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第5話 オリーブの木の下で

 遠くから、自分を呼ぶ声がする。  そろそろ起きろと言っている。 早瀬は、しぶとい瞼をなんとか持ち上げて、声がする方を見た。 「……は、い、起きま……す……?」 台所のシンクを背に立っているのは確かに梶原なのに、何かが違う。 印象が……そう、服装がまるで違っている。 体のラインに沿った、暖かそうで柔らかそうなカーディガンと床に引きずりそうな長いパンツ。 ぶかぶかのスーツに比べて、肩も腰もやけに細く見えて、表情も心なしか優しげだ。 「良かったら」 台所から段々とコーヒーの香りが近づいて、昨日夕飯を食べた低いテーブルに湯気のあがるマグカップが置かれた。 「君も、カフェオレにする?」 「……カフェオレ派ですか?」 「朝だけ」 じゃぁとマグカップを持ち上げると、台所と居間を数歩で往復して、スキムミルクの粉を振り入れてくれた。 「ありがとうございます」 早瀬からの礼に目礼で返しながら、梶原はマグカップにスプーンを一本差し入れた。 「よく混ぜて」 どうやら、スキムミルクは溶けにくいらしい。 早瀬は、慎重にマグカップのカフェオレを完成させると、また台所に戻ってしまった梶原に声をかけた。 「あの、泊めていただいて、ありがとうございました」 「夕飯、旨かったよ」 だから差し引き0だとでも言うように、手をヒラヒラと左右にふって、梶原は小さく笑った。 ……!眼鏡っ! 早瀬は、さっきから感じていた違和感の原因を見つけた。 眼鏡がいつもの黒縁ではないのだ。細い銀のフレームで、表情がよく見える。 「そっちの眼鏡のほうが、ずっとステキです」 「これ……?」 そうかなと、梶原は首を傾げながら眼鏡をはずして俯いた。 「どれをかけたって、変わらないよ。ないと見えないだけで」 「かなり悪そうですね」 「ああ。眼鏡なしじゃ、外を一歩も歩けないよ。君の顔だってわからない」 「この距離で?」 「そこにいるのは、わかるよ。顔見知りのシルエットは、覚えるようにしてるし。ただ、裸眼で顔をはっきり見ようと思ったら、それこそ鼻と鼻がくっつきそうなくらいに」 「っていうと……」 早瀬は、がばっと立ち上がると大股で梶原に近づいて、ぐいと腰を抱き寄せた。 突然のことに驚いた梶原は、思わずぎゅっと目を瞑り、ホールドアップと両手を上にあげた。 「……な、んだよ」 恐る恐る両目を開けると、目と鼻の先に早瀬のなつっこい両目がある。にっこり笑った目じりの皺まではっきり見える。 「……近いよ」 「ちゃんと見えます?」 「見えるよ、見えたよ。だから……」 「泣きぼくろがあるなんて、知らなかったな」 早瀬は、昨日と同じように梶原の頬を片手で包んで、泣きぼくろをそっと親指でなぞった。 「な……」 押されっぱなしの梶原は、魚のように口をパクパクさせるだけで、どうする事もできない。 「忍さん、可愛い」 「可愛くない!」 梶原は、悪態をつくと、早瀬の胸をぐっと押して距離をとった。 「それに、危ないだろ。眼鏡を落としたらどうするんだ」 俯いて、ぶつぶつ文句を言いながら、二歩大きく下がって眼鏡を掛けなおした。 なのに、早瀬はまるで悪びれた様子もなく、さらっと誘いをかけてくる。 「驚かせちゃって、ごめんなさい。眼鏡を落としちゃったら、一緒に買いに行きましょう。道案内、必要でしょ?手つなぎましょうか」 「繋がないよ。まったく、君には驚かされてばかり……」 文句の続きを言おうとしているのに、今まで目の前にいた早瀬がいない。 小言を背中で聞きながら、居間に戻って借りた毛布やクッションを片づけ始めていた。 ぐっと近づいたかと思うと、またすっと距離をとる。 心地いい距離感だけれど、これが計算だったら少し嫌だなとも思う。 梶原にとって、早瀬がもたらすあらゆる事が、長い間使ってこなかった感情を揺り動かす。 「さ、そろそろ僕は出かけなきゃ。君も家に帰ろう。鍋は夕方に返すよ」 「用事の中味を聞いても?」 「幸い、聞かれて困るような用事じゃない。今日は、差し入れ用のおやつを選びにデパ地下にね」 「ああ。あの有名な総務のお茶会」 「自主的な福利厚生と言ってほしいね。彼女たちにやめられたら、会社の業務がストップするよ。……ああ、あの、もしよかったら」 何ですかついて行っていいんですか?