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第10話 初めてが始まる
空っぽだった梶原家の冷蔵庫に、食材と調味料が増えた。
台所には、小さなフライパンと鍋が一つずつ。
皿、箸、茶碗、湯飲み、スプーン、フォーク。
二人で使うものも、じわじわと増えていく。
早瀬がいつの間にか持ち込んでいたものもあるし、梶原がふと買い足したものもある。
どれも、互いに相手を思い浮かべて用意したものばかりだ。
梶原にとって、それは嬉しいことだけれど、台所の収納がそれに合わせて増えたりはしない。
置き場所に困って段ボールの上や冷蔵庫の上に重ねていたら、早瀬が何か考えたようだ。
ある日、庭を貸してくれという。
何をするのかと聞いたら、棚を作るという。
「何かあった方が、便利だと思うんですよ。道具はあるから、材料買ってきて組み立てます」
事もなげにそう言った早瀬は、ある天気のいい休日の朝、瞬く間に食器と鍋を並べる収納棚を作ってしまった。
「これぞまさに、日曜大工だ」と笑っている。
梶原にできたのは、ニスを塗る手伝いくらいだったが、早瀬はひどく嬉しそうだった。
できあがった棚に、食器を並べ、小さな籠を用意して二人分のカトラリーを納めた。
「ご飯食べる時、このまま食卓に持っていったらいいでしょ?」
食事を快適に、という発想のまるでなかった梶原は、ずっと阿呆のように感心していた。
「なんだか、ちょっと楽しい……」
「良かった」
早瀬は、満足気な笑顔を見せて、梶原の頬にキスをした。
棚ができて、必要な物が適切な場所に収まると、台所は急に生き生きとしてきたように見えた。
梶原は、自分にできることはなんだろうと考えた。
台所で使うもので自分に選べるものといったら、布巾やタオル類しか思い浮かばない。それでも、カトラリーと同じように引き出せる籠を用意して、用意したものを並べてみると、すっかり台所らしくなったような気がした。
それはまるで、自分が人間らしくなったようでもあって、梶原はなんだか顔が笑って仕方がない。
くすぐったいような、照れ臭いような。
でも、これでいいんだなと思う。
早瀬のもたらす様々な出来事が、梶原の胸の内を明るくしていった。
☆
男という生き物はどうしようもなくて、いくつになっても、モテる自慢がしたいらしい。
特に、営業という種族は競争心が強い。
もちろん、仕事上はそれで構わないのだが、仕事以外のプライベートな事まで競争したがるのが困る。
お前も何かネタはないのかと聞かれても、ゲイの早瀬には、職場で話せるようなモテ自慢話は一切ない。
もちろん、過去に色々あったわけだし、その日限りといっても相手が誰もいなくて困るなんていうことはなかったのだから、まるでモテないということではないはずだ。
でも、それを口にするのは、憚られる。
彼らの話題は、どんな女にモテたか、という一点に絞られているのだから。
……お持ち帰りね。あー、そうね。してみたいよね。
聞くだけの立場になるとよくわかるが、中身のない自慢話ほど聞き苦しいものも、そうそうない。
早瀬は、以前は曖昧にその場をごまかしていたけれど、最近はきっぱりと「今は、蒸気機関が一番」と言い切ることにしている。
実際、蒸気機関が好きなことに、嘘偽りはない。
だから、質問されても慌てることなく、信ぴょう性も高い。
ついでに「恋愛には、あまり縁がなくて」とでも言っておけば、相手は勝手に納得してくれる。なんなら、「その内鉄道マニアの子で良い子がいるよ」なんて慰めてくれさえする。
嘘も方便というところだ。
そうやって、「普通の男」の会話をやり過ごした後は、殊更梶原忍に会いたくなる。
好きだという気持ちを乗せて見つめ合えば、二人の間に引力が起こる。その力が、互いの肌を触れ合わせる。
穏やかで、優しくて、柔らかくて、甘くて……。
ぼんやりとした頭に、電話の外線着信の音が響く。
営業の性で、瞬時に受話器に手を伸ばした時には、もう頭は仕事モードに切り替わっていた。
☆
そして、時間の許す限り、二人は一緒に過ごす。
冬の夜は早く訪れて、その時間を日に日に長くしてくれる。まるで、二人の味方をするように。
今日の二人は、二階といっても寝室ではなくオープンクローゼットと化した続きの間にいた。
