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第6話 秘密を一つ
早瀬陸と梶原忍、それぞれにとって、世界が大きく変わったような休日が静かに終わった。
平日が始まれば、ルーチンに追われる日常で満たされる。
営業は外出が多く、総務はパソコンに向かって、書類片手にデータを片づける。
フロアも違えば、出退勤の際に顔を合わせることもない。
少しだけ特別な関係になった二人は、互いの存在を思いつつ、日々を淡々と消化していった。
梶原は、変化に聡い女性陣に囲まれているので、殊更いつも通りにふるまった。
頻繁にスマホをのぞくような真似をすれば、必ず何かを勘付かれる。
相手が、彼女たちとなんの関係もない男ならば、それでもいい。
でも、早瀬の立場を思えば、そうはいかない。
「他人に話していないこと」を秘密だというなら、そもそも梶原は秘密だらけだ。
今更一つ増えたところで、どうということもない。
新しい秘密は、今までの秘密と同じように、大切に守られていた。
早瀬にとっても、状況はあまり変わらないようだ。
本来、明るくて社交的な性格ではあるけれど、自分の性的指向については丁寧に隠してきた。
その胸の内の一番深いところに、梶原への恋心をしまっておくことも苦にならない。
数日して、変化らしい事が一つだけあった。
交通費や出張旅費の申請が、やけに早く正確になったというのだ。
事務担当に驚きとともに感心されて、早瀬は「今までがひどかっただけです」と苦笑いをこぼした。
そして夜になると、二人はスマホのメッセージアプリを使って、会話をする。
早瀬は、いつも梶原の服装を知りたがる。
梶原も、その時着ているカーディガンやセーターの袖口や裾を写真に撮って、送ったりした。
そんな毎日がしばらく続いて、早瀬はどうにも梶原に会いたくなった。
あのすんなりした体を、柔らかなカーディガンごと抱きしめたい。
だから、メッセージを送った。
:「少しだけ、会いに行ってもいいですか?」
返事は来ないかもしれないと思っていたのに、スマホはすぐにポンと鳴った。
:「少しだけなら。駐車場の扉の前においで」
なんと、小さな扉を開けてくれるという。
早瀬は、急いで上着を羽織って、部屋を飛び出した。
深夜に近い。
足音に気を付けながら駐車場の奥に進む。それは、何の変哲もない金属の間仕切り塀のようで、こちらからは扉があるかどうかもよくわからない。
その扉の前で「着いた」とメッセージを送るとすぐに、向こう側から小さな音がした。
ゆっくりと扉が開いて、白い手がヒラヒラと手招きしている。
早瀬は、身をかがめて扉をくぐった。
暗い庭にオリーブの木が見えて、その奥には梶原の家がある。
背後で鍵を閉める音がしていたと思うと、とんと肩を叩かれた。
「忍さん?」
「少しだけだよ。もう遅いから」
「はい。あの……?」
梶原は、すぐに早瀬を通り越して、顔も見ずに玄関に向かって歩き始めた。
「待って……」
早瀬も、後を追った。
玄関で靴を脱いでいると、梶原は二階に向かう階段をずんずん上っていく。
「あ、の、そっちは俺……」
「上がって来て」
「はいっ!」
早瀬は、慌てて階段を上った。
☆
階段を登り切った場所で、梶原は早瀬を見下ろしていた。
「君、秘密を守る自信はある?」
「勿論」
「僕を好き?」
「はい。忍さんも、忍さんが好きなカエルも」
「どうして?」
「理由なんて、いります?」
「なくても、いい……?」
「いいでしょう?信じてもらうために、俺の秘密も必要ですか?」
「取引はしない。お互いを脅しあうような真似はしたくない」
「ええ。そんなのは、寂しい」
階段を上りきる手前で、早瀬はまっすぐに梶原を見上げて答えた。
堅く強張っていた梶原の頬が緩んで小さく息を吐くと、細い廊下を数歩進んで引き戸を開けた。
「……嫌だなと思ったら、正直に言ってくれ」
「……はい?」
早瀬が首をかしげているうちに、梶原は引き戸の奥へ入った。
「こっち」
促されるままに、その部屋に入る。
暗くてよく見えないが、何か大きなものが中心にあって、とにかく広い。
「ここって……?」
「寝室兼クローゼット」
パチンとスイッチが入って、照明がついた。
「う……わぁ……」
目の前には、白くて薄い布で覆われたベッドがある。
ぐるりを見渡せば、シンプルな机と椅子、森のような深い緑のカーテンが下がっていて、右手にもう一つ続きの部屋がある。
「あっちは?」
「クローゼット」
梶原は、ばつの悪そうな顔をして、クローゼット用の部屋の照明もつけた。
照らされた部屋の中には、沢山の服がつりさげられている。
「すっげ……」