と早瀬が身を乗り出すが、そうじゃないよと眉間に皺がよる。 「買ってきたものを、試食してもらおうかと思ったんだよ。店員の薦め通りに買ってくるだけで、僕には味の良しあしがよくわからないから。見た目なら多少わかるけど」 「やります!甘いものも、いけますよ、俺。あ、じゃ、また夕方に来ても?」 「あー……今度は、僕が連絡するよ。ほら、だから、今は」 「帰ります。やったー!夕方にまた会える。これからは、さっきみたいに忍さんって呼んでもいいですか?」 「気が早いにもほどがあるよ」 早瀬の希望の半分以上を却下しているのに、本人はまるで気にしていないとでも言うように、からからと笑って帰って行った。 梶原は、早瀬を見送った後の玄関の静けさに、ほっとしながら次の約束を楽しみにしている自分に気づいていた。 どうして、自分から早瀬をつなぎとめるような事を言ってしまうのだろう。 あけっぴろげに好意を示してくれる彼に、いい答えが出せそうな気がしないのに。 大きく溜息をつきながら、梶原は二階への階段を上った。 ☆  カフェオレ一杯で自宅に戻った早瀬は、しっかり腹が減っていた。 シャワーを浴びて着替えると、牛丼大盛を目指して、さっそく駅前に繰り出した。 歩きなれた道を、オートパイロット感覚で歩きながら、梶原との昨日を思い出す。 ゆっくりとではあったけれど、大根も白滝も、いくつも食べてくれた事が嬉しかった。 「これは、どうやって作るの?」なんて、聞いてくれて。 「たまには二人で食べるのも、悪くないね」なんて、言ってくれて。 その上、梶原は素晴らしく聞き上手だった。 今の仕事を選んだ理由は? 子どもの頃の好きなものは? 大学では、どんな事してた? ラグビーは、見る? 梶原は、少しの質問をしただけで、あとは相槌を打っていただけだ。 それだけで、自分のことは何一つ喋らずに、早瀬にだけ喋らせて、その場をもたせてしまった。 そして、思いがけず泊まって行けと言われた嬉しさに、大事なことをすっかり忘れてしまった。 「……カエルの話すんの、忘れた」 お待たせしましたの声と一緒に、目の前に牛丼が到着した。 早瀬は、とりあえず空腹を満たすことにした。 大きな丼を片手でわしづかみにして、カカカカカっと味の浸みた白米を箸で掻きよせる。 あっという間に大盛の牛丼を平らげると、やっと胃袋が落ち着いた。 最後にお茶をゆっくり飲みながら、また梶原のことを思い出す。 今朝の服装は、意外だった。 ゆったりぽってりとしたカーディガンに包まれた肩と腰を思い起こせば、やけに華奢で色っぽかったように思う。 もしかすると、平日に着ているサイズの合ってないスーツが、本当は一番「らしく」ないのかもしれない。 庭では、日よけの帽子に首巻きタオル、カットソーにジャージだった。 一緒に夕飯を食べた時は、若い男がよく着ているようなTシャツとカーゴパンツに、素足だったと思う。 どれも、取り立てて特別なこともなければ、妙なところもない。 ただ、場に馴染んでおかしな感じはしないけれど、ひどく地味に見えた。 梶原には、今朝のカーディガン姿が一番似合っていたと思う。夢で見た、白いヒラヒラした素材も、きっと似合うだろう。 本当の梶原は、あんな風な、柔らかでしなやかな人なんじゃないだろうか。 最後にもう一度と湯飲みを傾けると、お茶は残っていなかった。 口に落ちる数滴のしずくに肩透かしを感じつつ、店を出ると、駅に向かった。 甘いおやつに合うような、お茶を探してみようと思い立ったのだった。 ☆  夕方、陽が落ちるのが早くなった。 秋も段々深まってきたなと黒いパーカーを一枚羽織ったところで、梶原から連絡が来た。 早瀬は、買ったばかりの紅茶を入れた紙袋を下げて、いそいそと梶原の家の玄関へ向かった。 「お邪魔しまーす」 迎え入れてくれた意中の人は、オレンジ色のカーディガンを羽織っている。 「それ、何?」 「お茶です。おやつのお供に」 どうぞと紙袋を広げてみせると、梶原は手を突っ込んで紅茶の缶や四角い箱を取り出した。 「色々あるね……ダージリン、アールグレイ、ウヴァ……」 一つ一つキッチンに並べられていく紅茶の箱は、形もラベルも様々だ。 「こっちも色々試せるね……ん?」 順番にパッケージのぐるりを読んでいた梶原が、おや?と首をひねった。 「君、熱帯雨林の保護活動に熱心……なようには見えないけど?」 