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第4話 水のみにて生くるにあらず
何日か前から、社宅集合ポスト前の掲示板に「植木剪定のお知らせ」が貼ってあった。
敷地のぐるりを囲む生垣や、駐車場と隣家との境になっている植え込みの枝や葉を落とすのだそうだ。
早瀬は、もしやと思い、その日朝から梶原の家に向かっていた。
タオルを一枚首にかけて、家を出てから徒歩2分ほど。
行き止まりに向かう角を曲がると、案の定職人が生垣に鋏を入れている。
職人たちに「おはようございます」とにこやかに挨拶をしながら、開かれた門から中に入ると、梶原が雑草を刈っていた。
「梶原さん、おはようございます。俺も手伝っていいですか?」
「……ぁあ?」
胡乱気な目つきで見上げた梶原は、早瀬を見つけて曲げていた腰を伸ばした。
「勝手に入ってくるのは、どうかと思うけど」
「貼り紙してあったでしょ?今日、剪定が入るって。こっちもやってるんじゃないかと思って、手伝いにきました」
「プロを頼んであるから」
用はないと、梶原は手を左右にひらひらと振った。
「芝刈りと草抜きなら、素人でもできます。それに、この庭を一人でやるの、ちょっと大変ですよ」
何をどう言い返しても、早瀬はまるで動じない。
ニコニコと笑顔を絶やさないくせに、ギリギリの線でぐっと踏ん張る強さがある。
梶原は、ついその強さに押されてしまう。その笑顔に、苦笑してしまう。
まぁいいかと警戒を緩めて、招き入れてしまう。
仕方がないなと小さく溜息をついて、足元のバケツに手を入れた。
「……素手じゃ、辛いから」
眉間にぐっと皺を寄せて、不本意だと眼鏡の奥から睨みながら、予備の軍手を早瀬に渡した。
「じゃ、あっちの端から雑草抜いていきます。あ、触っちゃだめなところとか、ありますか?」
「雑草は抜いて構わないけど、その辺飛んだり跳ねたりしてる奴らがいたら、逃げるまで待ってやって」
わかりましたと頷いて、早瀬は庭の反対側へと回った。
梶原は、その背中を見て少しほっとしていた。
あの押しの強さで、へばりついて話しかけられたら、自分は10分ともたないだろうとわかっていたからだ。
自分で手伝いを任せておいて、そんな心配をするなんて。本末転倒というか矛盾しているというか。
それにしても、早瀬は、梶原の一人の生活に否応もなくぐいぐい乗り込んでくる。
なのに、息苦しいほど距離を詰めてくるということも、しない。
どういう加減なのかはわからないけれど、今はその距離感がありがたい。
梶原は、あらためて鎌を握りなおして、背高く伸びた草を刈り始めた。
2時間もすると、職人たちは社宅の駐車場との境の植え込みを刈りはじめた。
汗だくになった梶原は、早瀬を呼んでおつかいを頼むことにした。
「悪いんだけど、2ℓの麦茶と……えーと、箱で売ってるガリガリしたアイスを買ってきてくれない?ちょっと、僕は、疲れたみたいで」
「日陰で休んでてください。あ……水、飲んでくださいね!」
早瀬は、急いで軍手を外して、すぐに門を出て行った。
梶原は、少し太陽に炙られすぎたか、頭が痛い。
日よけの帽子と首のタオルでやり過ごせると思ったが、秋晴れの太陽は十分な威力を発揮しているようだ。
汗と埃と土で汚れているのも、よくないのかもしれない。
ホースの先から溢れる水を頭からかぶって、ブルブルと顔を洗うと、少しさっぱりする。
軒先の庇の下、日陰に座り込んで待っていると、ビニール袋を二つガサガサ言わせながら、早瀬が急いで戻ってきた。
「かっ、買ってきました!」
「玄関から入って、まっすぐ突き当りに冷蔵庫があるから、アイスいれといて」
早瀬に指示を出しながら、梶原はもう一つのビニール袋を受け取ろうと手を伸ばした。
