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第7話 森の中へ

 昨晩の天気予報では、今日は一日晴れている。 梶原忍は、寝室の窓を開けて冷たい風を入れると、ベッドのリネン類をとりかえ始めた。 シーツもカバーも、好きな色、好きな肌触りのものを、季節に合わせて取り揃えてある。 多分、梶原の「肌ざわり重視」は、子どもの頃の寝床が始まりだ。 ごく普通の家庭だったけれど、洗濯好きの母親は、しょっちゅうシーツを取り換えていた。 気になるから洗ってくれと言えば、しょうがないわねと笑いながらも喜んで洗濯機に放り込んだ。 「洗え、洗え、せんたっき!」と自作の妙な歌を口ずさみながら、洗濯機のスイッチをいれて、子どもの忍に手伝わせて新しいシーツをかけた。 そのシーツも、さらっとしていていい匂いがした。 子どもの忍は、かけたばかりのシーツの上で転がりながら、しわくちゃになっちゃうでしょという母の笑い声を聞いていた。 着る服も、肌ざわりがいいもの、チクチクしないものを選んでもらった。 それが、当たり前だった。 なのに、中学にあがった時から、正確に言えば制服を着なければならなくなってから、様相は一変した。 どうしても、あの硬くて重い服が嫌で、入学してからしばらくは登校が憂鬱で仕方がなかった。 母親に、夏になれば上着を着なくてもいいからと宥められたが、汗も吸わない妙な素材のワイシャツは変わらない。 インナーでなんとか自分をごまかしたけれど、気持ちが悪いことに変わりはない。 ひどい汗疹と硬い襟が首にこすれてできた傷を見せて、ワイシャツだけは、同じ型の違う素材(要するに綿)のものを自前で用意することを認めてもらった。 どうして、皆は嫌じゃないんだろう? どうして、皆は我慢できるんだろう? 梶原には、わからない事も気持ち悪いことも、沢山あった。 小さな頃は、「変わってる」とか「男の子らしくない」と一蹴されて終わった。 でも、子どもはどんどん成長する。 目で見て、耳で聞いた事を学んで、自分と世界との違いを一つずつ見比べていった。 制服をきっかけに、世界と自分との違いに気づいた梶原忍は、それ以外の違いにも気づいていった。 何でも、きれいなものが好き。 乱暴なことは嫌い。 汚い言葉は使いたくない。 ご飯は美味しいけれど、沢山はいらない。 とにかく、気分のいい服が着たい。 誰にも聞かなかったけれど、自分が普通じゃないことくらい、すぐにわかった。 だって。 男らしくない僕は、男なのに、女の子じゃなくて男がいいから。 「着るもの問題」とは別に、中学生になった梶原を悩ませていたのは、頭を置き去りにしたまま育った体だ。 年齢相応に、腹の奥から沸き上がってくる欲に、振り回されていた。 これは男なら当然起こる事だとわかっていたし、対処の仕方も知っていた。だからって、すぐに完全にコントロールできるようになるわけじゃない。 失敗したり汚したりするたびに落ち込んで、そして、同時にこうも思う。 ……なんだ。やっぱり僕は男じゃないか。 どれだけ「男らしくない」と言われても、やっぱりこうなるんじゃないかと腹立たしく思う一方で、誰も好きな人がいないのに、欲だけが先走ることに罪悪感もあった。 本や映像の中では、誰しも簡単に恋に落ちて、くっついて離れて傷ついて泣いて、すぐに次の誰かを好きになる。 その繰り返しの中で、この熱が必要になる時がくるんだろうとわかっていたけれど、梶原には五月雨式に続く恋愛というものが、よくわからなかった。 あれでは、誰でもいいと言っているのと同じじゃないか。 あんなのは嫌だと思う反面、「好き」という気持ちも、よくわからない。 そのくせ自分と同じ男の体にだけ、単純に欲情して熱を貯めてしまう。そんな自分を、嫌らしいと思っていた。 だからこそ、高校での生物の授業は青天の霹靂だった。 罪悪感が耐えられないほどに膨れ上がる前に、まるで違う価値観に出会って救われたような気持ちになった。 