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参・『修一郎・想望』
夏の朝は早い。
人々が動き出す前から、空は白く明るい。陽がまだ空の真ん中に居座る前の早朝には、夏の暑さも眠ってしまっている。
修一郎は、寝巻きである浴衣姿に薄い衣をかけ、他の家人達を起こさぬようにそっと障子戸を開き、縁側の下に常備されている下駄を履き、庭から続く林の中へ消えていった。
鬱蒼とした林の中では、日は当たらず、視界はすこぶる悪い。ときたま葉と葉が風で揺れ、そこにできた小さな隙間から漏れる光が、所々照らすだけだ。じめじめと深い湿気が充満している。
ここの土地も修一郎の家の所有物であったが、そのあまりにも気味悪い雰囲気と、入り組んでいるせいもあり、誰一人として林には入らなかった。だが、悪条件があるにも関わらず、修一郎は迷うどころか、臆することさえなく歩を進めていった。
すると、獣道というのも憚れそうなほど細かった道が、だんだんと拓け、そして、ぽっかりと口を開いたように小さな場所が現れた。
若干、他の場所よりは明るいが、そこにも陽は当たっていなかった。狭すぎるせいか、周りの木々が太くたくましすぎるせいなのか。
もしくは、“そこにある物”のせいなのか。
それは、修一郎自身にも解らなかったが。 修一郎は、目的の場所に来ると、うっすらと笑みを浮かべ、そこにある歪んだ楕円形の白みがかった大きな石に近づいた。
長い方では50cmはある。石の半分は湿った大地に埋もれ、そこには枯れ果てた花々が添えられていた。花の水分は飛び、色も落ち、元の姿は既にない。いつもならば、そこには新しい花が添えられるはずだ。 だが、修一郎の手には、何もない。
修一郎は石の横に、戸惑うことなく尻をついて座った。 浴衣が汚れることなど、お構いなしに。否、そんなことなど、どうでも良いというように。
長く形の良い骨ばった指が、石の表面を撫でていく。
ひんやりとした冷たさと、確かな硬さが伝わる。その感触が、修一郎の脳裏を刺激する。
(あの時も)
(お前は、冷たく、硬かった……)
光を失った瞳が、過去に意識を引きずられたことを証明していた。虚ろなそれは、ただ揺れている。指の動きを追いかけるようであって、その実、黒々とした硝子の奥では、違う光景が映し出されていた。
微動だもしない四肢は、石のように冷たく、硬くなっていた。 その光景が。
「翔一郎」
沈黙を保っていた唇が、名を呼ぶ。もちろん、誰も、何も答えない。
呟きでしかないそれは、薄暗い闇に溶けてしまいそうだ。
「明日が何の日か、お前はわかるか?」
空を仰ぎ見るように頭を上げる。そこには、空など広がってなどいない。 伸びきった木々たちがその言葉を遮る。
「『命日』だよ。」
「私たち…、俺たちの、な」
瞼がゆっくり下ろされ、口端は綺麗に形作られる。
「翔一郎…」
「やっと戻れる」
ゆっくりと瞼が上がる。
「また」
「『一つ』になるんだ」
かつて、母親の胎内で一つの固体でしかなかったように。
暗い闇の中で、同じ夢を見続ける。
緩慢な動作で、指は修一郎の目の前の宙を掴む。 伸ばされた手には、何もない。
けれど、確かに修一郎は掴んでいた。
「永遠に」
伸びた爪が手のひらに食い込むほどに握られたそこには、修一郎が望む――否、修一郎と翔一郎が望む――未来がある。
「翔一郎。お前は空(そこ)にはいないだろう?」
真っ直ぐと射抜く視線の先には、生い茂る木でもなく、空でもない。
「俺たちは同じ罪を犯した」
「同じ場所で」
「同じように」
深い笑み。それは、誰も見たことのない修一郎の顔。心からの笑みだ。湧き上がる想いからの。
「そして」
「また」
「罪を犯す」
少しだけ、その表情は曇った。
これから起こす罪の意味を、修一郎は理解していたからだ。 同じ想いを、自分は残していくだろう。あの子どもに。 だが、今更止めはしない。それすらも自分の望みなのだから。
「なぁ…」
「お前のいる場所に、俺は行けるだろう…?」
笑みが、戻る。 安堵の笑み。 一筋の涙が流れた。 頬を伝い、それは衣に落ちる。
呟きは、 闇の中に溶けた。
参・了
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