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第9話 冬ごもりはあなたと
冬が来た。
河岸の生き物たちは、あるものはその命を終え、あるものは南へと飛び、あるものは土に潜って眠りについた。
高い高い青空には、細長い筋雲がレースのように吹き流されて、土手を覆っていたススキや葦は、立ち枯れたまま朝日に照らされていた。
その寒空の下、早瀬は土手を走っている。
梶原は、その男を待っていた。
どの位土手に立っているのか、防寒装備でいつもより幾分丸く見えるが、冷えた鼻は赤く、吐く息は煙のように白い。
あと少し。あのカーブをゆるやかに曲がると、あの人が見える。
規則的に白い息を吐きながら、早瀬は走る。
じっと川を見つめていた梶原は、スマホを取り出して時間を確認した。
そのまま、太陽の方向に目をやれば、走るシルエットが近づいてきていた。
「お待たせしました」
「やあ」
荒い呼吸の合間に、早瀬が嬉しそうに笑った。
「先週よりも、ぐっと冷えましたね」
「だな。でも、太陽が出たから」
梶原は、眩し気に手を額にかざして、早瀬の背後に目を移す。
その視線につられて、早瀬も振り返る。
「おー。あったかい」
「やっぱり、太陽はすごい」
ダウンジャケット、カイロ、帽子、マフラー、手袋とまだ早すぎるほどの重装備をしても、太陽の光がくれる暖かさは、それをはるかに上回る。
「帰ろう。汗が冷える」
梶原は、くるりと振り返って歩き出した。その後を追った早瀬も、すぐに隣に並ぶ。
まるで、ウォーキングに勤しんでいるような早歩きで、二人は無言で土手を歩く。
歩いた先には、タイマー予約をした風呂が、ほかほかと湯気をあげて待っている。暖房をいれた部屋で、新しいシーツだって待っている。
早瀬はときめきと下心を、梶原は整っているはずの室内の様子を、それぞれに頭の中で転がしながら、一心に歩いた。
☆
梶原の自宅の風呂は、一人暮らしには不似合いに大きい。ファミリー向けとしても、大き目かもしれない。
何でこんなに?という早瀬の問いに、「好きな場所に、広くスペースをとったんだ」と事もなげに答えた。
実際、興味の薄い台所はごく簡素で、システムキッチンの調理スペースはひどく狭い。
その風呂を、幾度か借りるうちに、色々なことに気が付いていった。
全体が白いので、明るく広く見えるのはいいが、実際に天井も高いので、室内が暖まるまで少し時間がかかる。
細身のシャワーヘッドは、湯量が細かく調節できる。でも、いつも少し高い位置にホルダーがセットされている。自分より背の高い人だったなと、そんな所でも気づかされる。
目の高さに大きな窓があって、窓を開けて庭木を見ながら湯船につかれば、ちょっとした温泉気分が味わえる。
曇り止めの施された大き目の鏡、大小の棚と並んだボトル、ミントの香りの石鹸やかみそりを置くための水切りもセットされている。
ここが、快適な風呂タイムを実現するために設えられた場所だと思うと、何やらいたずらに胸の奥がうずうずする。
毎日、どんな風にここを使うんだろう。
どうやって、身づくろいをするんだろう。
莫迦だなと思いながらも、早瀬は自分の想像を止められない。
……そうだ、呼んでみよう。断られたらそれまでだ。強く言わないように気を付けて……
早瀬は、風呂の戸を細くあけて、梶原を呼んでみた。
「忍さーん」
「んー?」
遠くから返事をする声がして、足音とともに梶原が風呂の戸の前に立った。
「呼んだ?何か、足りないなら……」
「忍さんも、風呂入りません?寒いでしょ?」
「……は?」
「いや、俺もう湯船で暖まってるし、洗い場広いし、忍さんが来ても全然平気だなーって」
風呂の外に立っている梶原は、早瀬からの突然の提案に咄嗟に頭が回らず、言葉が出ない。
……何でそんな事言うかな……
梶原の脳内では、瞬時に羞恥と憧れと欲とその他諸々が駆け回る。
結果としては、憧れと少々の欲が勝った。
「……のぼせないように、水持ってくるから」
だから、待っていろという意味だろう。
戸の向こうの人影は消えて、足音だけが残った。
湯船の中の早瀬は、返事もろくにできずにぽかんとしていた。
……うっそ!来てくれんの!?