その手に麦茶をまかせて、早瀬は玄関をがらりと開けた。
引き戸の中はひんやりと薄暗くて、外の暑さが嘘のようだ。
三和土に靴を脱いで、小さな声でお邪魔しますと言いながら冷蔵庫を目指す。
梶原の言う通り、廊下の途中から台所ゾーンに入り、突き当りに冷蔵庫があった。
冷蔵庫の一番下の扉を引くと、案の定冷凍庫だ。アイスを入れるという任務を完遂して、やっと落ち着いて周囲を見回すと、台所が何か妙だ。
片付いているというより、物がない。
冷蔵庫の隣に、水のペットボトルの段ボールが二つ。シンクの横、普通は洗いかごがあるだろう場所にも、何もない。
もしやと冷蔵庫の扉を開いてみると、そこもほぼ空っぽだ。以前聞いた通り、水とハム。ヨーグルトと、チーズだろうか。何かの乳製品。
小さな醤油と調味料が数種類。
食べることに興味がないにも、ほどがある。
早瀬は、何度断られても、食事に誘おうと心に誓った。
外に出ると、軒先にしゃがみ込んだ梶原が、ペットボトルの麦茶をごくごくと飲んでいた。
「君も飲むだろ?」
そう言って、当然とばかりにペットボトルを早瀬に差し出した。それをにっこり笑って受け取ると、早瀬は梶原に負けない勢いで麦茶を飲んだ。
カラカラの喉を通り過ぎる水分と、鼻にぬけるほんのり甘い麦茶の香りが、なんとも清々しい。
「……っはー!麦茶旨いっすねー!」
「暑いからね」
「日陰は涼しいですね。風も少し出てきたし」
「うん」
「……そろそろ、職人さんたちも終わりますね」
「うん」
「……熱中症になってません?」
「……なってない。と、思う」
「そうかな……」
早瀬は、隣に座り込む梶原の首と額に手を当てようとしたが、梶原にふりはらわれてしまった。
「なってない。さっき水もかぶった」
「……んー、じゃあ……職人さんたちの仕事が終わったら呼びますから、せめて玄関の中の涼しいところに入りましょう。俺、ここにいますから」
ついて行ったりしないからと、早瀬が梶原を気遣う。
巧みにに譲歩された形になって、梶原はまたも苦笑するしかない。
「じゃ、呼んで」
ふらりと立ち上がって、玄関の引き戸をからりと引いた。
☆
家の中は、静かで涼しくて、梶原は心底ほっとする。
玄関扉一枚隔てただけなのに、ここなら大丈夫だと信じられる。
このまま、ここで転がってしまいたいけれど、あと少しがんばって汗をおとしたい。
剪定作業終了予定まで、あと30分ある。
梶原は、重い体を引きずるように風呂場に向かいぬるいシャワーを浴びると、清潔なTシャツとカーゴパンツに着替えた。
そして、新しいタオルとペットボトルを持ってもう一度外に出ると、職人が門近くで帰り支度を始めていた。
その集団に混じって、早瀬は職人と枝切鋏を片手に話し込んでいた。
……呼ぶって言ったじゃないか
梶原は、少しイラつく気分を飲み込みながら、門に近づいた。
「お疲れ様でした」
声をかけると、職人が一斉に会釈を返した。
中の一人が梶原に業務終了の報告をし始めると、早瀬は鋏を返してその場を離れた。
「呼んでくれって頼んだはずだけど」
「呼ぶ前に、梶原さんが戻ってきてくれちゃったんです。俺じゃ終了のサインなんてできませんから」
ちゃんと呼ぶつもりでしたよと言い分を伝えながらも、申し訳なさそうな顔をされれば、梶原も文句を言いにくい。
「まぁ、場つなぎしてくれてたみたいだし、いいよ」
手にしたタオルを早瀬に差し出すと、受取りつつ怪訝な顔をしている。
「そこの水道、君も使いなよ。もう、君のタオルは汗で濡れてるだろ。だから……」
このタオルを使えということだと理解して、早瀬はにっこりと笑った。
「ありがとうございます」
つい1時間ほど前の梶原のように、早瀬もホースから勢いよくでた水を頭からかぶる。