早瀬が、沢山ある服を見せてほしいとねだったのだ。
「どれも、あんまり変わり映えはしないんだけどね……」
そんな事を言いながら、梶原は気に入っているカーディガンやコートをインナーと組合せながらハンガーにかけていく。
「うわっこれ、かっこいー!」
「羽織ってみたら?」
「え!……じゃ、あの、ちょっとだけ……失礼しまーす」
嬉しそうに相好を崩しているが、恐る恐るハンガーから外したのは、カーキのスプリングコートだ。
表はつるっとしているが、寒さ対策か、裏地が起毛になっている。
梶原好みに、全体に軽やかにゆったりとしていて、飾りの肩章もない。広い襟をたててボタンをとめれば、首がすっぽり隠れる。
膝が隠れる着丈と相まって、縦長のシルエットができあがる。
「おー。これ、何てことないのに、着るとかっこいい」
「気に入った?」
「あー、はい。あの、ありがとうございました」
「欲しい?」
「……うーん。欲しいですけど、ほんとに欲しくなったら買うんで、店を教えてください」
「……そうだね。うん。そうしよう」
早瀬には、自分がこれが欲しいと言えば、梶原はくれようとするだろうとわかっていた。
でも、それは何かが違うような気がした。
追いつきたかったら、がんばって追いつかなきゃいけない。
値札を見たら、きっと仰天するだろうことが想像できるものを、もらったりしてはいけないのだ。
「ああ……君は、コートの着丈はもう少し短くて、ウエストを絞ってるほうがいいと思う」
「そう、ですか?」
「うん。多分ね。これ、着てごらんよ」
梶原が差し出したのは、ツイードのジャケットだ。細めの襟にレザーが施されていて、ボタンも同じ色をしている。
言われるままに袖を通すと、梶原が背後にまわった。
「なんですか?」
「前を向いてろ。これを、こうすると……」
「あ、違う!」
背中のウエスト部分についている、小さなベルトを軽く絞ったのだ。
「もっと絞ってもいいと思うんだ」
「おおーー、俺ちょっとかっこいい!」
早瀬は、そう言いながら梶原の腰を抱きかかえて鏡の中で並んで見せた。
「惚れ直す?」
「今更?」
くくくと笑って、梶原は早瀬の鼻をきゅっとつまんだ。
「ねぇ、しのぶさん」
「ん?」
「夏の、あのヒラヒラみたいな、薄くてきれいなの、ない?」
「……あるよ」
「着てみせてよ」
「……じゃ、ちょっと向こう行ってて」
梶原は、睨むようにして廊下を指さした。
早瀬は、にっこり笑うと、ジャケットを脱いで部屋を出た。
梶原は、ハンガーをかきわけて、夏ものをしまってある棚から何枚かロングガウンを取り出した。
白の綿ガーゼ、黒のレース、紺のリネンガーゼ。緑のリネンガーゼは、太い縞模様だ。
そして、一枚だけ赤がある。織りの名前は知らないが、ガーゼとはまた違う透け具合で、白と重ねて着たり、白、緑、赤と重ねて、ヒラヒラと揺れる裾を楽しんだりした。
今は、どれがいいだろう。
どれが一番喜ぶだろう。
梶原は、さんざん考えて、白と紺を重ねることにした。
あの時と同じように、白のコットンパンツを履いて、素肌にガウンを羽織った。
☆
廊下で待つ早瀬は、戸が開くのを見逃すまいと、じっとしていた。
しばらくすると、こちらに近づく気配がして、戸が細く開いた。
「待たせた」
その声を追いかけて、早瀬は勢いよく戸を開いた。
そこには、自分に背を向けて立つ梶原のシルエットがいた。
「しのぶさん?」
声をかけると、ゆっくりと梶原が振り向いた。
紺色が透ける白い布は、その動きを追いかけるようにゆらゆら揺れている。
「多分、こんなのだろ?」
照れくさそうに目を逸らしてガウンの襟元を掴む姿に、早瀬の心は浮き立つ。
「そう、こんな感じ。二枚重ねもきれいだ……」
早瀬は、数歩近づいてつくづく眺めると、ガウンごと梶原を緩やかに抱き寄せた。
「すっごいきれいで、照れてるの、可愛いね」
「ほんとに君は莫迦だなぁ」
「二枚重ねとはいえ、上はガウンだけってセクシーだね」
「あの時は、夏だったから……」
本当は、何か上手いほめ言葉を乱発したほうがいいのかもしれない。でも、早瀬にはもう、その余裕がなかった。
照れて、恥じらって、それでも平静を保とうとする人が、可愛くて触れたくてたまらない。
眼鏡はよく似合っているけれど、こういう時はどうにも邪魔だ。
