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第3話 みにくい蛙の子
梶原忍は、起きている間、ほぼ100%眼鏡をかけている。
近視がひどくて、裸眼では鏡に鼻がくっつきそうになるくらい近づかなければ、自分の顔もはっきり見えない。
顔を洗ってすぐは、特にひどい。水浸しの顔は、輪郭をさらに曖昧にして、ヒトかどうかもさだかではない。
どちらかと言えば、丸顔で。
はっきりと童顔で。
丸くて少し目じりの下がったたれ目のすぐ脇に、ぽつんとある黒子が目立つ。
小さめの口元は、引き締めていないとだらしない。下唇が、ぽってりと厚いせいなのだろう。それも、気に入らない。
子どもっぽい顔とは反対に、首から下はやけに老成している。
高校に入る頃から、ぐんぐんと背が伸びた。180㎝近いひょろ長い体、長すぎる腕、骨ばった足、硬い筋肉。
なのに、首の上には丸い童顔だ。
30歳もいくつか過ぎて、すっかり大人になっているはずなのに、なんとも不格好だという印象を拭えないでいる。
だから、少しでも社会人らしくに見えるようにとうねる髪を整えて、大きめの眼鏡をかけて、服を選ぶ。
爬虫類が、体の色を周囲の色に合わせて変化させるように、場に馴染むように姿を変えていると言ってもいい。
そういうやり方を、「TPOに合わせる」というのだそうだ。
人間には、便利な言葉があるものだ。
そうやって、昼間は自分の外側に合わせて過ごすから、夜は好きな服を着る。
アンバランスでだらしない、子どもっぽい自分を自分に許すように、柔らかな布の感触を楽しむ。
仕事から帰って、いつもと同じように風呂上りに水を飲み始めた頃、梶原忍は、早瀬陸を思い出していた。
……一緒に食事をしましょう、か。
手慰みに、眺めていたスマホでメールアプリを呼びだしてみる。
宛先欄に、早瀬を選んでみる。
……伝えたいことなんて、何もないんだけどな。
そこに、狙ったかのようにメールが着信した。
:「今日は、ありがとうございました。また明日。おやすみなさい」
ごく簡単な一文は、負担にならないにも関わらず、小さなインパクトを残した。
梶原は、それから一時間ほどたってから、「おやすみ」とだけ、返信した。
☆
それからしばらく、早瀬は何度もチャレンジした。
社食にいますと連絡してみたり、総務部のフロアに行く用事を作ってみたり。出張先では、大きな川と河原の写真を撮ってメールで送ったりもした。
意に反して、梶原の反応は芳しくない。
それならば、朝の通勤時間は使えないかとも考えてみた。
しかし、一緒に通勤するなど学生のようだし、梶原は嫌がるだろうと思うと言い出せなかった。
……まいったなぁ。打つ手なしってとこか。
早瀬は、それほど急激に親密になりたいと思っていたわけではない。
ただ、話をする回数を少しずつ増やして、確実に距離を詰めたいと思っていた。
しかし、暖簾に腕押しの状態が続くにつれて、なんとか手が届くところまでたどり着きたいという気持ちが強くなっていた。
もしも、もしも、いい雰囲気にまで持っていけたなら。
できたら、付き合いたい。
手の中のカエルを見つめていた、あの目をもっと近くで見つめてみたい。
ところが、まるで反応がない。
メールや電話の着信拒否をされてるわけではないので、受け止めてくれてはいるらしい。
しかしそれも、楽観的にすぎる気がしてきたのだ。
……少し、間を置いたほうがいいのかなぁ。でも、俺から連絡しなかったら、何もなかった事になるだけなんだよな。
まだ暑かったあの日から季節は移り変わって、街中でもトンボを多く見るようになってきていた。
早瀬は、外出中に立ち寄ったカフェの店先で、大きな植木鉢の枝にとまったトンボを見かけて写真を撮った。
:「もう、秋ですね」
そんなメッセージにトンボの写真をつけて、梶原に送った。
せめてもう一度、直接話ができるまで、粘ってみようと思ったのだった。
☆
午後二時半は、総務部のお茶タイムだ。
梶原が、いつもの女子会に混ざってのんびりとお茶を飲んでいると、ヴヴヴとスマホが揺れた。
ポケットから取り出したスマホを見れば、早瀬からのメールとわかる。
梶原は、ゆっくりしてきてと言いおいて、その場を離れた。
社内で誰にも邪魔されない場所といえば、トイレくらいしかない。
梶原は、近くのトイレに入るとすぐにメールを開いた。