「ひゃー!気持ちいー!」
ブルブルブルと頭を振って、水を飛ばす仕草が犬のようだ。
「何か、お礼をしないとね」
「……お礼、ですか?今日は、俺が勝手に来たんですけど……じゃ、今度は中に入れてください」
「中?」
「はい。家の中。で、一緒に酒のみましょうよ。あ、酒、のみます?酒じゃなかったら、お茶でも水でも。俺が、飯作りますよ」
「……だから、食べるのは」
「何でもいいんですよね?だから、俺の食いたいものに付き合ってもらえたらいいなって」
「僕の家で?」
「はい」
断られるなどとは微塵も思っていない目をして、早瀬は梶原の返事を待っている。
この目、この笑顔に押し切られるのは何度目だろう。
梶原は、自分の空間を少しずつ押し開かれていく恐怖と、好かれている心地よさを天秤にかける。そしていつも、早瀬の勢いを言い訳にして自分の甘さに負けるのだ。
「わかったよ。いつにする?」
「今日!今日にしましょう。梶原さん、疲れてるでしょ?腹へっても食べるのめんどくさくなりそうじゃないですか。だから、今日」
「……よく、わかるね」
見てきたようなことを言うと思わないでもないが、ぴたりと未来を予想されて、梶原は驚いた。
「じゃ、また夕方に来ます。5時頃でいいですか?」
「うん。あ、でも、うちにはヤカンと包丁一本しかないけど」
「必要なものは、持ち込みます。大丈夫です!」
梶原が唖然としているうちに、早瀬は元気よく帰って行った。
一体何が起こるのか。
梶原は、ペットボトルの水を飲みながら、冷凍庫を開けた
……アイス食わせてやるの、忘れてた
あっても腐るものでなし。
そこから一本取って、水分と糖分を摂取すると、しばしの休息のために二階に上がった。
☆
うっすらと目を開ければ、部屋の中が薄暗くなりはじめていた。
冷たい空気に窓を見やると、カーテンが風に揺れていた。
時計を見れば、二時間ほど昼寝をしていたようだ。早瀬が来る前に家の中を確認しておきたい。
梶原は、むくりと起き上がった。
緩やかな寝間着から、昼寝前に脱いだ部屋着に着替えて階下に降りる。
掃除をした方がいいのかとも思ったが、特にすることもない。
居間の畳の上を箒で掃いて(掃除機はモーター音が嫌いで持っていない)、平たいクッションをいくつか放っておいた。
玄関は、少し土や草が残っていたので、こちらも掃きだしてさっぱりさせた。
台所に戻って、しばし思案する。
二人で食事?
何が必要なんだ?
必要なものは持ち込むと言っていたけれど、きっと調理道具と材料だろう。
梶原は、なけなしの食器を引っ張り出して、皿数枚とグラスや湯飲みをいくつか洗ってタオルの上に伏せておいた。
箸は足りなくて、いつの間に持っていたのかわからない割り箸を見つけた。
できることは、この位だ。
さてどうしたものかと思っていると、スマホが鳴った。
早瀬からだ。
「どうした?」
「そろそろ行っていいですか?」
「ああ。時間になったら勝手に来るのかと思ってた」
「開いた門から入るのと、家の中にあげてもらうのは同じじゃないですよ。じゃ、行きますね!」
電話を切ると、梶原はなぜかやけにソワソワしだした。胸がぱたぱたと動きを早めて、足先がむずむずする。
少し怖くて、ちょっと楽しみで、なんとなく嬉しくて。
そうしておろおろしているうちに、玄関を叩く音がした。
梶原は、たたたと廊下を走って玄関を開ける。そこには、両手に鍋を抱えた早瀬がいた。
「い……らっしゃい……」
「今日は、おでんです!」
にっこり笑う早瀬から鍋を受け取って、梶原は中に迎え入れた。
☆
早瀬の作ったおでんは、きっぱり大根と白滝と牛筋だけしか入っていなかった。
どうやら、朝から仕度がしてあったらしい。大根も白滝も、しっかりと味が浸みている。
