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弐・『過去』
ドンドンと、心臓が痛い。
「…っく、ぁ…っ」
痛い。
「もっと声、出せよ…」
痛い。痛い。
「もぅ…っやめろぉ…」
痛い。痛い。痛い。
「ひっ―――――っっ!」
男は、喉奥からひしゃげたような、掠れた甲高い声を絞り出すように叫び、果てた。 内部(ナカ)を支配している男も、自らが虐げている男の腰をぎゅっと力を入れて握り、そのまま躊躇うことなく果てた。
「…っは…は…」
どちらのものかも解らない荒い息遣いが、物音一つしない静寂な部屋に響く。薄気味悪いほど、時間はゆっくりと流れている。
「……はやく…出てけ…っよ」
肩を上下に動かし、皺くちゃになった布団に顔をぴったりとくっ付けながら小さく、しかし強い意志を持って修一郎は言い放った。
「っぐ!」
直後、強い痛みに瞳孔を開き、四肢を硬直させ修一郎は唸った。
「へぇ…。まだ減らず口立てられんだなぁ」
前髪を無理矢理上に引っ張り上げ、布団から顔を引っぺがして、その耳元に低く男は囁く。恐怖と恥辱に、全身に鳥肌が立った。
「なぁ…。自分の立場解ってる?今、テメェは俺の下にいるんだぜ?分かってる?」
「ぃっ―――いた、ぃ」
諭すような柔らかな声音で囁き、だが、確かに侮蔑の意味を持って捲くし立てるように言い、聴覚を、そして片手で容赦なく思い切り中心を握り、男は修一郎を嬲る。
「…このまま、コレ、握り潰してやろうか?ガキ作れねぇなんて跡取りとして用済みだよな?」
「やっ!やめっっ――!!」
激痛が走る。ヒュッと喉が鳴る。握られた中心は、恐怖の為に縮こまる。快楽の為に火照った身体もすぐに冷え、冷や汗を流す。その様子を見て、男はクククッと搾り出すような声で嘲笑った。
「あ~ぁ。こんなに縮こまってやんの」
嘲笑いながら男はフッと力を抜き、そう言いながら中心を今度は丁寧に撫でていく。
「っ…」
修一郎は唇を噛んだ。それは、痛みが快楽に変わることを知っていたからだ。そんな現実を受け入れたくなかったからだ。
痛みが和らぎ、じんじんと、どくどくと、熱が脈を打つ。
「くぅっ――」
声を漏らさないように、血が滲むほど、きつく唇を噛み締める。身体がふるふると悔しさと快楽で震え、帯で縛られた両手首が畳みに擦られ、痛む。
「叫べよ」
男は、抑揚のない声で言った。
「叫べよ。本宅に聞こえるぐらい。親父や母さんに聞こえるぐらい。聞かせてやれよ。テメェの本当の声を」
「――ぁああっっ」
ぐんっ、と男は腰を打った。優しく撫でていた指も痛いほど性急に動かし、強弱をつけることなく追い立てる。
余りの性急さに修一郎は目から涙をとめどなく流し、口を閉じる事もできない。舌を揺らし、噛みそうなくらいだ。
「ほらっ――っもっ・・とっ啼けよぉっっ!」
男の声が渦巻く。憎悪が溢れる。男の感情に同調するかのように、がくがくと腰が揺れる。視界が揺れる。
「ぃいっ!…ひぃっく…ぅぅっっ!!」
「啼けよ。鳴け…泣け、なけよ…。」
「はぁっっ――あぁ…ぁぁっっ―――!」
ぶるぶると修一郎は叫び、震えた。
「テメェの全部…俺がこの手に、握ってんだぜ?分かってんのかよ…っ?」
「っは…なん…」
ぼたぼたと涙を流し、涎で顎を濡らし、眉間を寄せて、後ろを振り向く。わなわなと唇は痙攣をする。
「こうやって」
パンパンに膨れ上がり、今にも暴発しそうな中心をギュウっと握りしめ、男は満足そうな笑みを浮かべた。
「わか…わかっ…た、…から…」
「アンタは俺の下で啼いてりゃ良いんだよ…兄さん…」
「っ―!」
叫びは声にならなかった。男は再び、律動を始めた。しかし、その手にはしっかりと中心が添えられ、握りしめている。塞き止められた快楽に、眼の前が真っ白になる。
自分が今、声をあげているのか、どんな状態にいるのか、分からない。
「ぁぁぁぁ…ゆる…ゆる…し…っっ助け…っひぃ――ぃっっ!」
ただ 怖くて怖くて 自分がどうなってしまうのか どうしたら良いのか 分からなくて 短いはずの夏の夜も なぜか すごく長くて 苦しくて 痛くて 痛くて 痛くて―――――。
※※※※※※※※※
