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壱・『翔』
何が起こっているのか、解らなかった。
先程まで。つい先程まで、いつも通りの日常が繰り広げられていたというのに。
「―――」
形容し難い声が、酷い臭いと鮮血と共に口から零れる。そして、そのまま女性は畳の上に倒れ、ピクピクと痙攣をしたかと思うと、そのまま静かに動かなくなった。
腰まで流れている長い黒髪は、無造作に散らばり、表情を隠している。しかし、見えなくて良かったのかもしれない。その造作の良かった面は、驚愕に彩られ、瞳孔は開ききり、穴という穴からは汗と涙と血が流れている。
翔(カケル)の母だった。
母の両胸の中央よりやや左側に刺してあった日本刀が、ずるりと抜かれる。 白銀に光る刃は、今は真っ赤に染まり、異様な輝きを見せていた。
「…ぁ…」
小さく翔は戦慄く。
口は小刻みに震え、膝は笑って立っていられるのが不思議なくらいだ。
「翔」
重みのある質の良い声音が名前を呼ぶ。
翔は母だったはずの眼の前にある女性から目を離し、刀を持つ男に視線を移す。
「…と…さ、ん…」
刀を持ち、うっすらと笑みを浮かべて翔を見つめるのは、翔の父だった。
(なんで―――っ)
何が起こっているのか、解らない。
翔はキョロキョロと瞳を忙しなく動かす。
どこを見てよいのか、何を見るべきか、何をするべきか。 解らない。 そして、動かせば動かすほど、信じたくない現実が容赦なく襲ってくる。
柔らかな朝日が差す10畳の和室。 まだ暖かな一汁三菜たちは炬燵と共に倒れ、所々に散らばる。畳や障子、座布団、箪笥(タンス)などの家具は赤に色付けされている。
どくどくと、切りつけられた喉や胸、手足から血を溢れさせ倒れる母。
母を刺した刀を持ち、艶やかに微笑む父。
「翔」
放心状態にいる翔に、父はもう一度声をかける。
父は、いつものように微笑んでいる。しかし、それが怖かった。
一体、何が父をこんな風に駆り立てたんだろうか。
不意に、父は事切れた母の上を跨ぎ、翔に近づく。裸の足の裏は、べっとりと血と髪がくっ付いている。それは不快でしかないはずなのに、微塵も表情を動かさず、父は翔の前に立った。
成長期である翔よりはやや高めの位置から、黒の双眼が射抜く。がくりと、腰が抜けた。 腰から頭の天辺まで鈍い痛みが突き抜ける。それに咄嗟に目を瞑るが、父から視線を離すことが出来なかった。それを見ると、フッと鼻を鳴らし父は笑う。そして、右足を引き、振り返ったかと思うと、右手にある刀を乱暴に母の身体の上に投げた。
金属音と重音と、そして、身体に打ちつける痛々しい音が混ざりあって、翔の耳に届いた。
「――っひ―」
いきなり腕を掴まれる。ぐいっと立たされると、ワイシャツの襟を掴まれ、再び畳の上に戻された。
「っぅ…」
畳の上とはいえ、後頭部をおもいきり打ちつけ、脳が揺さぶられ、目の奥が白く光る。嘔吐感とぐらついた視線に呻く。
続いて、布を引き裂く音が聞こえたかと思うと、不意に生温かいざらついた感触が皮膚の上を這いずり回った。
「――――――っ」
翔は息を飲んだ。 頭を上げて見てみれば、唾液まみれでてらてらと光を反射する赤い父の舌が、翔の臍から胸までを舐めあげていた。
その感触を味わうように、ゆっくりと丁寧に、一本線を描いて。
「っめ、ろ―――っっ!!」
気持ち悪さに、力の入らなかった手を叱咤して無理矢理振り上げた。父の頬に勢いよく入り、バシッと音がなる。じんと痛む手がリアルにその感触を伝えた。