早瀬は、するりと眼鏡をはずして、瞼に額に、キスをちゅちゅちゅと落とした。
「……なに?」
「可愛い」
「君の可愛いは、なんていうか、ちょっと響きがやらしいよね」
「そう?良かった」
何が!とかどこが!とかいう抗議の声は、キスで塞がれてしまった。
ずくずくと胸の奥が鳴って、じんじんと腰が熱くなって、びりびりと背骨がしびれて嫌がるふりもできやしない。
それでも、ここは心を鬼にして、ストップをかけなければならない。
「ちょっ!ちょっと待て……待てって!!!」
動きを止めた早瀬が、情けなさ100%でじとっと梶原を見つめる。
「……だめ?」
「だめ?じゃなくて!このガウンは、そういう事に向いてないんだよ」
「あっ!」
早瀬は、慌てて梶原の体を解放する。
「あの、あ、ご、ごめんなさい。あの」
「大丈夫だよ。怒ってない。それに、まだガウンも痛んでない。ほんとの事言えば、破れたってまた買えばいいんだけど、それじゃ君が悲しむだろ?」
「……ちなみに、お値段は……?」
「聞かないほうがいいと思うよ?」
早瀬が、絶望的な気分に落ち込みそうになっていると、梶原がひらりとガウンを脱いだ。
目の前には、今さっき布越しに感じた体がある。
「君、落ち込んでる場合じゃないんじゃない?夏と同じ格好をしてるんだよ?僕は」
そう言いながら、コットンパンツのウエストの片側に親指を引っ掛けて、腰骨までぐっと下げてみせた。
「あ……」
瞬時に理解した早瀬は、梶原をぎゅっと強く抱きしめた。
よく、できました。
そう耳元で囁いて、梶原は早瀬の首に両腕を巻き付ける。
「僕は、やっぱりいやらしい。会うたびに君を誘惑して、君にしてもらうことばっかり考えてる」
「そうしてほしくて、そうなりたくて、俺は来てるんですよ?いっぱい泣かせたい」
「お互い様なら、いいのかな」
「もちろんです。……あ、そうだ」
「なに?」
「しのぶさんがしたかったら、俺、いいですよ?」
「僕が、入れる側になるってこと?」
「はい」
「僕が……?そうか、なるほど、カタツムリだ」
「かたつむり?」
「後で説明するよ。今は……」
梶原は、腕を緩めて、精一杯甘い目をしてキスを誘う。
その誘いにのせられた男は、遠慮なく、ぽってりとした唇を味わうことにしたのだった。
☆
「あなたの気持ちを、大事にしたい」
つまりは、そういう事を言いたいのだろう。だからこそ、タチの自分を引っ込めて、ネコになるのもやぶさかでないなどと言い出したのだ。
そんな早瀬の気持ちが嬉しくて、梶原の胸にぽっと火がともる。
それと同時に、自分たちは、まるでカタツムリのようだなとも思った。
彼らの仲間は、雌雄同体だ。広い世界で、やっと出会えた同属と確実に次の世代を残すために、体の一部を伸ばして互いの体を繋ぐ。
そうやって、お互いを交換するように受け渡しあって、それぞれに卵を育てる。
梶原と早瀬は男同士で、どちらも入れる機能を持っていて、受け入れる機能も、手間をかければ使えなくもない。
だから、少しだけ似ていると思ったのだ。
早瀬の申し出は素直に嬉しいけれど、直感的に、その必要はないとも思う。
梶原は、征服するより独占したい。
カタツムリには悪いけれど、卵も子どもも欲しくない。
欲しいのは、目の前の早瀬だけ。早瀬以外を、早瀬以上に大事にすることなんて、今は思いもつかないらしい。
やっぱり自分には、蛙が似合いだ。
ぎゅうぎゅうと愛おし気に抱きしめられて、昂った体をこすり合わせて、気持ち良いと淫らに鳴いて、その頂点で欲を放つのだ。
深緑の褥の上で、早瀬は梶原を膝の上に抱きかかえるようにして、その身を深く沈めている。梶原は、早瀬の首には腕を腰には足を絡めて、しっかりと抱き着いている。
「早瀬、早瀬……」
「ん?なに?」
「そこ、それ、いい、好き、早瀬、好き……」
「しのぶさん……!」
梶原の頬を分厚い手で包んだ早瀬は、嬉しいと目を輝かせている。親指で、やさしく目じりの黒子を撫でて、反対の頬にそっと唇を押し当てる。
まるで、騎士が手の甲にキスをするように。
「忍さん、俺のこと、好き?」
「好き、好きだ。君が、好きだ。もっと、何度でも、君とだけ、もっと……」
「あああああ、も、ちょっと……!」
何かをこらえるように、早瀬が目をぎゅっとつむり、梶原の背中と腰を支える手のひらを、強く握りしめる。