蝉の声が、沢の涼しげな音が、聞こえた。 陽射しが、薄い障子を突き破って、部屋を明るくする。 六畳一間の何もない部屋のど真ん中で、饐えたような匂いさえ放ちそうな汚れきった元は白いはずの布団の上に、修一郎は放り投げられていた。
修一郎はそっと目を開けた。ぼんやりと虚ろなまま、ただじっと動かない。
動けなかった。首をそっと横に動かすと、眩しく光を反射する円形の鏡を見つけた。そこに、自分の姿が映し出される。
髪はぼさぼさで、汗と涙と唾液まみれの顔に張り付いているし、噛みすぎた唇は熟れ過ぎたトマトみたいに真っ赤で痛々しい。両手を空に翳して見れば、手首は鬱血し、畳で擦れた箇所は、うっすらと血が滲んでいた。お腹は鈍い痛みがあるし、後ろの孔からはだらだらと男のモノが溢れている感覚があるのに、未だに挿入っているようにも感じる。
修一郎は動かなかった。表情は固まっていた。
いつまで続ければ良いのか。いや、いつまで続けさせられるのか。どうして自分たちはこんなことになってしまったのか。
修一郎は動かなかった。動きたくなかった。
不意に、どたどた、と騒がしい足音が聞こえた。反射的に体が硬直する。
「まだ寝てんのかよ」
障子が開け放たれ、一瞬、激しい光に目が眩んだ。そのまま自分の存在まで、消えてしまう錯覚に修一郎は陥った。そうなればいいとも思った。
そして、蔑む瞳と目が合うと男は不意に二ィと口端を上げて、膝を修一郎の顔の近くに降ろし、同じ造作の顔を鼻っ柱がくっ付きそうな程近づけた。
「それとも、まだヤりたんない?」
言葉に、修一郎は目を瞠った。
「アンタ、淫乱だもんな」
身体を揺らし、男は耳障りな声音で笑う。修一郎はカッとなって、力の入らない手で男の頬を打つ。パシッと高い音が鳴った。うっすらと色付いた頬を男は手で抑える。
「…本当のこと言われたから、怒ってんだろ」
だが、振り向いた顔と声には、愉快だと言わんばかりの表情が見える。男はすっと手を伸ばし、修一郎の頬へ添えた。
「テメェの本当の正体は、弟の肉棒に病みつきな『淫乱』で、弟に組み敷かれてそれから抜け出せない『無能者』なんだよ」
『違う』と、修一郎は反射的に言おうとしたが、口を閉じた。
閉じるしかなかった。 約一年。そうして生きてきたからだ。
この部屋に、閉じ込められて――否、毎晩のように激しく犯されて動けなくなって、無様な姿になって、外に出られるはずがなかった。 自分が服を纏った姿など、自分自身いつ見たかさえ思い出せない。
もういっそ、男の言葉に頷いてしまえば良いのかもしれない。それでも、 男として、長男としてのプライドが、それを必死で否定する。 手足がぶるぶると震え、葛藤している。 だが、言葉は出なかった。そして、それを見つめる男は、その沈黙の意味をしっかりと理解していた。
「ぁあ、そうだ」
男は身体を退き、さも世間話を始めるように言った。
「アンタさ。昨日、自分の女の味、解った?」
「―――――――」
「初夜だったんだよ」
修一郎は言葉を失い、全ての動きを止めた。
「昨日、結婚式やったんだよ。結婚式」
昨日のことを回想する。本宅からかなり離れたところにあるが、確かに昨日は随分と外が慌しかった。騒がしかった。時計のないこの部屋で時間の感覚はないが、昨晩、男は来るのが遅かった気がする。 そして、漸く修一郎は思い出す。 男が部屋に入ってきてすぐに望んだ行為を。
「っ――――!」
パッと口元を両手で押さえる。 青臭く、生ぬるい独特の感覚が口内に広がった気がした。
「…気づいたか?」
青ざめたその様子を見て、男は問い掛ける。口元には笑みが深く刻まれていた。
「…誰も気づかねぇの。アンタじゃなくて、俺だってことに。あの女も最後まで気づかないで、アンタの名前言って、果ててったよ」
忍び笑いから、大きな嘲笑に変わる。男は狂ったように笑いを止めることができない。その姿とは対照的に、修一郎は自分の知った恥辱の事実で愕然としていた。
「っはは、そうさ、父さん達が欲しかったのは、アンタじゃない。勿論、俺でもない。『一番初めに生まれた男児』が欲しかっただけさ。あんたでも、俺でも、どっちでも良かったのさ」
言いながら男は目を見開きギラギラと光らせ、再び近づいてくる。そして、眼の前で止まるとピタリと一瞬にして笑うのをやめて、高い位置から修一郎を見下した。表情はない。