あの、紅茶とスイーツを間に挟んで早瀬に話したことだ。 「生物の授業で、求愛行動とか交配とか繁殖とかっていう言葉を知って、ここでは性欲は否定されないんだって、思った。」 生物学では、交尾も生殖もいやらしくない。種の保存のためにも、交尾への欲求はなくてはならない。 動物園は繁殖が一番の目的だし、養殖は卵からの繁殖を目指している。 交尾そのものも、種ごとに色々なやり方があって、どれが普通かなんて意味がない。 魚の性転換や、一部の鳥やほ乳類の同性愛的行動を見れば、雄と雌の線引きも思ったよりずっと曖昧だ。 目からうろこが落ちるとは、この事かと思った。 自分の体も頭も、おかしくない。熱も欲も、自然発生的に備わっているものだ。そして、体をつなげたいという欲求は、おかしなものじゃない。 相手を見つける前から、欲求があるのも、まったくおかしくない(もちろん、人間社会ではコントロールされなければならない)。 しかも、男の相手は女と絶対的に決まっているわけでも、ないらしい。 ……なんだ、そうだったのか。 心がこじれて絡まって解けなくなる前に、自分を許すことができた。 それからは、もう少し気楽に体と向き合えるようになった。 すると、気持ちが解放されたのだろうか。 脳内の妄想は、微に入り細を穿ち、自分好みの状況を描き出していく。 大きすぎない体、しっかりした手、太い首にくっきりと浮き出る筋、早く走れそうな脹脛と足首……。 梶原は、妄想を相手に一人遊びを続け、程なくして自分の指で中をいじることも覚えた。 そうやって、気持ちのいいシーツを素肌で感じながら、自分だけの空間で長い時間一人で生きてきた。 いつか、たった一人の人と出会えれば、その時には深くつながりたいと思いながら。 そして、早瀬陸と出会った。 あの子となら、そんな事ができるかもしれない。自分の全てを晒して、相手の全部を飲み込むような。 ☆  どんなジャンルにも、そのジャンルを愛好する人向けの雑誌がある。 早瀬も、ゲイ向けの雑誌を買って読むことはある。でも、そう回数は多くない。 どちらかといえば、一般の男性向けファッション誌の方が好みだ。 「そうだよ、スーツはこういう風に、肩がびしっと合ってないと」 ページをめくりながら、梶原のスーツ姿を思い出す。 折角の長身も無駄になる、サイズの合わない妙なスーツ姿。大きすぎるのだ。 「……ああ、こっちのこれ、似合うかも」 金髪に青とも緑ともつかない目をしたモデルが、薄紫のゆったりしたカーディガンを着ている。 「でも……」 確かに、カーディガンはステキだし、よく似合いそうだ。 でも、このモデルの写真が良くない。インナーとして着ている白シャツの襟元が、開きすぎている。襟元まできちんとボタンを閉じていればいいのに。コーデュロイのパンツの裾も、折り返さなくていい。裏地を見せたいのはわかるけど、足首とくるぶしは見えないほうが……。 「あ、そっか」 早瀬は、ここに至って、改めて自分の趣味に気が付いた。 萌えポイントと言ってもいいかもしれない。 自分の事を、普通にエロい、普通の男だとずっと思っていた。 でも、どうやら露出は少ないほうがいいらしい。襟元も足首もきちんと隠して、それを自分の手で開いていくのが、いい。 「そういう事か……」 早瀬は、雑誌を見つめたまま、ひとりでに顔が熱くなるのが止められない。 きっかけをくれたモデルを脳内で梶原に変換すると、尖った顎の白人男性は、丸い頬の和風眼鏡男子にかわり、目じりの黒子と柔らかな下唇が色っぽく自分を誘う。 カーディガンに包まれた腕を、手首から肘、二の腕、肩と撫で上げて、襟のボタンを一つはすず。 緩められた首筋に鼻をつっこんで、肩にキスをする。 ほら、もうこれだけで、早瀬の腰に力が入って熱くなってくる。 「……これじゃ、ほんとにガキみたいじゃん」 早瀬は、頭を冷やそうと、洗面所で顔を洗った。 それにしても、考えようによっては、案外都合がいいのではないだろうか。 好みの服だけを着たい男と、その服ごと相手を抱きしめたい男。 