添付された画像は、赤く光る体と薄い羽のトンボだった。
「……かっこいい」
思わず、言葉が口から洩れた。
梶原の素っ気ない態度に呆れるでも諦めるでもなく、早瀬は繰り返し誘ってくれる。そうやって早瀬が誘ってくれている内に、次へつなげておきたくなった。
……そろそろ、こっちからも
梶原は、苦笑いを浮かべながら、メールの返信をうった。
:「トンボ、かっこいい。ありがとう」
送信ボタンを押しながら、次はどんなメールが来るかと、少し楽しみにしている自分を見つけた。
梶原は、苦笑いを通り越してにやつく顔をざぶざぶと洗ってから、自分の席に戻った。
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梶原からの返信を、早瀬は見逃したりはしなかった。
:「今週、どこかでお昼一緒に食べませんか?」
魚心あれば水心。梶原だって、悪い気はしない
:「昼ごはんを一緒に食べて、何がしたいの?」
早瀬からの返事は早かった。
:「直接会って、話をしたいんです。梶原さんのことを、もっと知りたいです」
梶原の顔には、やっぱり苦笑いが浮かぶ。
自分の何を知りたいというのか。噂のことが知りたいなら、回りくどいやり方をせずに聞けばいい。
最初に誘ってきた時に、蛙のことを聞きたいと言っていたけれど、それはただの口実だとわかっている。
それに、蛙のことは、冷やかしで聞かれたくない。
茶化さずに莫迦にせずに聞いてくれるのでなければ、一言だって話したくない。
:「何も話すことなんてないよ。でも、一度くらいなら昼飯に付き合ってもいいよ」
色よい返事をしたかと思ったら、梶原は少しだけ条件を付けた。
社食ではなく、昼休みに往復できる範囲でどこかいい店に連れていけというのだ。
:「聞かれたことには、なるべくちゃんと答えたい。個室とまでは言わないけれど、座席がきちんと区切られてる店がいい」
梶原からの条件を見て、早瀬はがぜんやる気をだした。
社内の同僚に聞けば、誰と行くのかと詮索される。
でも、現代社会にはネットがある。検索してレビューを読み込み、店を決めた。
そうして二人は、少し高めの和食店で、いくつも区切られたボックス席の一つに相対して座っていた。
早瀬は、刺身の定食を、梶原は煮付けの定食をそれぞれに注文した。
正直、日ごろワンコインで食事をしている早瀬に、その店はかなり割高だ。明日以降、しばらく社食に行くのも厳しくなる。
それでも、その店を選んだ甲斐はあったようだ。
目の前の梶原は、穏やかな雰囲気で早瀬の雑談に相槌をうってくれている。
「梶原さん、好き嫌いはないんですよね?」
「何でもいいんだ。食べられれば」
「微妙にニュアンス違います?何でも美味しく食べられるっていう好き嫌いのなさじゃなくて……」
「そう。本当に何でもいいんだ。昼しか手のかかったものを食べないから、できれば温かいものがいいかな」
「……だから、煮付け。じゃぁ、食べるのが苦痛ってわけでは?」
「そこまででもないよ。お腹もちゃんとへるよ。ただ、何を食べてもあまり変わらないだけ。生きていくのに栄養は必要だから」
「これは、大好きっ!ってものないんですか?」
「あー……、ミネラルウォーター、かな。あとは生ハム。その二つだけ食べて生きていけたら簡単なんだけど」
「それだけ!?」
「水とタンパク質と塩分だよ。充分だよ。あと……チーズくらいあってもいいか。毎日三回も何を食べるか考えるなんて、面倒すぎるよ」
梶原の、心底興味がないという顔に、早瀬が驚いているうちに、定食が運ばれてきた。
どうするかと見ていると、梶原は、箸を取り上げてきちんと両手を合わせると、いただきますと小さく頭を下げた。
ほっとした早瀬は、同じように手を合わせて、元気よくいただきますと唱えた。
しばらく食事が進んだ頃、梶原が口を開いた。
「言った通り、つまらないだろ?僕と一緒にいたって、君に何の得もないよ」
「……うーん。損得、じゃないと思います。っていうか、今一緒に飯食ってるので、そこでもう俺にはプラスです。あ、あの、この間のトンボなんですけど」
「……うん?」
「かっこいいって返しだったでしょ?爬虫類以外に、昆虫もいけるんですか?」
「虫は、かっこいい奴だけ。トンボとカマキリ、辛うじてバッタ。……あ、蜘蛛も平気だ。土手でよく見るしね」
「顎の大きそうなやつばっかりですね」