怯んだ相手の隙をついて、翔は上半身を回転させ、父の身体の下から抜け出そうとした。必死になって逃げようとするが、冷静さを失っているせいか、うまく身体が動かせない。しかし、漸(ヨウヤ)く離れられそうになった時、足首を掴まれ、力任せに同じ場所に戻される。引きずられ、シャツが肩の方まで上ると、父は素早くそれを翔の手首まで持っていき、そこをきつく縛る。あまりにきつくて血流が止められたように感じた。
「ッ――父さ、―――っ」
縛られた両手を畳に縫い付けられ、首を舐められる。
ぞわっと全身に鳥肌が粟立つ。
気持ち悪い。
柔らかい粘膜が張り付く。渾身の力で身体を動かし、抵抗する。さすがに同じ様な体躯の男の抵抗を受けるのは大変なのか、煩わしそうに父の眉間は歪んだ。すると身体を反転させられ、うつ伏せにされたかと思うと、その上に馬乗りに乗られ、抵抗し難い体勢に持ち込まれる。
再び、愛撫が始まった。項(ウナジ)をねっとりと舐めあげられる。音を立て吸われ、小さな痛みが走った。 片手で翔の頭を押さえつけて、もう一方の手で胸、腋(ワキ)、腰周りを撫でる。皮膚の上を温もりのある少し湿った手の平が進んでいく。
「――どうしたんだよっ!父さんっっ。やだ。止めてくれっいやだぁあっっ!!」
喉の奥が痛くなるほど、翔は叫んだ。目を瞑って、現実を否定する。それなのに、耳元で囁く「翔」という自分の名を呼ぶ声に、手の平の感触に、縛られた手の感覚に、畳の臭い、噎せそうなほどの鉄の臭いに、引き戻される。
「やだ、…ぃや、だ、ぁ」
それでも信じたくなくて必死になって否定する。手の平が、翔の中心を舐(ネブ)った。息を飲む。身体が震えた。
「っく、ぅ、ん」
唇を噛み締める。
強く強く瞳を閉じる。
どんなに嫌悪していても、男性としての身体が生理的な感覚を呼び覚ます。強弱をつけて竿を擦られ、双玉を握られる。身体が跳ねる。
「翔…」
呼ばないでくれ。
その声を聞きたくない。
その言葉を聞きたくない。
『誰』がこんなことをしているか、嫌でも意識させられるから。
『誰』がこんなことをされているか、嫌でも思い知らされるから。
ぬるり、と生温かい粘着質な感触を、触られている指を通して直接に感じる。
笑う声が聞こえた。
「…ち、がぅ…」
喉から搾り出すように言った。しかし、それが余計に惨めで情けない。
「翔…、一度吐き出そうか。苦しいだろう…?」
愛おしいそうに言う。声音は、優しくて、柔らかくて、とても平坦で。残酷だ。
頭(カブリ)を振る。パサパサと髪が畳みに打ち付けられる音がする。 翔のソレは既に張り詰めていて、父の手を濡らしていた。身体は熱を放出したくて仕方がない。けれど、それを上回る嫌悪感と羞恥が生理的欲求を拒絶する。
どうしても嫌だ。なのに、大きな手が髪を掻き分け耳元に唇を寄せて、「大丈夫」と息を注ぎ込むと、その手は上下に激しく動き出した。
「――っっ、ゃめ、て、くれっ―――!」
息が荒くなる。 眼の前がスパークする。
快楽がのた打ち回る。
「――――っく、―」
全身から力が抜けた。小さく開けた口で息をする。しっとりと汗ばみ、熱くなった身体は浮遊感に喜ぶ。手足はピリピリと痺れている。
不意に、後孔に異物感を感じた。
「―――?!」
痛みはないが、圧迫感に翔は瞳を開く。反射的にキュッとそこを締め付ける。長く関節の張った指だと、翔はそこで気づいた。