被害額を考えると、着たまま行為に及ぶというわけにはいかないけれど。 でも、あの揺れるカーディガンやたっぷりしたセーターの下に手をいれて、シャツの上から背中を撫でたら、きっと暖かくて気持ちいい。 「やっぱ……したい、なぁ。俺がタチで、やらしてくれるかなぁ」 情けなく溜息をついて、もう一度顔を水で濡らした。 早瀬は、どちらも経験はあるけど、できればタチがいい。 どこを、どんな風に触ったら相手が喜ぶか、相手の体が緩んでいくかと工夫するほどに愛着が湧く気がする。 なのに、その場その場で気の合った人とやるだけだったから、いつもその遥か手前で終わってしまう。 梶原となら。 とっぷりと深みにはまるような、いつまでもグズグズ溶けて一つになってしまうような。そんな風にできるかもしれないと、妄想が捗る。 それにしても、彼は早瀬との行為を受けてくれるだろうか? 「忍さんの方が、年上で背も高くて会社でも先輩なんだよなぁ……」 情けない独り言は、深い溜息とともに宙に消えていった。 ☆  滑稽と切り捨てるには、あまりに切ない気持ちを持て余しながら、早瀬は梶原に会いにいく口実を考えた。 強い欲がむき出しにならないような、怯えさせないような、何かが欲しい。 こういう時、役に立つのは、気の利いた贈り物だろう。 単純と言えば単純だけれど、誠意の見せ所だ。 じゃあ、プレゼントには何がいいだろうか? 硬くて重いものは嫌だと言っていた。ならば、腕時計やアクセサリーは使わないだろう。 衣類は好みがある。食べ物は興味がない。マフラーや鞄の類も、肌触りや軽さが問題になるなら、難しい。 カエルが好きなのは知っているけれど、家の中に小物類を見た事がない。カエルグッズ的なものを集めるような趣味もないだろう。 早瀬は、梶原が喜びそうなものはないかと、必死で考える。 あちこち店先をのぞいてみたり、雑誌をめくってみたり、同僚にさりげなく話しをふって、プレゼントに良さそうなものはないか探ってみた。 それでも、なかなか答えはでない。 ある日、昼休み中に外回りから戻ってきた早瀬は、急ぎの案件があったので、課長の席に向かった。 課長は、いつもの愛妻弁当を机の上に広げていた。 「課長、すみません。お食事中ですが、これを先方から預かってきました」 ん、と喉奥で返事をしながら、課長は腕を伸ばして書類を受け取った。 口をもぐもぐさせながら、ペラペラと紙をめくって中身を確認すると、書類の山の上に置いた。 「これ……明日の朝一でいい?」 「はい。お願いします……あの」 「なに?」 「マグカップ、使ってましたっけ?」 「ああ、これか。ペットボトルのお茶をそのまま飲んでるのが、味気なくなってね。ヨメに言ったら、これを持たせてくれたよ。安物だけど、プラスチックよりはずっといい」 「口触りが、違います?」 「そうそう、そんな感じ。なんだか味も変わるような気がするよ」 機嫌良く笑う課長につられて、早瀬もつい笑ってしまった。ありがとうございました、よろしくお願いしますと礼をして、昼食に出た。 なるほど。 飲み物の味が変わるのか。 それなら。 早瀬は、梶原あてのプレゼントを決めた。  用意したのは、手の中にすっぽり収まる小さめのグラス。 ぽってりしたガラスの中に気泡が浮いているだけで、装飾はまったくない。 つるりとした表面は、指に嫌な引っ掛かりもなくなめらかだ。 梶原は、さっそくペットボトルの水をグラスに移して、飲んでみた。 唇に触れるガラスの曲線が柔らかくて、水と同じ温度でひんやりと気持ちがいい。 「ああ、確かに全然違う。ありがとう。でも、どうして?」 「やっぱり、求愛には贈り物、かなと」 「求愛?……君、思ってたよりもずっとクラシックだね」 ふふっと和らいだ笑みが、梶原の口元に浮かぶ。 「や、あの、その、それだけが目的だと思われるのは、困るんですけど……」 「ど?」 「忍さんさえ良ければ、キスよりもっと気持ちいいことしましょう?」 「誘われるのも、悪くないね。