それからの数分を一時間にも感じつつ、早瀬はソワソワソワソワしていた。
すると、戸の向こうで衣擦れの音がして、戸が小さく開いたかと思うと、ペットボトルの水が二本にゅっと突き出された。
早瀬がそれを受け取ると、冷気が一瞬吹き込んだ。その冷たさに逸らした目をあげると、目の前には梶原がいた。
「しのぶ、さん……」
「なんだよ。来いって言ったのは、君だろ」
すぐにシャワーのコックをひねって、梶原は頭から湯をかぶる。
もうもうと白い湯気が立ち上がるけれど、その長身を隠すにはいたらない。
泡立つ石鹸が喉や肩を蔽い、背中を流れ落ちていく様までたっぷりと鑑賞できた。
「君は、もう少し、そこにいられるんだろ?」
「……はい」
照れくさいのか、梶原は早瀬の顔を見ようとしない。俯いたままで、体に残った泡を全部洗い流して、湯船に身を沈めた。
早瀬は、この先どうなるんだろう、どうするんだろうと思いながらも、期待(というか下心?)があふれ出ないようにぎゅっと口を閉じている。そんな男には構いもせず、梶原は湯船の縁に肘をついて、ペットボトルの水をがぶりと飲んできゅっと蓋をしめた。
「で?君は何がしたいんだ?」
徐に振り向いて、濡れた前髪を掻き上げた。幼い顔立ちが急に大人びて、早瀬の喉が鳴る。
「何、が……?」
「何かしたい事があるから、僕を呼んだんだろ?」
「……しのぶさんが、風呂を使うところが見たかったんです。ほんとは、どうやって身づくろいをするのかも」
「好奇心は猫をも殺すよ?仕方がないなぁ」
呆れたような、ほっとしたような。そんな雰囲気で目元を緩めて、くくくと小さく笑うと硬くしていた体を緩く伸ばした。
今や、早瀬と梶原は向かい合っている。長方形の湯船の短い辺に背中をもたせかけた状態で、互いの足を延ばせば、嫌でも絡む。
梶原は、親指の先で、やさしく早瀬の腰をなでる。
「しのぶ、さん?」
「莫迦だなと思うんだけど、ちょっとした憧れがあってね。こうやって、湯船で……?」
話の途中で、早瀬が腕を伸ばして梶原の手首をつかんだ。
「なに?」
「きっと、こういう事じゃないかなって」
早瀬は、掴んだ手首をゆっくり引いて梶原を抱き寄せると、その柔らかな内腿に硬くなり始めた自身をゆるやかに押し当てる。
「半分当たりってとこかな。ゆっくり、触りあいたいんだ」
「……それ、いいですね」
「そう?」
梶原は、乱れた前髪をもう一度掻き上げて、真っ直ぐに早瀬の目を見つめる。そして、内腿に充てられた熱をゆっくりと撫で上げはじめた。
「……っちょっ……っ」
「やってみて、いい?」
「もちろん」
どうして湯船でとか、何かで見たの?というような真っ当な疑問と、手だけかなとか、どこまでしていいのかな?なんていう不埒な想像が駆け巡って、早瀬の脳は処理を停止してしまった。
ただ、気持ちいいと感じる気持ちが、腰をいたずらに蠢かせて、高まる熱のやり場を求めている。
一心に手を動かしながら、早瀬の胸や首筋に唇を押し付ける梶原の髪が、目の前で揺れている。つい、くしゃりと掴んだ。
「……?」
顔を上げて早瀬を見つめるその目には、何?と問いかけるような色が浮かんでいる。
「キス、して?」
早瀬の願いは聞き届けられて、梶原が片腕を首に巻き付けて強く唇を重ねてきた。
すぐに絡み合った舌は、甘く淫らに水音を響かせる。
「……っふ、も、だめ」
キスの合間にそう呟くと、梶原は両腕で早瀬の首にしがみついた。
そして、早瀬の腹に自分のものをこすりつける。
「はやせ、も……」
湯船のお湯がちゃぷちゃぷと波打っている。
早瀬は、梶原の頬にチュッとキスをして、それから待たされて焦れた腰を強く掴んだ。
そのまま、ゆっくりと自分の熱を早瀬の熱にこすり合わせれば、びくびくと動いて、ぶつかったり離れたりしながら、互いを呼びあっている。
「はや、せ、一緒に握って……!」
耳元に注ぎ込まれた誘いに乗って、早瀬は、片腕で梶原の腰を強く抱き寄せて、片方の手で二つを握った。
すると、梶原が自分で体をゆすり始めた。
「あ……あああああ、んんん、あ、や、はやせ、あ」
「しのぶ、さん、可愛い、いい、もっと……」
梶原は、早瀬の唇を強く吸い口蓋を舌で強く擦る。
早瀬の親指が、先端をこするのに呼応するように。
「んんっんんん!……」