ずるずると指が浸入してくる。 全て収めると、ゆっくりとそれは排出される。 解放感に固まった肩が安堵する。しかし、再び、それは同じ場所に戻った。
圧迫感。 解放感。そこは快楽を求める場所ではなく、到底そんなものが得られるはずがない。
「…な、…なに、な、…」
一度ふやけた頭は、冷水を浴びたように冷たくなり、現実を理解しようとし始める。指が抜かれた。硬く暖かい、指よりも断然大きい物体が代わりに宛(アテ)がわれる。
翔は、至った考えに、絶望した。
「ぃぁああっ」
声にならない叫び。身体を割って入ってくる。物凄い圧迫感に、胃が、心臓が、口から出てきそうだ。喉の奥がひくつく。 熱くて、熱くて。 腸の中が埋まっていく。ぴったりとその形にそこが変化していく。
「っぅ、く」
生理的な涙が、目の淵に浮かぶ。身体は強張ったままで、爪は畳を掻き毟っていた。全て、収まる。息を吐き、どうにか嫌悪感を払拭しようとする。だが、背中にじんわりと暖かさを感じたかと思うと、嘲笑うかのようにそれは動き出した。
「―――ぃあ、…ゃ、く!!」
まるで、腸が引きずり出されるような感覚に、翔は戸惑う。その中に、ピリ、とした痛みを感じ、後孔が切れていることを知った。おもいきり引きずり出され、おもいきり打ち付けられる。
その行為に、優しさなど、ない。 翔の身体を、心を、傷つけるだけの行為だ。
けれど、弱いところを責められ、中心を握られれば、身体だけは原始的な欲求に震え、畳を濡らし、異物を締め付ける。締め付ければ、そこになにが入っているのかをしっかりと確認させられ、それもまた、翔を苦しめる。
「ん、ふ、…っ、ぅ、…」
止まらぬ涙。 揺さぶられ、飲み込めない唾液が口元を濡らす。
音がする。畳の擦れる音が。甲高い衝撃音が。空気と液体が混ざり、気泡が割れる音が。粘着質な音が。 父の息遣いが。声が。
「…は、は、ぁ、は、ぁぁ、ぅっ――――――――っっ!」
尿道口に爪を立てられ、強く腰を打ち付けられ、翔は二度目の絶頂を迎えた。その衝撃で、無意識にきつく男のソレを締め上げた。
「っ―」
意識を手放す前に聞いたのは、耳元で息を詰める音。
「ショ、ゥ―――ッ」
その声は、届かなかった。
※※※※※※※※※
遠くから、沢の音が、夏を知らせる蝉の鳴き声が、耳に届いた。
「…っぁ、は……んぅ、ぅ」
しかし、それはすぐに自分の声に掻き消された。
甘ったるい声だ。鼻から抜ける声。 両足を広げ、曝け出した局部には、翔のものではない男の固い一物が見え隠れしている。
健康的な肌色も今では透き通るように白く、そこかしこに鬱血した痕がつけられ、まるで花びらが散らされているかのようだ。赤く鮮やかなものから、薄く消えてしまいそうなものまで様々だ。それは、その行為の月日を語っていた。
両手は後ろに縛られ、力なく横になる上半身と薄い布団に挟まれ、すでに感覚は薄れていた。翔はただ、顔だけは横に向き瞼を閉じて、すべてをただ預けていた。打つリズムが速くなり、鼓動が高鳴り、喘ぎ声は短い間隔で漏れ、一段と高く漏れたかと思うと、腹の内部に温かさを感じ、その熱に翔も果てた。
肩で息をしていると、ずるりとそれは体内から引き出され、その喪失感と安堵に息をつめた。 大きな手が、汗で張り付いた頬の前髪を退ける。無意識に翔はその手の主に視線を向けた。そこには、自分と同じようにうっすらと汗をかき、微笑を浮かべる父の顔があった。
すぐに視線を逸らした。
