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滋養豊富 風味絶佳[2]
“close”の札のかかったドアを開けると喘ぎ声が聞こえた。
もうそろそろ開店だろうにあのおっさんは相変わらずだ。おそらく開店準備は全部終わらせてるのだろうけど。そういうところは異常に要領がいい。
「マスター、煙草買いに来た」
「やっ……あっ、誰?」
「おぅ一輝。交ざるか?」
突然見慣れない人間に情事を見られて逃げようとする男性を、マスターは笑って膝の上で抱え直した。背面座位で乗せてるから、顔も身体も丸見えだ。新しく雇ったのだろうか、いかにもマスターが好みそうな綺麗なタイプの二十歳過ぎ。程よく筋肉のついた細身の身体もなかなかだった。しかし――
「いい。気分じゃない」
「最近枯れてんな」
「何かもう飽きた。それより缶ピ」
「やりたい盛りの十代でもうそんなんじゃ人生半分以上損してんぞ。そこに置いてあるから持ってけ。金もそこ置いとけ」
カウンターの端に小さな紙袋。中を確認すると青い丸い缶が二つある。しかし――
「……釣り」
「あぁ?もうめんどくせぇなぁ。ツケとくから次回まとめて払え。どうせすぐなくなんだろ」
「次来るときはロングピースも一カートン入れといて。じゃ、お邪魔しました」
俺が去るまで堪えていたらしい嬌声が背後で再開した。
中学生の頃同じような場面に遭遇し、交ざるかと言われて頷いた。既にセックスの快楽は知っていたし、男だとどうなるのか多少の好奇心があった。気がついたら自分も挿れられていたが、それはそれで気持ち良かった。それ以降男も女も挿れるのも挿れられるのも無節操だ。
しかし最近は何故かセックスで得られる快感が味気なく、つまらなくなった。煙草を吸ってボーッとしてる方がいい。
外で吸うのはロングピース。けれど家で吸うなら缶ピースがいい。あのバーはそれ専門と言うわけではないが、葉巻や紙巻き煙草等も多少は置いてある。販売許可と仕入れルートを持っているのだ。
まあ未成年に煙草、しかも結構重いものを販売し続けることは犯罪なのだろうが、知ったことではない。そもそも男だけでなく、酒も煙草も俺に教えたのはマスターだ。責任持ってアフターサービスしてもらいたい。ロングピースはともかく、缶ピースは手に入りにくいのだから。
でも今日の昼は煙草よりもっと心地良かったなとふっと思い返した。
通り抜ける風、揺れる緑と黄色、土の匂い。シャッシャッと鉛筆がスケッチブックを走る音、牛島の腕の動き。明日が楽しみなんて感覚は大分久しぶりだった。
マスターのバーに来た時は、開店準備を多少手伝いながら、一杯奢ってもらうことが多い。今日はマスターがしけこんでいたせいで早々に立ち去ったから、まだ大分時間がある。これだったらあの中庭に寄ってから来れば良かったと思いながら少し考えて、薄暗い階段を上ることにした。
階を一つだけ上がると現れる華やかな装飾の施された扉。その扉もまた、まだ客を受け入れる時間帯ではなかったが、俺は構わず開けて入った。
絶えず聞こえる女性達のしゃべり声。せわしないヒールの音。美容室でセットしたばかりの髪の匂いといくつもの香水の香り。
「あら珍しい。何の用?」
真ん中で女王様然として座る着物を着た女性が俺の母親だ。このクラブのママでもある。今日は同伴はないと言っていたようなおぼろげな記憶は正しかったらしい。
一見さんお断りの高級クラブなんて今の時代、右肩下がりだ。面倒なく女の子と遊びたいだけならキャバクラへ行く。そんな中で未だに強く生き残っているクラブには、それだけの付加価値があるということだ。強いコネクションは持っているだろうけど、それだけに頼らず絶えず美と教養を磨き続け、店の全てに目を光らせ続ける母を、俺は何だかんだ尊敬していた。
「ん。マスターに用事」
「あんたいい加減あのクズとの付き合い切りなさいよ。いい歳した大人が中学生に手を出すのは犯罪よ。小六のあんたに手出したウチの店の娘 は問答無用でクビにしたけど、あいつには不思議と懐いたままなのよねぇ。お陰であんた男も女も見境なくなっちゃって」
「最近はしてない」
「クズと?」
「誰とも」
「あ、そう。まあ若いと逆にそう言うこともあるわよ」
そういう母親は未だに現役なんだろうなと思う。絶対に家には連れ込まないからわからないけど。ちなみに俺は父親を知らない。きっちりと認知はさせて養育費も受け取っているという話だが。あんた会いたい?と何度か聞かれたけど、今まで興味が湧いたことはなかった。
「で?どうしたの?」
「何となく覗いただけ」
「あ、そう。まあいいけど早く帰りなさい」
マスターのバーに開店前に来るのは月一回程度。けれどこのクラブにはあまり顔を出していない。子どもの頃は割と出入りしていて、おかげで階下のバーのマスターにも構われるようになった。早すぎて多様すぎた俺の性体験に責任を感じるのだろうか、今の俺がクラブに近づくのを母親が嫌がっているのは理解している。
けれど俺はここの空気も結構好きだった。その内情は決して綺麗なものだけではないことも知っている。けれどここはプライドと責任感を持って働いてるホステスが多く、彼女らがつくりあげる煌びやかな夢は決して軽いものじゃない。
手間暇かけた美しいものという点では、今日見た牛島の絵もホステスのもてなすプロの接待も同じようなものかもしれないと思う。一般的な考え方からは外れてるかもしれないけど。
人も物もあらゆるものがきちんと磨かれた店内を一通り眺めて、見損ねた絵の分を少し取り返した気分で店から帰る。去り際にますます訳の分からない子になっちゃって、という母親の愚痴が聞こえた。
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