早瀬は、思わず数歩足を踏み入れた。
高い位置に取り付けられたレールにぶら下がる布が、早瀬が歩くにつれてゆらゆら揺れる。
壁面には、薄く仕切られた棚が据え付けてあり、一つ一つに丁寧に畳まれた服が寝かされている。
まるで、衣装の巣箱のようだ。
「沢山……ありますね」
「だから、嫌なら」
「何で、嫌がる前提なんですか。食べ物に興味がない代わりに、着るものには好みがあるっていうことでしょう?今日の、その辛子色のニットも良く似合ってますよ」
早瀬の言葉に、梶原はやっと笑顔を浮かべた。
「見せてもらっても……?」
その言葉に、笑顔は更に大きくなった。
ハンガーにかけられて吊るされた服は、白、黒、グレー、紺、茶、黄、オレンジ、クリーム色、水色……。
色とりどりに、揺れている。
早瀬は、男の着るもので、これほど柔らかそうで軽やかにヒラヒラと揺れる服を見たことがない。
棚に目を移せば、見覚えのある布地が見える。ロングパンツやカットソー、セーター類が畳まれているのだろう。
「すっごい、ですね。こんな服、着たことないです」
「家の中では、軽くて柔らかい服がよくて、色々探してるうちにこうなった」
「俺なんて、ユニフォームの延長みたいな、ストレッチがきいた、シャツとジャージとデニムばっかり」
「綿95%ポリエステル5%って感じだね」
「素材なんて、気にしたことないですよ。うわっ軽っ!」
梶原とおしゃべりをしながら、早瀬はハンガーにかかった服の裾を持ち上げては、驚いている。
それから、何かを探すようにシャカシャカとハンガーを動かすと、首をかしげながら梶原を振り返った。
「なに?」
「あの、スーツは?」
「仕事の服は、そっちの隅。必要だから持ってるだけで、いつも目にしたいわけじゃないから、奥に」
「ああ……」
なるほどと頷きながら、早瀬はひどく感心していた。
梶原の衣類に関するこだわりの全ては、この布の柔らかさと軽さに込められているらしい。
棚に納められているニットは、照明の光を受けててらりと光っている。触るのも、恐れ多い。きっと、給料のほとんどを費やしているに違いない。
それにしても……。
「どうして、俺にこの部屋を教えてくれたんですか?」
「君が、僕が何を着てるか、知りたがるから」
「から?それだけ?」
「……これが嫌なら、友達以上には、なれないし」
「なら、俺は合格ですね」
早瀬は、にっこり笑って両腕を広げた。おいで、とでも言うように。
梶原は、少し迷って、それから早瀬の胸に体を寄せた。
「……忍さん、あれからずっとこうしたかったんです。着てる服ごと、全部抱きしめたくって。柔らかくって、暖かい」
「こういうの、好き?」
「好きです。忍さんが着たい服を着て、それがよく似合ってる。カーディガンの裾が揺れるの、可愛いんですよ?知ってます?」
「知らない、よ」
憎まれ口をききながらもおずおずと、両腕を背中に回して胸をぴたりと合わせると、梶原の体が早瀬の暖かさにしんなりと馴染んでいく。
「僕のこと、まだ知りたい?」
「もっと知りたいです。好きな色とか、一番お気に入りのカーディガンとか、あのベッドのことも」
「知りたがりだね」
「だって……」
腕を緩めて早瀬の顔を見れば、子どもっぽく眉を寄せて口をとがらせていた。
「なに?」
「だって、知りたいです。まだ、何にも知らない」
「少しづつ」
梶原は、小さく笑うと眼鏡をはずして、両腕を早瀬の首に回した。
早瀬は、ぎゅっと梶原の体を抱き寄せて、唇を合わせた。
☆
一世一代の賭けだった。
もし、早瀬が梶原が思うような男じゃなかったら。
もし、早瀬の気持ちが、それほどじゃなかったら。
梶原は、友達も恋も安定した孤独も、全てを一度に失うことになる。
それでも、もう一度抱きしめてほしかった。
もっともっと、強い力で自分に入り込んできてほしくなった。
そして今、梶原はその賭けに半分以上勝ったと言えるだろう。
早瀬の胸の鼓動は早く、自分を抱き寄せる腕は強く、唇は熱い舌に分け入られて中を丹念に舐めつくされている。
こうしている間にも、梶原の中の欲が目を覚ましてしまう。
「……ん、っふ、ふ……」
「んん……あ、や、ばい、です、ね……」
初めての深い口づけに、互いの体が熱くなってくるのがわかる。
その変化が決定的になる前に、梶原は、両腕を首から外すとその場にへたり込んだ。
「ごめん、なさい、あの……」
まずかったかと、早瀬がおろおろしながら同じようにしゃがみこんだ。
「何も、悪くなんかないだろ?」
何で謝るのさと見上げる顔は、小さく笑っている。
早瀬は、ほっとして、折りたたむように小さくなってしまった梶原の肩を抱き寄せた。
「まだドキドキしてる。可愛く誘われちゃいましたね」