梶原が両手に一つづつ持った紅茶のパッケージには、どちらも緑のカエルがいた。 「それが何かはよくわかってないんですけど、どうせならカエルの印があると、喜んでくれるかなーって」 「僕が?」 「はい」 元気よく返事をしては見たものの、どうだろうかと不安げに、早瀬の眉が下がっている。 梶原は、数秒ぽかんとした後、肩を震わせて笑いだした。 「僕が、蛙が好きだからって、そういう事?君、ちょっとどうかしてる」 笑いが止まらないと、手に持った紅茶の缶を震わせている。 「そんなに笑わなくても……。でも、なかなか可愛げがあると思いません?」 「そうだね。確かに。君が僕を喜ばせようとしてくれたらしい事は、わかったよ。うん、信じるよ」 ひとしきり笑った後、梶原はヤカンに湯を沸かし始めた。 早瀬は、指示された通りにテーブルを拭いたり、皿にお菓子を並べたりしている。 何か他に用事はないかと台所を見やれば、オレンジのカーディガンが揺れていた。 ヤカンからは、シュンシュン湯気が上がりはじめて、マグカップにはティーバッグがセットされている。 ……やっぱり、可愛い 熱いマグカップを受け取ろうと、早瀬は立ち上がった。 ☆  試食にと用意されていたのは、小さなゼリー、マドレーヌ、クッキー、チョコレート。 どれも、指でつまんで一口で食べられるような、職場でのおやつに向いたものだ。 「君が何が好きか知らなくて」 最後に、小さなケーキを乗せた皿が、早瀬の目の前に置かれた。 そのケーキは、クリーム色と黄緑の二段の円筒形ムースで、天辺には透明なクラッシュゼリーが飾られていた。 「俺に?」 「いつも、生菓子も薦めてもらうけど、僕は食べないから買わないんだよ。今日は君がいるから、いいかなと思って」 「すっごく嬉しいです。いただきます!」 早瀬は、ぱっと明るい笑顔でケーキに向かうと、あっという間に食べてしまった。 「……どう?」 「おいしいです。さっぱりしてていいですね」 「こういうの、好き?」 「んー、正直に言えば、スフレのチーズケーキが一番好きです。これも、フワフワ加減が似てますよね?」 フォロー付きの正直な返事が好ましい。 「スフレ、か」 梶原が、無意識に次のケーキを考え始めている間に、早瀬はどんどん試食に手を伸ばしていく。 このゼリーの赤は少しくどい、とか、焼き菓子は何でみんな貝殻の形なのか、とか、チョコレートの洋酒がきついとか、きちんと感想を言いながら。 「沢山、食べられるんだね」 「どれも少しづつですからね。あ、そうそう。昨日聞きそびれた事があるんですけど」 「何?」 何かあったかと梶原が首を傾げる。 「どうして蛙を好きになったんですか?という話です」 「……何で、そんなに聞きたがるんだよ」 「可愛かったから?」 梶原が、眉尻を下げて困った顔をしても、ぐっと口を引き結んでみても、にこやかに笑っているばかりだ。 今回は、どうにもごまかせそうもないらしい。苦い顔をしながら、口を開いた。 「僕の蛙好きは、勘違いが原因なんだ。ジュラシックパークって映画があっただろ?」 「はい。恐竜映画」 そう、元々は梶原忍少年の勘違いというよりも、映画の中の設定が原因だ。 採取されたDNAをもとに復元された恐竜は、数が増えないように雌だけしかいないはずだった。 ところが、卵が発見された。 どうやら、復元の際に蛙の遺伝子を使ったのが原因で、性転換をして繁殖し始めたらしい。確か、そういう内容だった。 梶原は、それを見て「蛙とは何てすごい生き物なんだ!」と思い込んでしまった。 梶原と蛙との付き合いは、そこからだ。 すぐに図鑑を買ってもらい、世界中に色んな蛙がいることを知った。 両棲類という名前も、イモリやサンショウウオが仲間だということも知った。 そうやって、水辺や水中で生きる生物に詳しくなっていった頃、蛙の性転換はかなり限られた状況でないと起こらない事も知った。 でも、それで蛙への興味が失せたりはしなかった。 その頃には、お気に入りの蛙もいたし、学校帰りの草っぱらで蛙の声を聞けば追いかけるようにもなっていた。 「そういう事だったんですか。そもそも、性転換する生き物がいるなんて、知らなかったです。まぁ、俺らみたいなのには関係ないですけどね」 「まぁ、そうだね。僕たちと繁殖は、関係がない」 「……今の話で、思い出したんですけどね」 最後のチョコレートをつまみながら、早瀬は遠くを思い出すような目をした。 