背中のリュックサックにささっていた酒瓶は、日本酒だった。
辛くて濃くて旨い酒を、少しずつ飲みながら、湯気のあがる大根に何度も箸を伸ばした。
少し荒い粒の混ざる辛子をつけると、牛筋の甘味とうまみが引き立って、梶原にしては沢山食べた。
早瀬は、ずっとニコニコして梶原の向かいにいた。
それなのに、目じりが赤くなってきて、頬が少し赤くなってきて、グラスから垂れた酒をぺろりと舐める舌がもっと赤くて、梶原は度々目を反らした。
「遅くなったんで、そろそろ……」
夜も更けて、早瀬はきちんと暇を告げようとしているのに、梶原は淋しい。
「残ったのは……どうすれば」
「明日また温めれば、食べられますよ。鍋はそのうち取りに来ます。また、来てもいいでしょ?」
そうやって、早瀬は、自然に次の約束を取り付けようとした。
それと同時に、クイっと両端が引き上げられた口元が黒子を目立たせて、梶原の判断力を少しだけ鈍くする。
「ここで、よければ、泊まってけば……寝るだけ、だし」
「え……、えっ!」
「よければ、だよ。すぐ近くなんだから、また来ればいいんだけど、もう、遅いし、外冷えてきたし」
何を言っても言い訳にしかならず、梶原は酒のせいでなく顔が熱くなる。そして、やっぱり帰ってもらおうかと思い始めるよりも早く、早瀬は梶原の意を汲んだ。
「お言葉に甘えます」
「え……」
「ここでいいです。あ、コンビニで歯ブラシ買ってきていいですか?」
「あ、うん。でも、予備くらい、あるよ」
「じゃ、そこも甘えていいですか?」
「うん。あの、二階には、来ないで」
「はい。階段は上りません。何かあったら下から呼びます。あの、梶原さん」
「なに?」
「すっごい嬉しいです。友達には、なれましたよね?」
「……うん。そう、だと、思う」
「今日は、それで十分です。でも、すっごく、すっごく、嬉しいです」
目の前で、満面の笑みで告げられて、梶原は肩の力が抜けてしまった。
「……君は、なんだか、知らないうちにするっと入ってくるなぁ」
苦笑いと一緒に小さく恨み言まじりにこぼすと、早瀬は腕を伸ばして、梶原の頬に片手を添えた。
「誰にでもじゃぁないですよ?梶原さんだからです。それは信じてくださいね」
「……そうかな」
触れられた頬が、熱くて熱くてたまらない。
梶原は、早瀬の手をぐいと引きはがして、いつもの距離を取り戻した。
じろりと睨んでみせても、早瀬は機嫌良く笑っているばかりだ。
「歯ブラシ、出すから」
「はーい!」
早瀬は、返事とともに立ち上がり、机の上の食器や鍋を片づけた。
☆
その晩早瀬は、いくつもクッションを抱えて、畳の上で眠った。
ベッドに比べて硬かったせいか、妙な夢を見た。
眠っている早瀬の頭近くを、ヒラヒラと白い布が揺れて、筋張った足と長い指がのぞいていた。丸い爪がつるっとして、貝殻のようだった。
少し寒いと思っていたら、ほわっと暖かくなった。
ヒラヒラふわふわと布は揺れて、そのうち気配がしなくなった。
眩しさに目覚めると、台所に梶原がいた。
長いカーディガンの裾をゆらゆらさせながら、何かをしている。
昨日の夢と似ているけれど、紺色のそれはもう少しぽったりと分厚い気がする。
「……おはよう、ございます」
寝ぼけた頭で朝の挨拶をすると、台所からコーヒーの香りがしてきた。
早瀬は、コーヒーの香りを胸いっぱいに吸い込んで、そのまま目を閉じた。
「……起きたんじゃないのかい?」
遠くで、梶原の声がした気がした。
小さな足音がして、長い指が髪を撫でた気がした。
早瀬は、起きたくて起きたくなくて、しばらく目を閉じてじっとしていた。
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