びくびくびくと体を揺らして、梶原の熱が吐き出される。数秒も遅れずに、早瀬も全てを吐き出した。
白濁は、水底にゆっくりと沈殿しながら二人の体を汚した。
「……っは、あ、しのぶさん、すげー可愛いね」
ちゅっと耳にキスをして、早瀬は梶原の体を強く抱きしめる。
「早瀬は、ほんとに、引かないんだな」
「引く?」
「僕の、こんな有様にだよ」
「すっごい可愛いよ?もっともっとえっちでも全然平気。むしろウエルカム」
「……君、莫迦だろ?」
「しのぶさんもね」
もう一度深くキスをして、それから二人は水を飲んだ。
500mlなんかじゃ足りなくて、シャワーを浴びなおしてバスローブのまま居間に転がって、熱を冷ましながら追加で飲んだ。
たまった欲を吐き出して、きれいな水を飲み干す。
そしてまた、磁石のように引き合って、転がったまま抱き合ってキスをしてくすくすと笑いあった。
☆
ずっと一人だったけれど、すっかり早瀬が家にいることに慣れた。
自然に彼を招き入れ、一緒にお茶を飲み、二階の寝室へも誘う。
けれど、早瀬の態度はきちんと使い分けられている。
会社にいる時は、極力梶原と接触しない。会った時には、笑顔と会釈のみ。用事があれば、普通に後輩として接する。
梶原の家の、庭と玄関や軒下を含めた辺りでも、仲の良い友達止まり。甘い空気が漂うのは、玄関から奥まった居間に入ってからだ。もちろん二階では、遠慮なく濃厚になる。
そのふるまいを、梶原はありがたいと同時に好ましく思う。
慣れ合いが、二人の今を壊してしまったら、元も子もないからだ。
そして湯上りの今は、ほわほわと甘い空気を漂わせる時間だ。
しばらくごろごろした後、湯冷めをする前に服を着て、カフェオレを淹れた。
早瀬は、専用のマグを用意してもらったのが嬉しくて、湯気の向こうの梶原を眺めながらぼんやりしていた。
すると、梶原がぽつりと呟くように話し始めた。
「人事の面談……、受けた?」
まっすぐに早瀬を見つめる梶原は、さっきまでの緩んでいた空気をすっかり捨て去って、会社での顔になる。
手首を覆っていたカットソーとセーターは、無意識にたくし上げられて、筋張った腕が肘の手前まで見えている。
早瀬は、マグカップを食卓に下ろして、少し姿勢を正した。
「週明けです。火曜日だったかな。人事の課長の面談です」
「ああ、君は課長か」
「忍さんくらいだと、部長でしたっけ?」
「うん。まぁ、部長でも課長でも聞くことに大差ないけどね……」
そう言いながら、思案顔でカフェオレをぐいと飲む。
胡坐のせいで、膝に敷かれた足の指先が、少しイラついたように揺れている。
「何かありました?」
「うーん。……僕は、先週だったんだけど……」
梶原の面談は、聊かいつもと違った。
多分、勤続年数と年齢のせいだ。
例年は仕事内容や、職場の人間関係、異動の希望などについての聞き取りだったが、今回は人事からの質問の場だったのだ。主に、梶原のプライバシーにかかわる範囲について。
部長は、さりげなさを装って質問してきた。
「君の、その、噂というか……そうだ、結婚の予定は?」
プライベートなことに立ち入っているという自覚があるからこそ、聞きにくいのだろう。
部長は、目をうろうろと泳がせながらも、両手を机の上でしっかりと組んで、梶原に問いかけた。
「結婚の予定はありません。はっきり聞いていただいて、構わないですよ?人事が個人の事情をきちんと秘匿してくれるという事については、私もわかっています。噂通り、確かに私は女性に興味はありません。ついでに、結婚にも興味はないんです」
「なら、少し具体的に聞かせてくれ。僕らが聞きたいのは、LGBTと言われる人たちのように、何か配慮は必要だろうか?という事なんだが……」
梶原は、部長と目を合わせてにっこりと笑って見せた。
肩の力を、抜いてほしいと思っているのは、伝わっただろうか。
「僕には、特に必要ありません。頭も体も全部男です。トランスジェンダーではありませんから。強いていうなら、結婚については、そっとしておいていただけるとありがたいです。でも、それって性的少数者とは関係ないですよね?」
「……確かに。色々な事情で、結婚をしない人がいる事は承知している」
といっても、部長の頭の中にあるのは、親の介護や個人的な借金の類だろう。