「……ああ。そうかも」
「強そうで」
「そうだね。力強くて、一匹でやっていけそうだ」
「そういう男が好きですか?」
もっと遠回しにくるかと思ったら、早瀬はずばりと切り込んできた。
「……やっぱり、噂が気になる?」
「気になるっていうか、好みが知りたいです」
「僕の好み……?それこそ、君には関係ない。どこかにいい男がいて、僕に紹介でもしようってのかい?大きなお世話だよ」
「あ、ち、がいます。あの、俺、俺です。俺、ストライクゾーンに入りませんか?」
「早瀬くん……?君も?」
訝し気に問い返すと、早瀬は情けなさそうに眉を下げた。
「俺のほうから言わないと、卑怯でしたね。あの、俺も、っていか、その、恋愛の対象は同性です。それに気が付いた時、ラグビーも辞めて……」
「ラグビー?」
関連性がわからないと、梶原は小さく首を傾げる。
「僕は、団体で何かをやった事がないからよくわからないんだけど、何か関係ある?」
「チームの仲間に言えないでいるのが、後ろめたくなってきて。運動部の更衣室とか、皆気にしないんで、平気で脱ぐし触るし、で……」
「確かに、それは居心地悪いかも……」
「あの、梶原さん」
早瀬は、茶碗と箸をおいて、お茶をぐいと飲み干した。
梶原も、何かを察して食べる手を止めた。
「あの、俺と、もっと知りあって仲良くなって、できたら、付き合ってもらえませんか?」
「……ちょっと早くない?」
「すみません。でも、友達で終わりたくないんです」
「……友達の先を、君の目標に置きたいということ?」
「はい」
「僕は、君よりかなり年上だよ?」
「はい。あの、年齢は事務の子に聞きました。どっちかっていうと、俺が若造で、頼りないかもしれないですけど、でも……」
冗談でもなければ、揶揄っているのでもないと、早瀬は真っ直ぐに梶原を見つめている。
梶原は、絆されてしまったなと小さく溜息をついた。
「……まぁ、今日も頑張って店を探してくれたし、君の状況も少し話してもらえたし。可能性がまるっきりゼロってこともないかもよ。でも、途中で君が嫌になるかもしれないし」
「俺、粘り強いですよ?」
「それ、二回目だね。わかったよ。これからは、もう少しメールに返信するよ」
「はいっ!あ、じゃ、今度本当にデートしましょう」
「気が早いよ」
梶原は、いつも通り素っ気なく返事をして、食事の続きを済ませた。
☆
その晩早瀬は、何をどうやって誘えば、梶原との距離を縮められるか必死で考えていた。
河岸での泥だらけの男と、少し大きめのスーツを着た仕事人間では、パズルの端っこと端っこだけがわかっているようなものだ。
今日、ほんの少しだけ手に入れたピースを大切に、残りのピースを集めていきたい。
そうして、色んな梶原忍を知って、すぐ傍に立ってみたい。
ヒントを探すためにも、また違う場所で会う約束を取り付けるといいかもしれない。
早瀬は、二人でできそうな事、行けそうな場所を探すことにした。
その頃、梶原は機嫌良く風呂の湯に浸かっていた。
すっかりリラックスした足を伸ばすには、さすがにバスタブの長さが足りない。バスタブの縁に足を乗せて、肩までとっぷりと湯につかる。
気に入りのバスジェルで白濁した湯は、ふやけた肌を一層柔らかくしてくれる。
今日も、気分よく寝られそうだ。
それにしても、早瀬という男の考えることは、よくわからない。
自分の、何を気に入ったというのだろう。
絶妙な力加減で押してくる意図を思えば、自分は好かれているのだろうと想像できる。
悪くはないが、微妙に居心地が悪い。
だって、早瀬は何も知らない。
風呂でやわやわと自分を甘やかすような梶原を、知らない。きれいな布にうっとりする梶原を、知らない。
そうだ、そうだよ。知られたくないし、邪魔されたくない。
梶原忍は、少し浮かれた自分を戒める。
自分の時間と場所を、何より大切にしたいのならば、孤独は引き受けなければいけない。
さて、そろそろバスタブから出よう。
今日は、どれを着よう。
そうだ、あの黄色とオレンジを重ねた長い上衣に辛子色のパンツをあわせよう。
少し肌寒くなってきたから、暖かそうでいいかもしれない。
着てみると、それはまるで、早瀬の持つまっすぐな明るさを纏っているようだった。
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