「…たまたまアンタが先に生まれたってだけなんだよ」
重低音が、鼓膜を貫く。
(そんなこと分かっている―――)
分かりきった事だった。同じ腹の中で、同じだけの時間を共有し、同じ時にこの世に産み落とされ、同じ顔立ち、同じ体躯をしているというのに。たかだか数分産まれるのが違っただけで。長男だから。次男だから。 違う環境。 差別された全て。与えられる物全てに目に見える差があった。
(…たしかに…)
優越感を感じていた。 この部屋で隔離されて、ただ兄の影として生きる。否、生かされる同じ顔の弟を見て。
(でも―――)
同時にそれは恐怖だった。
全てが同じなのに、家畜のような人生を送る人間を見て。『自分』が、家畜以下の生活をしていて。もしも自分が後に産まれていたならば、こうなるのだと。もしも自分が長男らしくなければ、虐げられるのだと。もしも自分がふさわしくなければ、畜生以下になるのだと。
無言の脅迫だった。主のいない脅迫だ。底知れない闇だった。
そして今、まさに。
その闇の真っ只中にいるのだ。
「…兄さん…」
弱々しい声が、修一郎を抱きしめた。昨晩、己を辱めたその腕は、まるで修一郎に縋るように震えていた。
時々、男はこうやって修一郎を抱きしめる。互いのあられもない部分で繋がるよりも抱きしめられる時の方が、かつて一つだった時のように隔たりがない気が修一郎はした。
そっと相手の背中に腕を回そうとした瞬間、
「―――っぐぁ」
両手で首を絞められた。
親指が喉仏を、気道を、ぎりぎりと潰していく。じわじわと苦しめられる。どうにか息をする度にヒュ、ヒュ、と、風を吸う音がする。 痛みと、苦しさに、眉間に皺を寄せて片目を瞑り戒められている両手で、相手の腕に力の限り爪を立てる。
皮膚を破る感触がした。けれど、男は首を締める手を緩めない。うっすらと開けた片目で見てみれば、男の口元には笑みが掘られ、瞳は見開き、血走り、息はあがり、まるで熱に浮かされているようだ。恍惚とさえしている。
「なぁ、なぁ…このまま死ぬかぁ…?アンタが死ねば、俺は、俺は、生きられるんだよ」
早口でもないのに、男は舌足らずに話す。それがなぜか、艶を帯びているようにも聞こえた。
「アンタも嫌だろ?いや、だろ?このまま、じゃ、嫌だ、ろぉ?」
「ぅ…」
首が絞まる。両目をきつく瞑る。歯を食いしばる。 最早、男は何をしているか分かっていないようだった。ただ、絞めているから絞めるだけ。
「俺も嫌だ、よ」
子供のように、拙い、小さな弱い声音。みるみるうちに、男の表情は哀愁を漂わせる。
修一郎は戸惑って引っ掻いていた指が止まった。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ」
すると、 不意に駄々を捏ねるように言葉を連呼し、がくがくと修一郎を揺さぶった。
「…っや、やめ、ろ、やめ、や、…ろっ!」
脳が揺さぶられ、視界が上下にぐらつき、握りしめられた首は絞まり、歯と歯が何度も打ちつけられて顎が外れそうになる。制止の言葉もまともに紡げない。
「同じなのに。同じ、だろぉっ?どうして、分けるんだ」
(怖いっ)
これは、理性に逆らう恐怖じゃない。本能に逆らう恐怖だ。本当の恐怖だ。 生と死の境の恐怖だ。
(殺される)
「同、じだ、ろ?一緒、だろぉ?アンタは俺のモンだろぉっ――――?ずっと、ずっと、ずっとずっとず」
脈絡のない言葉。壊れたステレオのようにただ繰り返すだけの音。それが、恐怖を呷る。力任せに男を突き放し、咄嗟に近くにある物を投げつけた。
容赦なく、それで殴る。殴りつける。 硬い音と、小さな呻き声、鈍い何かが何かに刺さるような感覚に、ハッと我に返った。開いた視界に飛び込んできたのは、惨劇。 手にした丸鏡は割れて、男の腕に、男の頭に、顔に、所々痛々しく突き刺さっていた。血が溢れ出る。しかし、男は表情を変えず、平然と修一郎を見据えた。
「アン、タ、は…ずっとずぅっと…そのまんま、だよ。俺のモノ、の、まんま、だよ」