どう誤解されても構わない。
放っておいてもらえれば、それで御の字だ。
「僕も、今の職場に満足しています。できれば、このままでお願いします」
安心したのか、部長は深く息を吐いて、わかったと答えた。
「……という感じだったんだ。君も、今はよくても30才になる頃には、色々言われるかもな」
「なるほど。じゃ、何か上手い口実でも考えときます」
「嘘をつくとどこかでボロがでるから、すれすれでも実態に近いほうが、無難だよ」
早瀬は、神妙に頷いた。
すると、梶原の手が伸びて、頭をするりと撫でていった。
「……?」
なんで?と目をあげると、袖を下ろしながら申し訳なさそうな顔をしている。
「忍さんは、何も悪くないよ?」
念のためと言葉にすると、梶原は一瞬驚いたように目を開いて、それからくしゃっと笑った。
「そうか、そうだな。僕たちは悪いことはしていない。ただ、大っぴらにすると周りが驚くから、静かにしてるだけだ」
「そうそう」
負けずに早瀬もにっこり笑い、梶原の眼鏡に指をそえる。
「外してもいい?」
「階段が……」
「手、つないであげるから」
「なら……どうぞ」
梶原は、顔をあげて目を閉じた。柔らかな唇が、その丸い頬に触れて丁寧に眼鏡が外されると、肩に手を添えらえて立ち上がった。
準備はできている。さぁ、森の奥へ。
☆
カラカラに乾いた土が水を吸うように、早瀬からの愛も欲も情も優しさも、全てを吸収しようとしているらしい。
梶原は、早瀬と二人でいると、触れたくてたまらなくなる。
これでは、年老いた吸血鬼のようだとも思うけれど、早瀬は厭うどころか惜しみない情熱を注いでくれる。
誰か一人の人と出会えないのなら、ずっと一人でいようと思っていた。
出会えたら、その人と全てを繋げたいと思っていた。
梶原は、己の粘膜で触れる全てを感じて、正直にその姿を変える。
目の前には、愛おしい男の顔が汗に濡れている。寄せられた眉頭と細めた目に背骨が痺れる。
限界まで広げられた内臓は、本来の役割を忘れて、熱く長い塊を押し包んでいる。
「あ、あ、あ、んんん……」
「ここ?いい?」
「ん、あ、んん、だ…め、そんな、動いちゃ、あ、あ、あ……」
「だって、ここ、いいでしょ?すっごい可愛くなるし……ほら、こっちも濡れてる」
早瀬は、わざと腰を揺らしながら、すんなりと伸びた梶原の熱を扱いて、露の音を聞かせる。
「や、莫迦、あ、んんんん、も……」
も、うだめなのか
も、っとしてほしいのか
も、っと違う場所がいいのか
早瀬は、何を所望されているのかを考えながら、ぐっと梶原の腰を起こしてキスをする。
唇の上も下もしゃぶって舌を吸って、くすぐるように口蓋を舐めると、唆すように囁く
「もっと、どうしてほしいの?教えて?なんでもしてあげるから」
目も口もとろんと緩んだ梶原は、素直にその要求を言葉にする。
「あ、あ、ここ、きゅって……」
梶原は、自分の乳首をつまんでつんと突き出す。
その事自体にも欲を煽られるのか、早瀬を包む輪がきゅっと収縮する。
「指でつまんでほしい?吸ったほうがいい?」
「ど……っちでも、いいから、早く……んんん!」
大丈夫、おかしくないよ、普通だよ。もっとえっちでいいんだよと、幾度も言った。
安心するほどに、梶原の欲は解放されて、早瀬は深みにはまるようにその人に溺れていく。
誰でもいいと、焦った過去がばかばかしい。
無味乾燥で、乱暴で。あんなの、ただの運動にすぎない。
誰でもいいわけじゃないんだ。
この人でなきゃだめなんだ。
この人とだから、これほどに淫猥に濡れて触れ合っても、どこか清々しい。
今も、すっかり体を明け渡し、深く受け入れるために自分で自分の足を抱えている。
この体勢が苦しいことは、早瀬もよく知っている。
それでも、気持ちいいと鳴き声をあげる人が可愛くて、少しでもよくなってほしいと求められるままに動いている。
どうか、どこも傷つくことなく、気持ち良さだけを感じていてほしい。
もうお腹いっぱいだよと、苦笑いしてほしい。
背筋を駆け上がるぞくぞくとした感覚と、抱きしめた体のびくびくと揺れる振動に、早瀬の心は溢れる程に満たされていた。
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