「ここまでが限界だよ。この先どうしたらいいかなんて、わからないよ。でも、もう一度」
「キスしたかった?」
目をのぞき込まれて、梶原は小さく頷いた。
「……すっげー可愛い」
早瀬は、梶原の体を強く引き寄せて、すっぽりと包む込むように抱きしめる。
「何度も言うけど、可愛くなんかないよ。こんな、おっさんで、硬くて、痩せてて」
「忍さんが気づいてないだけだよ。可愛いんだよ」
早瀬は目を細めて、梶原の目尻や耳にキスを繰り返す。
「今日の服も、よく似合ってる。……そうだ。白いガウンみたいな長くてヒラヒラするやつ、着てたことあるでしょ?俺が泊めてもらった日」
「起きてた?」
「夢かと思った。ヒラヒラの間から足の先だけ見えて、爪が丸くて、つるっとしてた」
思い出をなぞるように、早瀬は梶原の足の先を撫でる。それから、骨を伝うように甲の上を足首に向けて撫でる。
「くすぐったいよ」
じっとしていられないと、梶原の足がバタつく。その足をつかまえようと、早瀬は梶原の足首をつかんだ。
「暴れたら、危ないですよ?」
ひそめた声で、まるで睦言のような甘い声が梶原の耳をなでる。
肩をすくめて思わず動きを止めると、早瀬の手は掴んだ足首をぎゅっと握り、くるぶしを丸く撫でて、パンツの裾の中に手を入れて脛を撫で上げる。
「あれ……?」
「おかしい、かな?」
「見ても?」
早瀬の気配に、戸惑いはない。あるのは、興味と強い欲求だ。
梶原は、手の中の眼鏡を定位置に戻すと、パンツの裾を膝までたくし上げた。
現れたのは、膝まで真っ直ぐ伸びた白い脛。それは確かに男の足で、早瀬の欲情を誘うには充分に魅力的だった。
「すべすべだ……」
早瀬は、目を輝かせてその脛を手のひらで撫でる。
「こういうの、好き?」
何度目かの言葉をつぶやきながら、梶原はニットの袖もまくった。腕も、同じようにすべらかだ。
「こういうのも、好きです。すっごくきれい……知らなかった、こんな風になるんだ……。あ、俺も同じように剃った方がいい?」
梶原は、顔を赤らめながら首を左右に振った。
「いや、君は、そのままで」
「……どこまで、きれいにしてるの?」
「もう、知りたいの?」
「そりゃ」
「今日は、時間切れだよ」
「えーーー!?」
「声が大きい!夜中だよ。また、おいで」
「だって……」
「少しづつだよ」
梶原は、にっこり笑って、早瀬の顎にキスをした。
☆
それぞれに、それぞれを思う。
心で、頭で、肌で、指先で。
早瀬は、頭が煮立ったようで、とても眠れない。
重なった頬が熱かったこと。
触れた唇が柔らかだったこと。
抱き寄せた肩は、骨の丸みとしまった筋肉で手ごたえがあったこと。
胸から伝わる鼓動が、早く強く、シンクロするようで、見えない素肌を想像させたこと。
何もかもを、ありありと思い出せる。
不埒にも裾から侵入させた手のひらは、思いがけず滑らかな肌に触れた。
その記憶が、さらに妄想をたくましく膨らませる。
自分と同じ男だと思っていたのに、まるで違っているかもしれない。もっと、もっと、見たい。柔らかい布を取り払って、全部を見たい。
その全てを存分に触って、おかしくなっちゃうと泣かせたい。
独りよがりはダメだとわかっていても、焦燥にも似た気持ちがこみあげる。
目尻の泣きぼくろとぽってりとした唇を思い出しながら、溜まる熱を発散させた。
完璧に手入れをしたはずの脛に、手のひらの熱が伝わって熱いくらいだった。
きっと大丈夫だと信じて、もったいぶって裾を持ち上げた。
彼は、気づいているだろうか。
引き上げられる布を追いかけるように、彼の目が動いていたことを。
袖を肘までまくった腕をゆるく掴んだ時、くしゃくしゃの袖の中にそっと二本差しこまれた指が、内側の柔らかい皮膚を撫でていたことを。
もっと、見たい。もっと、触りたい。そう思ってほしくて、みっともないくらいに策を弄した。
一途に欲を募らせていく様を見て、ほっとしながら、引き際を見計らった。
ずっと後になってから、「あの時は、ずるかった」と詰られてもいい。
今は、確実に自分を好きになってもらいたい。
自分との関係を、最優先にしてくれるようになるくらい。
二人の仲を、安全に保ちたいと思ってくれるようになるくらい。
梶原は、今日の目的を達成したことに安堵して、ベッドでふーっと大きく深呼吸をした。
すると、足首に、彼の手のひらの感触を思い出す。
あんな風に、これも握ってもらいたい。
ベッドの中で、もぞもぞとボトムを脱ぎ捨てて、あの手のひらを再現しようと熱に手を伸ばした。
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