「やっと言ってくれたと思ったら、そんな、大盤振る舞い過ぎ……」
「君にばかり、言わせたから……言って、おかなきゃって……」
動きを止めた早瀬の背中を、梶原の指先が腰から肩甲骨にかけてそっと撫で上げる。
ぽってりした唇で耳たぶをつまんで、耳の下から顎の先までを舌先でついとなでる。
それでも、早瀬は動かない。
ずくずくと、肉の鼓動は体内に響いてくるのに。
きゅうきゅうと、その塊を柔く強く締め付けてしまうのに。
「……はや、せ、なぁ、あの」
困ったと眉を下げて、梶原が早瀬の二の腕や腰を手のひらでさする。
「なあに?」
さっきまでの動揺は何処へ行ったのか。早瀬はにやりと笑って、どうしたいの?と聞いてくる。
「わかってる、くせに……」
「教えて」
握りしめた拳を開いて、ぎゅううっと梶原の体を抱きしめながら囁く。
梶原は、それだけで全身がぶるりと震えて、また露が溢れる。
意地悪だ、ずるいと思う。でも、この先の刺激が欲しくて、言葉がこぼれる。
「だから、動いて……お願い……っんんんっ!」
自分から唆しておいて、早瀬は言葉が終わるのを待ちきれない。
ぐいと腰を突き出して、梶原の体ごと大きく揺すると、甘く響く声と吐息に夢中になった。
☆
くったりとベッドに倒れ込んだ梶原は、柔らかな上掛けごと暖かくくるまれている。
薄く目をあければ、すぐ目と鼻の先に早瀬の喉と顎の先が見える。
視線をあげていけば、口元の黒子、唇、鼻、そして、優し気に見下ろす目とぶつかった。
「……あれ、少し眠ってた?」
「ちょっとだけです。寝るっていうか、意識が飛ぶ感じかな。気分悪くない?」
少し心配そうに、でも嬉しそうに、早瀬は指の背で梶原の頬を撫でる。
「大丈夫」
「良かった」
早瀬は、ちゅっと梶原の額にキスをして、それから腰に腕を廻した。
「もう少ししたら、シャワー浴びましょうね」
大人しく頷く梶原の髪や背中を、早瀬はゆっくりゆっくりと撫でる。細めた目で見つめて、ふわふわと唇で顔を撫でていく。
「……何か、あった?」
「俺、嬉しくって」
「何が?」
「忍さんが、好きって言ってくれたこと。すっごくすっごく嬉しいんです。えっちできるようになったのも、嬉しいことだけど、気持ちがすごくうれしくて」
「ああ……」
改めて思い出すと恥ずかしいのか、梶原は目を伏せる。
そのまま、額を早瀬の胸につけて顔を隠してしまいそうになるから、早瀬はその頬に手を添える。
「好きです。忍さん」
「……うん。僕も、君が好きだ。待たせて、ごめん。いつ言ったらいいのか、わからなくて」
言葉が遅くなった詫びをと思って言葉を重ねるほどに、早瀬の顔が緩んでいく。
「……君、少しデレデレしすぎじゃないかな?顔が崩れっぱなしだよ」
きゅっと頬をつねってみても、早瀬の目じりは下がったままだ。
「だって、嬉しくって」
幸せだ、嬉しいと全身で訴えてくる男は、梶原の荒っぽい扱いにも相好を崩したままだ。
まったく仕方がないなと、呆れたように溜息をつきながら、梶原はもう一つ早瀬を喜ばせることにした。
「……今日、泊まってく?」
「……いいんですか?」
早瀬は、ぱちくりと瞬きをして、驚いた顔をした。
「君が、よければ」
「もちろん!じゃ、あの、今日は一緒に寝ましょう?」
「そうだね。カタツムリの話も、しよう」
「はい。あの……」
「何?」
「もう一度、言ってくれません?好きって」
「ああ……」
何を言われるのかと身構えていた梶原は、緊張を緩めてにっこりとほほ笑んだ。
「……これから、飽きるほど聞くことになるから、覚悟しとけよ?」
「はい」
梶原は、鼻と鼻がぶつかりそうなくらい近くに顔をよせて、そうしてそっと囁いた。
「君が、好きだ」
早瀬の体がぶるりと震えて、梶原の体をぎゅーっと抱きしめる。
言葉はなくても、正直に早瀬の体がぐんぐん熱くなっていく。
その熱に煽られるように、梶原の唇が早瀬のそれに重なった。
初めて、欲しいと思った。
初めて、誘うような真似をして、初めて、キスをした。
初めて、裸の自分を晒して、ぐちゃぐちゃになるまでくっついていた。
全部、君と。
これからも、君と。
君が、とても、好きだ。
ー 終 -
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