あの日から、半年前から、一度も真っ直ぐに見たことがない。見られるはずはなかった。 悔しさと、悲しさと、憎しみと。色々な感情が混ざり、翔は唇を噛み締め、瞳を潤ませた。
「翔…」
呼ばれる。
「…て、…よ」
「…翔?」
呼ばれる。
「やめてくれよ!!呼ばないでくれ!!!」
翔は叫んだ。四肢が張り裂けそうなほど、叫んだ。
「もぅ、やだ…もう、いやだぁ…」
半年間、別宅に閉じ込められ、意味も解らず、ただ望まれるがまま足を開き、善がる日々。 終わりが見えぬ絶望に立たされ。
もう。
翔の心は傷だらけだった。
「なん、で…っ、こ、な…こんな…っっ!…父…さ、ん…なの、にっ!!…俺は…男、で……っっ」
嗚咽を漏らし、悲痛な叫びを漏らす。その様子を、問いかけられた本人は、無表情にも見える変わらぬ笑みで見つめ続けた。
翔の言葉が途切れ、ただすすり泣く姿に視線を向けながら黙っていた父は、ゆっくりと口を開いた。
「私は、お前の父親ではないんだよ」
すすり泣く音が、途切れた。見開いた双眼が、動揺に揺れた。
「私は、お前の、翔の、本当の、父親では、ないんだ」
相手の脳に、心に、捻じ込むように一字一句、はっきりと低く囁く声。そして、退いたはずのその体を、翔の上に再び寄せて、長く関節の張った10本の指を、戸惑い動けないその首に巻きつけた。ぐっと力を入れる。
「っ―――!?」
親指が、気管を締め付ける。咄嗟にその手を退けようと手を動かすが、縛られているために自身の下で足掻くだけだった。恐怖に声も出ず、翔は震え、じっと父―――否、修一郎を見るだけだった。修一郎もまた、その視線を射抜き続けた。しかし、不意に指の力を緩めると、恍惚とした表情で呟いた。
「あの時に…そっくりだ。まるで、昔を見ているようだよ…、翔」
熱いはずの夏の空気が、そこだけ冷えきり、その冷えた空気をいきなり吸ってしまい、翔はゲホゲホと噎せ、体を捩じらせた。その背中を上下に擦りながら、男は言った。
「そうだ、翔」
「昔話をしてあげよう…」
「お前の父親は」
「殺されたんだよ」
「私に」
翔の体は硬直した。
「…な、に……?」
「私が殺したのさ。こうやって…」
両の手が、伸びてくる。
「お前とそっくりの怯えた瞳を、向けて…」
先ほど締められた感触がじわじわと蘇る。再び、その指先が首筋を捕らえた。
「やめろぉおおおおおぉぉぉおっっ!!!!!」
動かせる足をむちゃくちゃに動かし、頭を振り、髪を振り乱して、体全体で拒絶をした。殺されると。死にたくないと。
ただ闇雲に翔は叫び、体を動かし続けた。そのうち、手首を拘束していた布が外れ、両手足を使い空間を引っ掻いていたが、翔は気づかなかった。迫りくる死に必死に抗った。それは、決して物質的なものからだけではなかった。
ガチャリ、と。
重い金属音が落ちた。
その音に、翔は我に返る。一度だけ、そう、半年前にも聞いたことのある音だ。
翔の抵抗からすり抜けていた修一郎は、どこからか持ってきて、半年前と同じようにそれを投げたのだ。翔の肩のすぐ横に、投げられていた。同じ柄の刀。母を斬った刀だ。 鞘から抜いてあり、手入れが行き届いていたのか鋭く刃が光った。翔の脳裏にあの日の情景が思い起こされる。鮮明で、色褪せることなく。凄まじい速さで駆け巡る。目の前の男への憎悪が噴き出す。
「翔。自由になりたいか?」
睨む視線を真っ向に浴びながら、修一郎は言う。
「なら、それで、ここを刺せばいい」
何も纏っていないため、剥き出しになった胸元に手を当て、淡々とした口調で告げた。
(―――じゆう…?)
