA定食を持って、やっと見つけた空席にトレイを置いた。 やっと食べられると、箸をとると同時に顔をあげると、少し離れた席に梶原忍がいた。もう、トレイを持って食器を下げにいくところのようだ。どうやら、天ぷらと蕎麦だったらしい。 細い体に比例するように、あまり食べないのかと思ったら、天ぷらまできれいに食べきっている。 食事は、ちゃんととる人。 また一つ、梶原のことを知ったような気がして、早瀬は気分が良かった。 食堂から出ていく梶原を目で追いながら、順調に定食を平らげていった。 食後、職場の席に戻ると、提出したはずの書類とメモが置いてあった。 どうやら、先月の出張中の交通費申請にミスがあったらしい。 メモの端には、梶原の印が押されていた。 早瀬は、これ幸いと内線電話をかけた。 ☆ 「お手間とらせて、すみません」 昼休み中のフロアは、人もまばらで静かだ。窓が小さく開いているらしく、外の雨の音が静かに聞こえていた。 書類を持ってきた早瀬は、梶原のデスクのすぐ脇に、空いている椅子を借りてちゃっかり座り込む。 「そんな大したことじゃないよ。ここの申請の仕方を、修正してほしいだけだよ」 梶原の説明は簡潔だった。 一日ごとに、どの交通機関でいくら使ったかと、出発地点と到着地点を明確にしておけばいいと思っていたが、クライアントが違う場合はクライアントごとに分けて申請するべきだった。 「こっちが支払う金額は、もちろん同じなんだけど。業務での出張は営業の勤務記録と連動してるから、分けてほしいんだって」 どうやら、営業管理の問題だったらしい。 「わかりました。給与のシステムの問題じゃなくて、うちの管理側の事情だったんですね。なんか、ほんとにすみません」 「一度でわかってくれれば何も問題ないよ。次、後輩が来たら教えてあげて」 こちらで預かるよと書類を引き受けて、梶原は早瀬との話を切り上げようとした。 「あの、梶原さん」 「何?」 もう用事はすんだはずだよと、梶原は、体ごと早瀬からパソコンに向きなおってしまう。早瀬は、そこをもう少し粘りたい。 「あー……、さっき、食堂で見かけたんです。意外としっかり食べるんですね。うちの食堂、おいしいですよね。何がお好きですか?」 「食堂?ああ、確かに。うちの食堂は、ちゃんと予算計上してるからね。特に好きも嫌いもないよ。用意されてるメニューの中から、ルーチンで選んでいくだけ」 「ルーチンで?」 「そう。そうしないと、偏るだろ?」 「肉、とか、魚とか、麺類とか……じゃなくて?」 「だから、好き嫌いはないんだ。全部同じ。不味いよりは旨いほうがいいけどね」 「あ、じゃ、あの、カエルは?」 「……それ、君と関係ある?」 「な……い、ですけど、あ、昨日、楽しそうだった、なって」 「……楽し、そう。そうか、そう見えた。そうだね。蛙やカナヘビ、ヤモリやイモリも好きだよ」 それにしたって、それが君に何の関係があるのかと、梶原が眼鏡越しに早瀬を睨むけれど、早瀬はにっこり笑って怯む様子もない。 「今度、一緒に昼飯食べません?食堂で」 「何で?」 「カエルの話、聞きたいです」 「興味ないくせに」 「……なくはないですよ?梶原さんの事が、知りたいんです。だから、梶原さんの好きなカエルの話が、聞いてみたいんです」 まっすぐに、あけすけなほどに正直に、早瀬は梶原の目を見つめる。 「僕と必要以上に一緒にいると、君も色々言われるよ?」 「構いませんよ?あ、もちろん、梶原さんが不愉快なら、無理をするつもりはないです」 「でも、そうしたら、僕と蛙の話はできないね」 「いいえ。それなら、梶原さんを外に誘います。天気の良い日に、土手で待ちあわせでもいい。あー、でも、それだと食事じゃなくてデートになっちゃうか……?」 梶原は、早瀬の上機嫌な顔を見ているうちに、なんだか面白くなってきてしまった。 自分を誘いにくるなんて。 あえて流した噂も、聞いて知っているだろうに。 「いいよ。じゃあ、しばらく色々誘ってみて。気が向いたら、話に乗るかもしれないしね」 「はい。あ、社内で会ったら声かけてもいいですか?」 「デートに誘おうかっていうのに、随分控えめなところからきたね。いいよ。でも、僕は基本的に素っ気ないから、勝手に落ち込んでもしらないよ?」 「俺、案外粘り強いですよ?」 精一杯悪そうに、早瀬はにやりと笑ってみせた。 梶原は、そろそろ行けとばかりに、手をひらひらと振って早瀬を追い出した。 今日の勝負は引き分けというところだろう。 早瀬が席に戻る途中、スマホにメールが着信した。 誰かと思って画面を見たら、梶原からだった。 タイトル「梶原です」 本文: 「一応、連絡先を教えておきます。君の連絡先入手経路については、聞かないでくれ」 その後に続けて、梶原の連絡先が書いてあった。 ……何回誘ったら、こたえてくれるかな。 静かに降り続く雨の音を聞きながら、「しのぶさん」と名前をつけて連絡先を保存した。

ともだちにシェアしよう!