「学校って、エロ関係を徹底的に排除してるわりに、生物と保健体育では大真面目にセックスの話をするでしょ?あれ、なんか居心地悪かったですね」 早瀬にとっては、何気ないただの昔話だったろう。 けれど、梶原には大きく響いた。 「え……?」 「こっちでは隠しておけ、こっちでは知ってて当たり前ってのも難しかったし、生物と保健体育だけは別でしょ?すっごく大っぴら。俺がヘテロじゃないから、余計にそう感じたのかもしれないですけどね」 「僕も……ぼくは、生物の授業で、求愛行動とか交配とか繁殖とかっていう言葉を知って、ここでは性欲は否定されないんだって、思った」 「ああ、そっち側から考えればよかったのか。そしたら、もう少し気楽だったかも……」 早瀬は、いい事を聞いたと梶原に目線を戻すと、自分を見つめる目とぶつかった。 その目には、今までなかった色が浮かんでいた。 早瀬に対する透明なバリヤーのような警戒心が薄れて、親愛の気持ちがうまれたような、少し甘やかな気配が漂っていた。 「梶原さんは、自分のこと、いつ頃自覚しました?」 「中学かな。男達が集まると猥談ばかりだったけど、僕の興味の方向は違ってた。あの頃の頭の中を他人に知られたら、身の破滅だな」 「そんなの、ゲイもヘテロも皆同じですよ」 「言わなくて、どうして皆同じってわかるんだろう」 「んー……、エロ本?とかマンガ?俺ら向きを探すのは、ちょっと厄介だったけど」 「本当に、皆ベッドの下に隠したりするのかな」 「どうでしょうね。今はネットもあるし」 「それは……確かに」 照れや気恥ずかしさが混ざり合って、小さな沈黙が流れた。 お茶も空になったし、そろそろ帰ったほうがいいだろうかと思っていると、梶原が口を開いた。 「あの、変なこと聞いて悪いんだけど、君は、その……経験ある?」 「それなりに。でも、最初はあまり良くなかったなぁ。若い頃って嘗められてるのか、問答無用でネコにされがちで。俺の気持ちは聞いてもらえないことも多かったし。ほんとはタチがいいなぁ」 「まさか、無理やり?」 「いえいえ、ちゃんと合意の上です。やってみたい盛りのガキだったし、その場限りの大人と。だからこそ余計にネコだったんでしょうけど。なんか、違うなーって」 「誰か、付き合ったことのある人は?」 「いましたけど、やっぱり夜の店で出会うから、素性もよくわかってなくて。仕事が忙しくなったら自然消滅です。……もしかして、友達を超えて口説いてもいいっていう話ですか?」 「……そんな事言っても、僕がどんな人間か、知らないじゃないか」 「そう来ますか。確かに、まだ知らない事のほうが多いです。でも、知らないってことは、知ってます。だから、少しでも沢山知りたいです。俺のことも知ってほしいです。例えば……キスする時、どうするか、とか」 「……例えば?」 問い返す、梶原の目じり緩んでわずかに赤い。 早瀬は、低いテーブルの縁に手をついて、すいと回ると梶原の肩を抱き寄せた。 「知りたがってくれます?」 眼鏡をはずして、甘くなった目をのぞき込もうとするのに、ついと逃げられてしまう。でも、肩に回した手を振り払う様子もない。 早瀬は、空いているもう片方の手で梶原の丸い頬をすっぽり包むと、ゆっくりと唇を合わせた。 ぽってりとした唇は、抵抗もなく柔らかいけれど、頬に添えた手のひらには小さな震えが伝わってくる。 早瀬は、押し当てていた唇をちゅちゅっと二度軽くジャンプさせてから、鼻の頭を合わせた。 「また……次も」 「ん。……また、今度」 小さな声で答えた梶原の体を、早瀬は両腕でしっかりと抱き寄せた。 ぎゅっと寄せられた早瀬の体が気持ち良くて、「すっごく嬉しい」と囁く声が胸に響いて、梶原はその背に両腕をまわしていた。 それから、家に帰るという早瀬の手を取って、玄関からぐるりと回って家の裏手に出た。 背の高いオリーブの木が一本あって、その陰に小さな扉がある。 「ここ、駐車場につながってるから。ちょっと近道。あっちからは開かないよ」 「はい。また来ます。忍さん、おやすみなさい」 早瀬は、最後にもう一度梶原の目じりにキスをした。 オリーブの枝の向こうに、半端に膨らんだ小さな月が光っていた。

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