そうだ。この刀で、心臓を刺せば、男は死ぬ。そうすれば二度と、あんな行為をしなくてすむ。
徐(オモムロ)に、手が刀に触れた。
(だけど――――)
鈍い音。耐え難い声。赤く噴き出す血液。くず折れる体。
思い出されたその光景に、翔は恐怖した。指先が震え、手にした刀の先が大きく揺れる。
すると、一歩。二歩。修一郎は翔に近づいた。
「ぇっ―――」
見上げれば、見たことのない顔。表情のない、否、全ての表情が混ざっているようなそれは、言い知れない不安を翔に与えた。本気の目だ。もし、このまま殺さなければ、自分は確実に殺されるのだと。
翔は息を飲んだ。
「ぃっ―――!来る、な…来るなぁっっ!!!」
鈍い音。 唸る声。 赤く噴き出す血液。
それは、閉まっていた記憶となんら変わりがなく。
「かけ…る…」
刃を伝い、流れる血が太ももに垂れた。ビクリと震え、咄嗟に刀から手を離すと、突き刺さったままの体は、支えを失ったようにくず折れた。翔の上に倒れ込んだその体の重さと温かさが異様に気になった。心臓から外れてしまったのか、修一郎は汗をかき、息も荒く、苦しそうに眉間を寄せている。だが、視線だけは翔から離さない。
「翔…。よく、覚えておきなさい…」
「…ヒ、ぃ……」
「人を……『憎い』者を殺すということが…どうい、う、こと、か…。死は…人を縛り付ける…深、く。とても、深く…。お前に、も…すぐに…分か、る…さ…」
色を失う顔が、なぜか、今までで一番、修一郎が生き生きとして見えた。
「じゆ、…になど…なれなぃ…」
頬に手が触れる。
「…………愛しているよ…」
唇が寄せられる。
「ショゥ、イ…ロウ…」
だが、それが触れる前に。
修一郎は、事切れた。
※※※※※※※※
翔は何をすることもなく、縁側に座り、ただぼんやりと庭を見ていた。
夏の暑い日差しが、よれた白いワイシャツに反射する。その漆黒の瞳には、眼の前の瀟洒な風景が映し出されるだけだ。 心地よい爽やかな風が通り過ぎる。無造作に伸びた黒髪が踊る。白くはないが、焼けていない黄色の首筋がちらりと現れる。肌蹴た襟首や、半袖から覗く骨格の張った身体には、既に情事の痕は消え失せ、その上には新しい皮膚が形成されていた。
翔は、そっと瞳を閉じて、障子の淵にゆっくりと頭を預けた。暗闇の中で感じるのは、五月蝿いほどの蝉の声に、近くの沢の流れる音。庭から繋がる林に聳える木々の、柔らかな葉のぶつかる音。湿った土に、青臭い緑の匂い。しかし、浮かぶ光景は、あの日の悲劇。
赤く染まる視界に、くず折れた男の身体。 穏やかだった翔の心は、ざわざわと騒ぎ出す。無意識に眉間に皺がより、手はぎしぎしと軋みそうなほど強く握られる。肉を突き破る感覚に、鈍い音。小さく唸る声に、流れ出る血飛沫。事切れ、脱力した体に、湿った土の匂い。大きな石に。白い骨達。
時が経てば経つほど、より鮮明に、強烈に、翔を蝕む。
解放されたはずの身体と心は、ただ呆然とした。そして、束の間の安堵の後には、激情が。
憎かった。憎い。全てを裏切った彼が。
乾いた重音が響いた。高ぶった感情に支配され、翔の拳は障子戸を突き破っていた。肩が大きく上下に揺れる。翔は、高ぶったそれに促されるまま、叫ぼうとした。
「っ―――――!」
それは、声にはならなかった。
「っ、くっ…ぅ」
翔は、泣いた。頬をしとどに濡らし、小さく嗚咽を漏らし。泣いた。 泣くしかなかった。泣く以外の術を持たなかった。自由になりたいと願い、忘れられるはずの記憶は、一向に色褪せない。感情と共に、体を支配し続ける。心臓を鷲掴まれるような苦しさと痛みに襲われ、息ができないほどの感情に押しつぶされそうになるのだ。
それは止めることができなかった。理性で抑えられるものではなかった。
『翔…。よく、覚えておきなさい…。』
『人を……『憎い』者を殺すということが…どうい、う、こと、か…。死は…人を縛り付ける…深、く。とても、深く…。お前に、も…すぐに…解、る…さ…』
『じゆ、…になど…なれなぃ…』
修一郎の言葉が思い起こされる。
(俺は、確かに自由になれていない――)
より一層、深く深く、縛られている。縛り付けられている。
「っん――」
消えたはずの痕が甘く疼いた。
「ちくっ…しょ、ぅ…」
翔は呟く。
『…………愛しているよ…』
修一郎の言葉と共に、無意識に、指で唇に触れる。
『ショゥ、イ…ロウ…』
「――――!」
翔は、唇を噛み締めた。
憎い、憎い、憎い、にくい、 ―――ニクイ?
ならば、この感情は、なんなのだろうか。
「俺は、『カケル』だ…」
『ショゥ、イ…ロウ…』
(違う)
「俺は…っ」
一筋の涙が零れる。
「カケルだ…っ」
これを『憎悪』とだけ、呼んでよいのか。
全て、分からなかった。
壱・了
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