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肆・『翔一郎・欲動』
翔一郎は既に、己が何を行っているのか理解できなかった。
麻痺した脳と体は、彼の理性を離れて本能のまま突き進んでいく。力の入った両手は、柔な白い肌をした喉に絡みつく。
その行為に意味などない。
絞めているから絞めているだけで、揺さぶっているから揺さぶるだけだ。
何も分からない。
ただ、恍惚とした感情とどす暗い胸を突き刺す感情が混ざり合って、何とも言えないモノが胸の内を燻っているのだけははっきりと理解できた。
不意に、何か鋭い刺激が体を貫いた。ハッと我に返ってみると、それが激痛であることに翔一郎は気づいた。しかし、既に朦朧とした頭はそれを『激痛』と理解しつつ、肉体へ信号を送ることはしなかった。
まるで他人事のように現実が目の前で流れていく。近くに放置されていた丸鏡で思い切り殴られ、割れた硝子の破片は柔らかな皮膚を突き破り、肉を裂く。その隙間からだらだらと赤い血潮が流れていく。
頭も殴られたのか、頬に汗以外のぬるついた液体が流れるのを感じた。
心臓が大きく跳ね、身体全体が鼓動しているようだ。
「ヒっ―――」
喉を引き攣る様な声が聞こえた。
己を殴った相手は小刻みに震え、恐怖と驚愕を顔に深く刻み込んでいる。
(―――――あぁ、そうだ。この顔が見たかったんだ)
大嫌いなこの顔に、絶望という二文字を植えたかった。
虐げられた己の存在を否定するために。
虐げられるのは決して『己』だからではないと、『翔一郎』であるからでないと安心するために。
『次男』であるからだけであると、己に理解させるために。目の前の相手に知らしめてやるために。
「アン、タ、は…。ずっとずぅっと…そのまんま、だよ。俺のモノ、の、まんま、だよ」
そこで翔一郎は、己の言葉で気づく。
己の全ての感情が、目の前にいる相手に向けられていることを。
息の根が止まってしまいそうになる程の苦しみも、四肢を強張らせる程の憎しみも、全て。目の前にいる相手によって作り出されていることに。
けれど翔一郎は、気づかなかった。
どうしようなく相手に執着し、支配されているのが自分自身であることに。相手を求めていることに。
だからこそ、この感情が一体何なのか。 なんと呼ぶべきものなのか。 彼は理解できなかった。
翔一郎は、目の前に落ちた割れた丸鏡の上に、体重をかけて這いずるように相手に近づいていく。動くたびに、パリッと硬い弾ける音が聞こえ、微かに鋭い痛みが身体に走った。
「っ……」
距離が縮むと、相手は肩を震わせ怯える。その相手に静かな――しかし、凶暴なまでに感情が吐露した視線を送る。そして、緩慢な動作で、恐怖によって色を失せた頬へ翔一郎は手を伸ばした。
「兄さん」
明瞭な声で、相手を呼ぶ。
「俺は」
はっきりと、一つ一つ、丁寧に、相手の脳にねじ込むように、 囁いていく。
「アンタが」
「憎くて」
「憎くて」
「憎くて」
「…――――たまらないよ」
この感情は紛れもなく、彼にとって『憎悪』であった。
憎悪という言葉が、この感情に最もふさわしい名だと思った。
相手の何もかもを壊したくて、奪いたくて、手に入れたくて――――。
そして、そのことしか考えられなくなる。この感情を生み出す相手のことしか考えられなくなる。
ただ、憎かった。憎くてたまらなかった。
憎いという言葉でしか、表す術を知らなかった。
けれど、この感情が、彼―――翔一郎にとって、紛れもない真実であった。
だから、低く重く囁いた。深く根付かせてやりたかった。この感情を。
そして、己のようにしたかった。
己のことしか考えられないようにしたかった。
翔一郎は、そっと顔を近づけた。
変わらず恐怖に怯えた表情が、彼を見つめている。その表情に微かな安堵を翔一郎は覚え、小刻みに震える唇へ己の唇を落とした。
血の気が失せ、感覚が鈍くなった皮膚で、ただ微かに相手の体温を感じた。なぜか、無理矢理犯している時よりも深く一つになったような気がした。
そして、口づけを解くとただ修一郎の双眼は相手を見続け、相手もまた、彼の姿をその瞳に、脳に、焼き付けるだけであった。
それが初めての口付けであったと、互いに気づくこともなく。
「…修一郎」
掠れた声で、翔一郎は呟いた。
最期に口をついて出たそれは、決して嘲る言葉でもなく、罵る言葉でもなかった。
憎くて、憎くて、憎くて、たまらない。 ―――――その者の名であった。
肆・了
あやつなぎ 完
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