でもなぁ……。君を幻滅させるかもしれないよ」 「そんな……」 「案外つまんないかもしれないし、引くほど淫乱かもしれないし」 「……その時だけの忍さんも、忍さんでしょ?」 「ポジティブだなぁ」 逡巡するのか照れているのか、梶原はグラスを手の中で弄びながら俯いてしまう。 早瀬は、そんな梶原の手からグラスを取り上げて、そっと机の上に置いた。 その手の動きを目で追っていた梶原の頬を、早瀬の手が包む。 「お願いです。一度、俺に全部触らせてください」 「僕が、どんな風になっても……?」 「平気です。っていうか、見た事のない忍さんがみたい」 「君ってやつは……僕の負けだ」 梶原の両手が早瀬の首に回って、早瀬の腕が梶原の腰を抱き寄せて、体ごとぶつけ合うように深く深く口づけた。 ☆  キスに酔ったのか、梶原は早瀬の体にぎゅっと抱き着いたまま離れない。 「……忍さん?あの、無理しなくていいいんですよ?」 「無理じゃない、ないけど、この先どうしたらいいんだ?やっぱり、シャワー?」 ああそうかと、早瀬は柔らかく笑った。 その吐息が耳にかかるのか、くすぐったそうに梶原が首をひねる。 「忍さんが気になるなら、シャワーを浴びましょうか。俺は、家で浴びてきたのでなしでも」 「じゃあ、二階で待っててもらうか。僕はシャワーを浴びてくる」 早瀬は、ゆるめていた腕にまた力をこめて、梶原の体をしっかりと抱きしめる。 「苦しいって!」 「だって……だって、すっごい嬉しい!」 「と、にかく、シャワー浴びてくるから。君は!二階!」 返事がわりとでも言うように、早瀬は梶原の髪や首筋に何度もキスをして、それからやっと解放した。 それじゃあちょっと待っててと言い残して、梶原はシャワーを浴びに行ってしまった。 早瀬は、初めて一人で二階への階段を上る。 引き戸の前で少しためらって、それからそっと開けた。 手探りで照明のスイッチを入れると、以前見た時と変わらない大きなベッド。 まだ夕方の日差しが斜めに入っていて、少し時間が早かったかと苦笑いがこぼれる。 窓の外は、眼下に門に向かう庭が広がる。 草抜きを手伝った日はまだ暑かったのに、今は街路樹が紅葉している。 カエルの鳴き声が聞こえていた夏の終わりから、季節が一つ過ぎた。 たったそれだけの間に、梶原忍と自分との距離がゼロになろうとしていると思うと、嬉しくて顔がにやけてくる。 窓ガラスに映る自分の顔が、あまりに緩んでいるのを見て、早瀬はなんとかしかめっ面を作ろうとしてみたが、無駄だった。 振り返れば、薄布に覆われた大きなベッドがある。 天井からつられた布に包まれて、静かだけど存在感がある。その薄布の裾を試しに持ち上げてみれば、やっぱり薄くて軽い。 そして、これから使うベッドのシーツやカバーは、緑の濃淡で揃えられている。 この後、あの人とここに……。 まるで、森の中の巣のようだと思うと、体の奥が熱くなるばかりでじっとしていられない。 早瀬は、何も触らないようにして、一階まで戻り階段の一番下に腰を下ろした。 しばらく待っていると、風呂場の戸が開く音がした。 ……来る。 しばらくして、スリッパが廊下を摺る音が近づいてきて、すぐ側でぴたっと止まった。 「二階でって……」 驚きと戸惑いの混じる声に、早瀬は苦笑いで返した。 「一人であの部屋で待ってると、何か、緊張してきちゃって」 へへへと笑うと、脛の半分まである長いバスローブ姿の梶原が、呆れたように小さく笑ってくれた。 「忍さん」 「何?」 早瀬は、ゆっくり立ち上がると、梶原の片手に自分の手を滑り込ませた。 「俺に、させて?」 「そのつもりだよ」 「怖くないですか?」 「うん……行こう」 軽く顎をあげて、二階を示す。その梶原の頬はほんのり赤く、目じりの黒子が早瀬を誘う。 小さく、でもしっかりと頷いて、早瀬は梶原の腰に腕を廻して階段を上り始めた。

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