あまりにも平然としたその全てに、膝がガクリと折れる。腰が落ちる。崩れる。一緒に手元から、赤く染まった鏡の残骸が転がった。丁度、修一郎と男の間で止まったそれの上に、男の手が置かれる。男は、体重をそこに全てかけて這いずるように修一郎に近づいていく。パリ、と壊れる音がした。男が手を離せば、そこには鮮血が溜まっていた。
その手で再び、男は修一郎の頬に触れる。ビクリと肩を震わせるが、修一郎は動けなかった。視線も逸らせない。真摯にも見える、冷静で、穏やかで、必死で、熱のある瞳が射抜く。
「兄さん」
先程とは違う。明瞭な声。
「俺は、アンタが、憎くて憎くて憎くて・・・――――たまらないよ」
そう言って、男は触れるだけの、初めての口づけをして。
「…修、一郎…」
事切れた。
※※※※※※※※
快晴でも、陽射しが所々にしか差し込んでこない林の中。 白と黄色の献花を片手に修一郎は、少し歪で丸く大きな石の前に立っていた。その姿は、既に少年の面影を潜め、青年としての風格が漂っていた。オールバックにした髪は綺麗に整えられて、漆黒のスーツを身に纏い、白すぎた肌は今では黄色人種らしい健康的な色に飾られ、骨格の張った一人の男に成長していた。
もう誰も、同じ顔の彼とは間違えたりしたいだろうと、修一郎は思った。しかし、修一郎は分かっていない。未だその瞳は、彼と同じであることに。
献花をそっと石の隣に添える。墓石とはいい難い、陳腐なものだ。 あの時。ただ怖くて怖くて怖くて。全てを忘れたくて。無かったことにしたくて。
この場所に、全て埋めた。あの頃の弱き自分と、それを知る全てを。
(そう。ただ怖かった)
だから、地の底に埋めた。けれど、結局、それは全て埋められなかったらしい。
(お前は最悪な方法で、俺を繋ぎとめておいたんだな)
ここに埋まっているのは、空っぽの身体。自分の自尊心。彼への恐怖。 だけ。 手元に残った怒りは、首を絞められた時のようにじわじわと迫上がり、湧きあがり、膨れ、それは憎悪へと姿を変える。そして、その憎悪は、最悪な形で自身を痛めつけた。
『憎悪』は決して『愛』の反語ではなかった。
(お前の言った通りだ)
(俺もお前も、同じだよ)
たとえ、分けられて、違う人生を歩まされたとしても、行き着く先は同じだったのだ。 同じ腹の中で、同じだけの時間を共有し、同じ時にこの世に産み落とされ、同じ顔立ち、同じ体躯をしているのに、それをどうすれば、違う感情を持つというのだろうか。
憎くて、殺したくて、全て奪いたくて、思い通りにしたくて―――。
磁石のように反発するそのものの反対側は、あまりにも強力な求引力(キュウインリョク)を持っていた。
けれど、それを認めたくなくて、知らなかったことにしたくて、踏みにじろうとするのに、そうすればするほど、それは強く芽吹く。雑草のように、いつのまにか根を張っている。 知らぬ振りをしていれば、気づいた時には手遅れだ。
もう、見なかったことになど、できない。
それは既に、心の地の深くを支配して、忘れることが出来ない。そのことしか、考えられない。 そして、それが。 手に入れられないものなら尚更。 どうしても手に入れられない歯痒さが、想いを強くする。
けれど、手に入れたい。欲しい。
「私が、お前のものだというなら…」
抑揚のない声。表情のない顔。
「お前も、私のものだろう…?」
問いかけというよりも、確信のある声音。
(私達は、『同じ』なのだから。ずっと『一緒』なのだから)
「だから」
(だから)
「愛しているよ、翔」
(それすらも、俺のものだ)
お前の全てが欲しい。お前の心、身体、過去、未来。 死も生も。 遺伝子も全て。 少しでも、お前が絡むなら、全て。
(私たちとそっくりに育っているよ、あの子は)
「私たちの子どもみたいだな」
ククっ、と愛おしそうに喉を鳴らす。
そして膝を折り、手を伸ばした。まるで、そこに、彼がいるように。
彼の頬に、彼が最期に修一郎に触れた時のように、触れる。 冷たく無機質な物質に。
「なぁ」
修一郎は触れた。
「今でも俺は… お前が 憎くて憎くて」
「憎くて」
「たまらないよ…」
触れるだけの口づけ。
「翔一郎(ショウイチロウ)」
それは。 最高の愛の言葉。
弐・了
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